第53話・白百合の知らえぬ恋は・5

 首尾よく女の肩を捕まえたーーと思った瞬間、男の胸に飛び込んできたのは、約10kgの重量の布のかたまりだった。

 つかむべきものをつかみ損ねた手ごたえの無さと手にかかる予想外の重みで、ぐっと足がもつれる。たたらを踏みながら男がおそるおそる腕を上げて見ると、色鮮やかな五色の布だけが自分の手中にあった。

 何が起こったのか解らず呆然と手の内の布を見ていた男がようやくいぶかしげに眉をしかめる。

 ーーと同時に、重く重ねたまま脱ぎ捨てられた袿のど真ん中に衝撃が飛んできた。

「……ぐ……っ」

 布越しにも足の形が判るほどの強い蹴りがみぞおちをえぐった。布の重みと重い蹴りの相乗効果が男を真後ろに吹き飛ばす。まさか女が反撃してくると予想していない男は、飛び込んできた袿の重さに意識と視界を奪われたまま無抵抗で吹っ飛ばされ、側にあったいくつもの几帳を薙ぎ倒して倒れた。

 振り向きもせず体重を乗せて半回転した犬君は、そのまま余力で回転して脚をもとの位置に戻す。そのまま一枚だけ引き抜いておいた単衣の一枚だけを頭にかずいて顔を隠した。

 足元に倒れた几帳を引きずっていってその丁字型の柱で男の肩を押さえ込み、ひざまずいて相手を検分する。頬を軽く叩くと瞼に動きがある。束帯の色はあかで、意識はない。脈を取ってみると、正常に拍を刻んでいる。頭も打っていないし、とりあえず命に別状はないだろう。

(では、こいつでいいか)

 ふと、魔が差したように犬君は思う。どうせ倒してしまったのならこいつでいいではないかと。

 もともと衛士を殴り倒して脱がせて着ているものを入れ替え、そのまま内裏を退出してしまうつもりだったのだ。今殴って意識を奪ってしまったのなら、別に殿上人だって構わない。

 服の色から察するにこの男はたかだか五位。殿上人には違いないが、五位ならさほどの騒ぎにはなるまい。赤い色は脱出するにはやや目立つものの、それはそれで正面から帰宅する手段が見えてくる。衛士を殴って脱がせるよりこの空き部屋で着替えたほうがゆっくり着替えもできるだろう。

 犬君はおもむろに男の服に手を伸ばす。ごそごそと衣服を脱がせながら、今このとき内裏で最も治安の悪い人物は心の底からため息をついた。

 今なら弘徽殿の女御が犬君を殿舎に招くのにためらいがなかった理由がよく解る。別に女装して女房にまぎれこむまでもなく、ある程度の身分の者だとはいえ後宮には普通に男が行き来しており、強引な色恋の誘いなどありふれていてそうでなくても油断がならないのだ。

「それにしても白昼堂々男が女を襲うとは……内裏の治安はどうなってるんだ……?」

 いかにも乱れた世相を嘆くように天を見上げているが、もう一度言う。今この瞬間、内裏で一番治安が悪いのはこいつである。


 そのときだった。

「うわあああああああ!!! な、なんてこと!? 内裏で白昼堂々殿方が襲われるなど、内裏の治安はどうなっているのですか!?」

 犬君のいる細殿の入り口側から悲鳴が上がった。

 しまった。見られてしまった。でも女人には暴力をふるいたくない。どうやって見過ごしてもらおう。

 冷汗をかきながら顔を上げると、ふっくらとした柔和な女房がこちらをにらんでいる。その顔を、犬君はよく知っていた。


「龍田……殿?」


  ◇◇◇


 とりあえず龍田中納言が迅速に人を呼んだので、犬君が殴り倒した五位の男は無事に身内に引き渡され、医師によって迅速な治療が施された。

 犬君はといえば「うちの女房が空き部屋に連れ込まれて無理矢理契りを交わされそうになっていたので二人で泣く泣く叩いて撃退しました」と臨場感たっぷりに身体を震わせながら泣く龍田の嘘により、お咎めなしで弘徽殿に戻されることになる。

(これが……内裏で生き抜く知恵……)

 犬君は思わず天井を仰いだ。


「まったく……」

 とりあえず犬君を自分の部屋の中に座らせ、龍田はため息をついた。

「まったく軽率な! 弘徽殿を出てどうなさるおつもりだったのです!?」

 犬君も負けじと言い返す。

「穏便にしようと思わなければ、なんなりと逃げる方法はございます。衛士のひとりでも殴り倒して服を入れ替えるとか!」

 龍田は頭を押さえ、うめくように言った。

「おとなげないことはやめてください!」

 そしてしばらく顔を手で覆ってため息をついていたかと思うと、ふいに声をひそめて語り出した。

「……わたしが幼かった頃……、この髪は今よりも赤く縮れており、実の母ですら妾を鬼っこと呼びました」

 唐突な昔話に、犬君が「ん?」と首を傾げる。

「入内はもとより縁談も叶わぬと嘲り笑われ続けた少女時代、妾の夢は早く大人になって出家することでした。尼になればもう、髪や顔がよろしくないことに悩まずに済みますので……」

 女にとって、出家とは恋愛から降りて穏やかに暮らす唯一の手段でもある。しかしそれを幼い娘が望むほど苛烈ないじめとは……。

 犬君は絶句しながら龍田の顔を見つめる。

「なぜ私にそんなお話を?」

 龍田はにっこりと目を細めて微笑んだ。

「聞いていただきたいのですわ。そして弘徽殿から出て行かれる前に、少しお話がしたいのです。あなたもきっと、わたしと女御様に似た主人を慕っておいでだと、お見受けしましたので」

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