第52話・白百合の知らえぬ恋は・4
白い。庭に見える月が今宵は冴え冴えとしている。晴れた日に見える満ちた月はこんなにも皓々と輝いているのか。月はもう低く傾いて屋根の上にある。そこから黒い屋根に降り注ぐ光は真冬の朝の霜のようだった。
隣の人を見れば、ただでさえ雪のような髪が差し込む月の光でより白くほのかな輝きを帯びている。
こんな感傷は良くないと思うのに、ふと詩の一節がくちびるからまろびでる。
「月の耀くは晴れたる雪の如し……」
晴れた朝の雪のような男は口許をほころばせ、ちょっと起き上がると部屋に飾ってあった寒白梅を手折って犬君の髪に挿す。
「ならばお前は、俺にだけ照れてもくれるのかな」
汗ばんで冷えた頬を、温い指がぬぐう。自分の肌が湿っているせいだろうか、その指の温度を熱っぽく感じる。
「照れるの意味が違いまする……」
そのまま流れるように頬に張りつく髪を撫であげたその人は、ようやくあらわになった額にくちづけて微笑った。
「寝ていて良いよ。まだ身体が怠いだろう」
この身は灌頂したそのときから、人の肉体の快も不快も捨てた。人と交わるのはただ菩薩の代わりとして救済を与えるためだけに許され、己の愛欲のためならずーー、そう、教えられた。
「……私を、人間扱いする必要など、あなた様にはございませんのに」
眉をよせる犬君の瞳に、蜘蛛の糸のような光が映り込む。絡め取られるようなその光に、犬君は地獄からの救いを見る。
「人間扱い、か」
犬君の瞳を見つめ返す男の目には、夜天を凝らせた玉のような瞳が涙を讃えて水鏡のようになり、そこに映り込んだ自分の金の髪の影でひび割れたように光るのが見えているだろう。
「その言い方で一番傷ついてきたのは俺だ。二度と口にするなよ、犬君」
◇◇◇
「…………」
犬君は弘徽殿の隣で現在空室となっている常寧殿の細殿に潜んでいた。
出ていけなどと言われて正直に暇乞いして正式に退出するのも癪だった。桐壺から外に出る方法を推理するために呼び出されたのだから、いろいろ考えてはいるし、なんとか実用的な案は出せるだろう。
というわけでさっきからずっと座って脱出の方法を考えている。
そうなると意外にできることは少ない。役所というものは、正式に申請したことには意外と自由があるが、非公式に何かしようとすると何かと不都合が生じて容易にはできないようにできているのである。
「……衛士のひとりでも殴り飛ばすか」
犬君はようやく決心がついたように真剣な表情で顔を上げる。ただし言っている内容はろくでもなかった。
脱出方法に頭を巡らせている犬君は、気づいていなかった。通りすがりの公卿が空室のはずの常寧殿から人の気配を感じて足を止めるのを。
男はしばし黙って周りを見回すと、開けっぱなしになっている部屋をそっと覗き込む。開けっぱなしで一人とは無防備なことだとほくそ笑む男とは裏腹に、犬君はいまだこちらを覗き込む人影に気づいていないかのようにぶつぶつと独り言をつぶやいている。
「よし!」
意を決して立ち上がり拳を握りしめる。その瞬間だった。
犬君の背後から、室内に忍び込んだ一人の公卿が「無防備な美しい女房」の薄紫の袖に手を伸ばす。
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