第50話・白百合の知らえぬ恋は・2
――本日七月九日午前、弘徽殿の女御の回想
「蔵人の
不意に言われ、犬君が書き物の手を止める。
「どのような御方にございましょう」
犬君が取り次ぐ相手の特徴を確認するので、弘徽殿は簡潔に答える。
「蔵人は独特の緑袍を着ているからすぐに判るわ。それにひと目見たら忘れないはずよ。若いのに雪のような白髪をしているの。乞巧奠の歌合で見たの覚えてない?」
言われると、犬君はすぐにうなずいた。
「ああ! なるほど、判りやすいです。承知いたしました」
弘徽殿はさりげなく犬君の表情をうかがい、何事もなかったかのように命じる。
「中身は図書寮から取り寄せた本よ。到着したらあなたが受け取って頂戴」
「かしこまりました」
うなずいて、そのまま淡々と仕事を続ける犬君を、弘徽殿は不可解そうにじっと見つめた後、思い切って声を掛けた。
「あなたがつきあってる相手は、紀晴朝ね?」
殿上人の中に寝たことのある相手がいると、犬君は言っていた。
今年、陰陽頭のたっての推薦で蔵人に任ぜられた紀晴朝は、平安京の防疫と民間宗教者の管理を司る祇園執行・
厳密には六位以下の身分の者が例外的に蔵人(帝の身辺の雑務係)に任ぜられている「六位蔵人」は弘徽殿の感覚では「殿上人」ではないが、庶民から見れば内裏に上がる人間はみんな殿上人であろう。
弘徽殿の詮索に、犬君は軽く首を傾げて笑う。
「何をおっしゃいますやら。私と晴明様は何一つ接点がございません。宴でお姿を拝見したのみにございます」
からかわれた女官が本当に根も葉もない噂を一笑に付す――そんな軽さで犬君は流そうとしている。
させるか。弘徽殿はなんでもないことのように笑いながら追い討ちをかけた。
「またまたぁ。だから怪しいのよ、解ってるでしょ」
そうして今、自分の憶測が正しいと確信した理由を、犬君に突きつける。
「逆に逢ったことがないなら、
弘徽殿としては、軽い恋の話題のはずだった。そして善意のからかいのはずだった。もうこれは相手は晴朝で間違いないし、相手が晴朝ならなんの問題もなさそうだから、用事にかこつけてちょっとだけ逢わせてあげたいと。
しかし――次の瞬間、弘徽殿はいやに冷たい気配を感じてぞくりと背を震わせる。
そっと犬君の顔を見上げると、表情の無い黒い瞳の奥に冷たい蒼が揺らいだ。
(……え? それは、どんな感情?)
確かめるように目と目が合った瞬間、弘徽殿の手のひらに氷雪を握るような冷たさが走った。
犬君は無言でじっと弘徽殿を見つめている。ひとつも抗議の声は上げないけれど、それは、侮蔑だった。一瞬にして空気が凍てるような。
恐ろしい、と思うより先に震えが来た。恫喝どころか一声も上げずにぎゅっと引き結ばれた唇に。今私は睨んでいるぞとばかりの仕草で威圧するでもなくただ静かに怒りと絶望を讃えて見つめ返す黒い瞳に。
弘徽殿はしばしぼうぜんとした後、はッと低い声を出した。
「……あなた。今どんな顔をしているのか解っているの?」
ようやく口にした弘徽殿の短い言葉に、烏羽玉の瞳の緊張が解けて瞳孔に光が戻る。犬君ははっと頭を下げた。
「ご無礼いたしました」
弘徽殿は犬君を睨んでいる。それは強い怒りでもあり、納得のいかなさでもあり――そして認めたくないことに――ちょっとだけ、嫉妬だった。
この世には、なんと美しく怒り狂う人がいるのだろう。
あわてて下がる犬君の裳裾を見ながら、震える手を袖の中から出してぎゅっと握り合わせた。
犬君はきっと、雇い主に直截な怒りを向けたことで叱られたのだと思っている。しかし弘徽殿が恐ろしいと思ったのはそういうことではない。
あんな美しい、美しい鬼のように怒りを滾らせる人間がいるのだ。
「出て行きなさい」
弘徽殿はなるだけ感情を抑えながら、そう言った。
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