第48話・紫の匂える君へ・11
「それでは犬君がうまくやってくれたのですね」
突然表情のない顔で部屋に転がり込んできた弘徽殿の女御の髪を梳きながら、龍田中納言が嬉しそうな笑顔で言う。今日の大変な騒動のことを話しても楽しい物語のように聞いていた龍田だ。心配しないの?と言っても「弘徽殿で最も賢い女御様と犬君がそろってるんですよ。解決しないわけがありません。
「まあね……」
弘徽殿は龍田の膝の上に転がりながら浮かない顔で言った。
手を伸ばし、弘徽殿は何かを確かめるように、自分の目先にこぼれかかる
龍田が聞きたがるから、事件のあらましは膝の上に転がりながらひと通り話したけれど、桐壺に初めて対面したことだけは言えずにいる。
「ねえ、龍田。わたくし、あなたの髪が好きよ」
膝の上に転がったまま、弘徽殿が鈴を鳴らすような声でささやくと、龍田は笑って答える。
「女御様の
軽く流すように答えた後で、龍田はふと言葉を区切り、真剣な顔で弘徽殿の顔を見つめる。
「しかしながら――嘘でも、女御様がこの髪を褒めてくださるおかげで、
弘徽殿は「ふふ、大袈裟」と笑って、戯れに指に巻きつけた髪を軽く引っ張る。
「わたくしはずっと変わらないし、変わるつもりはないわよ。――ねえ、入内するときあなたに言ったことを覚えてる?」
「はい」
龍田は嬉しそうにはにかむ。
「懐かしゅうございます。龍田にこの世の望月を見せてくれると、お約束してくださいました。蝶子様が拾ってくださらなかったらどこにも行き場のなかった女に、一生ついてきてくれと」
弘徽殿は深くうなずく。
「ええそうよ。紅葉には月よ。わたくしについてきてくれたら、この世の望月を見せてあげる」
「もう見ておりますよ。龍田は蝶子様の傍にいられて、この世で一番の幸せ者にございます」
いつも穏やかな龍田がこの話のときだけは食い入るように弘徽殿を見つめて答えるのを、弘徽殿は満足そうに笑いながら頬へ手を伸ばす。
「大袈裟なのよ、龍田は」
しかし冗談めかして軽く龍田の頬を叩いた後で、ふと弘徽殿は拗ねたように顔をそむける。
「わたくし、がんばってるわ。そうしたくてがんばってるのよ。でもみんなお兄様を怒らないし、それどころかあの人のことをいいお兄様じゃないですかって褒めるの。あの人が嫌いな、わたくしの、前で……」
「蝶子様」
龍田はそっと手を取る。優しいぬくもりが手を挟む。
「それは――皆様、蝶子様が好きだから申しているのですわ! 本気でお兄様のほうが正しい、良い人だなどと思っている者はおりません。……よく考えてみてくださいませ。弘徽殿の女御様に向かって、ご身内の悪口を言える方などおりましょうか」
解っている。すべて自分への気遣いなのだと解っている。でも―― 「でも、」と拗ねる気持ちに重ねるように、龍田は微笑い、弘徽殿の手をぎゅっと握りしめた。
「でも、しかし、女御様は誰かにお兄様のことをちゃんと叱ってほしいし、褒めるなら蝶子様のことご自身をいっぱい褒めてほしかったのですよね? もっともなことにございます。蝶子様は頑張っておられるんですから」
好きだ。この優しいぬくもり、鷹揚な微笑み。龍田だけがわたくしを見てくれる。褒めてくれるし、叱ってくれる。
膝にごろごろと頬を摺り寄せたそのとき、
「あ、そういえば!」
龍田が不意に思い出して手を叩く。
「犬君も後でよく
にこにこと尋ねる何も知らない龍田に、弘徽殿は甘える頬を止めると、再び顔を翳らせて言った。
「……犬君なら、もういないわ」
◇◇◇
透渡廊から見上げる空は薄く日が差して、灰色がかった青をしている。
弘徽殿が帝の私的空間である清涼殿に最も近い殿舎なら、歴史上東宮御所あるいは東宮妃の住居として機能することの多い梨壺は、渡り廊下一本で内裏の政治的な空間に繋がっていく。
父を同じくする兄妹でありながら、その姿は黙っていると憂鬱げな美貌の梨壺とは対照的だ。
強情なほどまっすぐな硬い黒髪。大好きな蹴鞠で日焼けした、皇子にしては少し浅黒い肌、頬に散るにきびの痕。それすらも快活な印象に変える闊達な第二皇子、梨壺の異母兄、そして夫――東宮が、もう月も消えた明けの空から梨壺へと視線を移す。無邪気な仔犬のような瞳が、今は苦渋と困惑を込めて妹を睨み据えている。
「……
腕組みをして睨む男の顔からは、誰もが爽やかと褒め称える笑顔が消え失せている。
梨壺は鷹揚に笑って通り過ぎようとした。雑に羽織られた夜天の色の袿から、妹の趣味ではない甘い香の匂いがする。
「何も企んでなどいないさ。あるとすれば隠し事ばかりだ」
瞬間、東宮が強く腕を掴み、透渡廊の欄干に梨壺を押しつけた。
腰で締めずに着流した白い直衣が床の上になだらかに波打って、「兄」にしか許されないその装いをどこか婀娜っぽいと感じる。自分しか見られないくつろいだ服装。
梨壺は口角を上げ、挑発するようにささやいた。
「兄様、あなたにも人の
◾️約一ヶ月の夏休みをいただきます。
次章「白百合の知らえぬ恋は」は2024/08/23更新予定です◾️
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