第47話・紫の匂える君へ・10
「……まさか、弘徽殿の女御様がお助けくださるなんて……」
御帳台――白い薄絹の帳で覆われた畳の寝所で、その人は気恥ずかしそうに微笑んでいた。
「――という言い方は失礼ですわね……」
白い単衣の肩から畳の上へと広がるつややかな黒髪。その姿は直に見ると想像以上に優美でたおやかだ。
桐壺を楊貴妃に喩えることが不吉でないならば、なだらかな肩からやわらかく広がる薄絹の単衣は雲のよう、顔立ちは香りを凝らせた花のよう。殊に
さすがに血縁だけあって顔立ちはほんのり鞠子に似ている。自分と同じ年にしてはやや幼くも見える。無邪気な少女の顔に、年相応の落ち着きと儚げな憂いが加わった面差し。彼女がはにかむと、いろんな思惑や立場なんか今すぐ投げ捨てて抱きしめてしまいたくなる。
頬はふっくらとしているのに、首筋や腕は相変わらず折れるように細くて、あの白くてきめこまかな肌――真珠みたいな肌って、ぜんぜん大袈裟な表現じゃないんだわ。
弘徽殿はしばらくぼうぜんとなっていたが、彼女がまだ蒼白い顔で上体を起こし、姿勢を整えようとするのを見るとあわてて手ぶりで制止した。
「いいから寝ていなさい」
少し戸惑いながらも御帳台の中に上がり込んで、まだ起き上がろうとする桐壺の肩をそっと床に押さえつける。
下心はなかった。本当だ。しかしふと冷静になれば、かっと頬が熱くなった。梨壺に嫉妬したよりも近い、まるで桐壺を組み敷くような格好に。そうしておそるおそる桐壺の顔をうかがえば、桐壺は本当に何もよくわかっていないような不思議そうな顔で、じっと自分の顔を見上げている。
その無防備な姿に動揺した弘徽殿は、あわてて桐壺の袿を拾い上げてその顔にかぶせてしまう。
ずっと願い続けていた。御簾越しでいい、あなたに逢いたい。袖だけでいい、あなたに触れたい。衣擦れだけでもいい、あなたがここにいる気配を感じていたい。人伝てでもいい。あなたと言葉を交わすことができたなら。
たとえその姿を見る機会が、他人のものになりに行くそのときだとしても、ひと目見るだけで生きていけると思った。
その人が今、――何の隔たりもなく、自分の目の前にいる。
弘徽殿は動揺のあまりぶつけるように着せた袿を直してやりながら、高飛車に顔を背ける。
「たまたま通りがかっただけですわ! べ、べつに桐壺じゃなくたってそうしたわよ。いいから無理はしないで寝ていなさい。この状況でまた倒れられたら、わたくしが何かしたみたいで困るんだから」
言い捨てるだけ言い捨ててあわてて出て行こうとすると、弘徽殿の袖を、細い指がぎゅっとつかんだ。
「待って。まだここにいて! ……くださいませ」
ぴたりと。弘徽殿の動きが止まる。自分の袖を握りしめる指が少し赤く見えたのは、桐壺らしくもなく強い力で握りしめているせいか、弘徽殿の真紅の袿の色がその白い指に映り込んでいるだけなのか。
「だとしても! 真っ先に駆けつけてくれたのが弘徽殿の女御さまだったと聞いて、わたし、うれしかったんです。わたし……あなたには、嫌われてると思っていたから」
息が止まる。
壊れものに触れるように、桐壺の頬に手を伸ばした。頬は小さく、弘徽殿の手のひらにちょうどなじむようだった。さらさらとした髪の感触が手の甲をくすぐる。そのまま魅入られるようにくちびるを重ねようとした弘徽殿は、しかしすんでのところでためらい、桐壺の顔をぼうぜんと見つめる。
「弘徽殿の女御さま……?」
桐壺の不安げな声にようやく我に返った弘徽殿は、少し顔を遠ざけ、ひとすじの黒髪を震える手にすくい取ってようやくそこにくちびるを押し当てた。
「紫の匂へる妹を憎くあらば 人妻ゆえに我恋ひめやも(禁色の似合うあなたを憎いと思うのならば、どうして人妻なのに恋をするというの!)」
髪はひんやりとしていた。夜を溶かしたような青み差す黒、
「…………」
顔を上げると、桐壺の瞳が当惑したようにまたたいている。かすかに震える頬に見惚れて――数瞬。弘徽殿は、はッと顔をそむける。
「ごめんなさい! 忘れて! 忘れて、お願い、桐壺!」
とんでもないことを、している。
(だって、つい)
(いや、「つい」じゃないわよ! こんなこと――)
自分の所業に動揺した弘徽殿は、振り返りもせずに御帳台を飛び出す。
かぼそい声が自分を呼んだ気がしたが、振り向いて確かめる勇気がなかった。
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