第46話・紫の匂える君へ・9
「手応えは上々、つつがなく呪詛返しを終え、桐壺さまは落ち着いてお休みでございます」
犬君がひざまずいて報告すると、一同から一斉に安堵のため息が漏れた。
犬君以上に疲弊した表情の女性たちの中で、唯一顔色が戻った鞠子だけが嬉しそうに菓子を差し出してくる。
「ようやったぞ黄楊姫! 褒美に索餅でも食って休むが良い! ちょうどさっき、世にも美味い食べ方を発明したところなのや!」
待機中の女性側のここまでの事情を知らない犬君は「索餅?」と首を傾げながらも、仕草だけはありがたそうに受け取る。
「さて、」
梨壺が凝った肩をひねりながら、やおら立ち上がる。
「問題がないのなら、今度こそ帰らせてもらう。もう僕がいなくても構わんのだろう?」
そうして内侍に視線を遣ると、内侍も無言で立ち上がった。
「少しだけお待ちくださいませ」
犬君が座したまま声を掛ける。
「なんだ?」
梨壺も戻る気などなさそうに、軽く顔だけ振り向いて尋ねた。
犬君は頭を下げ、軽い報告のような
「呪詛返しとは、かけた相手と同じ形式で行うのが一番効果的なのでございます。……ゆえに我々は、それがいかなる呪いなのかをできる限りつぶさに占い、ただちに追跡を行います。返す呪いはできる限り同じ宗派の同じ形式で行ったほうが効果的ですので。例えば――宗教、宗派、祭文・呪文の類は? なまりや語彙の癖はないか? 使われた儀式や供物は――?」
犬君はそこで言葉を切り、声を低めて言う。
「桐壺様にかけられた呪詛は、土御門陰陽師――朝廷の正統なる陰陽師によるもの、と推察いたします」
梨壺は一瞬だけ動きを止めて真顔になる。しかしすぐに興味を失い、袿をひるがえした。
「それがどうした」
梨壺は背中を向けたまま、つまらなさそうに答える。
「そんなこと、僕に言ってどうする。ご主人様にでも報告してやれ」
犬君が何か言おうと口を開く。
「――呪詛は、」
そのとき、突然強い力で几帳が倒され、茶色い縞毛のかたまりが目にも止まらぬ速さで部屋へと飛び込んできた。桐壺の女房たちが口々に悲鳴を上げ、飛び退いて倒れる。豪速の毛玉はそのままこちらへと突進してくる。
その先で、梨壺がふっと笑うと、両手を広げて「それ」を受け止めた。
「
「それ」は梨壺の腕の中でもがき暴れ、それから――甘えるような高い声で「ねうー」と鳴いた。
犬君がそれを見つめ、意外そうにつぶやく。
「……仔猫、本当に飼っておられたのですね」
寧虎ーー部屋に飛び込んできた毛のかたまりは、よく見れば可愛らしい仔猫だった。梨壺の頬にいじらしく胴をすりよせている。梨壺は頭へとよじ登ろうとする毛玉を抑え込みながら、ニッと笑った。
「安心しろ。人間の可愛い仔猫ちゃんのことも、僕は好きだ。特に
言いながら梨壺の視線は犬君のほうを向いていない。梨壺は優しく微笑みながら袿の内側に猫を抱き込む。内侍が猫の首につけられた紐を折り畳んで手渡しながら何か小言をささやく。梨壺は笑って答えると、猫の紐を受け取り、出口に向かって身を翻した。
歩いていく途中で、梨壺はふと思い出したように顔だけ振り向いて、弘徽殿に言う。
「あ、そうだ弘徽殿。君はあまりにも喋り方がうかつだ。よくよく気をつけたまえよ」
一瞬何を言われたのか解らない弘徽殿は不快そうに眉をよせる。
梨壺が口許に笑みを含む。
「あなた『も』」 」
意味ありげにささやかれた簡潔な言葉に、弘徽殿は大声で悲鳴を上げた。あっというまに耳まで赤くなる。
それを見た梨壺は口角を上げた。
「やはりか。まあ……うん、判ってたけどな。君はあからさまに桐壺が好きすぎる」
瞬間、弘徽殿は悲鳴を飲み、あわてふためいて手を振る。
「あ、あの、おっしゃらないで。誰にも。桐壺に手を出したりはしないから、その!」
いつになくあわてた様子を見て、梨壺は目をすがめる。それから肩を揺らしておかしそうに笑った。
「誰が言うか。そんなことで君や右大臣を失脚させるほどつまらんことはない」
言い捨てた梨壺は、今度こそ桐壺の殿舎を出て行く。弘徽殿は言い返そうとしたが、今度こそ戻る気配がないのを察して口を閉じる。
「猫にネコってつけるって、どういう感覚してんのよ……」
弘徽殿は仕方なしに悪態をつくと、犬君に声をかける。
「しかたないわ。わたくしたちも帰りましょ」
桐壺にもどうぞお大事にと――傍にいる女房たちに告げて帰ろうとすると、桐壺の御帳台に侍っていた女房があわてて飛んできた。
「弘徽殿の女御様! あの! ただいま当家の姫がお目覚めになり、一言だけでも女御様にお礼が言いたいと!」
おそれながら少しだけお時間をいただけませんか?――おそるおそる尋ねる女房に、弘徽殿はぽかんとして犬君に視線を遣る。
「え。わたくしが……? いいの?」
犬君は大きくうなずいて座り直した。
「もちろんでございます」
犬君と桐壺付きの女房の声がそろう。途端に、疲れていた弘徽殿の頬に血色と抑えきれない笑顔が戻った。緩む頬をパン!と叩き、弘徽殿は襟元を整える。
「行ってきます!」
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