第45話・紫の匂える君へ・8
弘徽殿はあわてて兄との面会に借りていた間仕切りの中に戻る。
「黄楊姫!」
青褪めた顔の犬君だけが、そこにいた。力の入らない袖をだらりと下げ虚空を見つめていた犬君は、弘徽殿の姿に気づくとおもむろに姿勢を正して頭を下げた。
「頭中将様は少しばかり漢詩のお話をした後、ご機嫌よくお帰りになられました。お仕えする方のお兄様がたいへん聡明でいらっしゃること、光栄にございます」
大丈夫、大丈夫だった! 犬君は無事だし、桐壺の容態も悪くないって、梨壺は言ってた……!?
そのとき、初めて弘徽殿の目から涙がこぼれ落ちた。度重なる怒りと不安が堰を切るように。
「馬鹿! 桐壺のことはどうするのよ!!!」
犬君は少し顔を上げると、はて?と首を傾げた。
「桐壺様のご容態はいまだ悪しうございますか? だとすれば医術的な問題を――」
そこまで苦しい息の下から平静を装って答えていた犬君の上体が傾いだ。弘徽殿はあわてて駆けよる。
弘徽殿が抱き起こそうとすると、犬君はさすがにそれは固辞して自力で姿勢を整えた。
「ど、どういうことなの!?」
「見ての通りにございますよ、弘徽殿の女御様」
言いながら、犬君はやおら両肘に力を込めて開く。すると襟が開いて、幾重にも重なった服が一気に肩から滑り落ちた。芍薬のはなびらのごとく重ねられた布の固まりが床にばさりと落ちると、そこには単衣袴姿の犬君が座している。
女房装束は基本的に、すべて重ねたまま着脱することができる。だから下着である単衣だけ残し、五つ衣から上は秒で床に脱ぎ捨てることができるのだ。いわゆる「空蝉」である。源氏物語の空蝉という女君がこの手段で下着姿になって光源氏の夜這いから逃げたのは有名な話だ。
単衣姿の犬君は表着に腕を通しておらず、袖から抜いた手は胸で組まれている。指を複雑に組み合わせたあの独特の手の組み方はーー密教の、印……?
「こうしてずっと印を結んで術を続けながらお兄様とお話ししておりました。服の内側に空間ができる、女性の服とは誠に便利なものでございますね」
手を解いて滑り落とした袿をついと肩先へ掴み上げると、犬君は勝ち誇ったように口角を上げて笑った。
「実はお兄様が訪れた時点で、ひと通りの儀式作法は終えておりました。後は印を結び、心の中でひたすら祈念するだけでよかった。だから見た目にはバレないよう、そっと袖から腕を抜き、服の内側で印を――女物の服はゆったりとして、袖を抜いても外からは違和感がなく、腕が重くない分かえって動きやすくなる。それを、他の女房たちから学んでおりましたゆえ」
そうして指を解き、肩から滑り落した服を引き上げて犬君は誇らしげに笑った。
「ですから申し上げましたでしょう? どちらも巧くやってみせますと」
弘徽殿は目を点にして、着衣を直す犬君を見ている。
勝ち誇ったようなドヤ顔はしているし、原理が解れば(そんなの誰にもできるわけないじゃない……呪詛と回文和歌の創作の二重思考よ……? と当惑した顔にはなるものの)納得できる話ではある。が、それにしては犬君の顔色が尋常ではない。
「……その……なんだか体調が悪そうなのは、大丈夫なの……?」
おずおずと尋ねると、犬君は首を傾げ、それから「ああ!」と笑った。
「これはただひどく疲れただけにございます。聡明で博識なお兄様のお相手をするのは、さすがに私も骨折りでございましたゆえ」
これはお兄様を
「白居易は誰もが通じても、李白はなかなかああまで語れません。失礼を申せばもっと野心の高い方かとお見受けしましたので陶淵明がお好きなのは少々意外でした。何より親の身分もない女房が漢詩どころか史記を引いても面白がっていらっしゃいました。面白い御方でいらっしゃる」
兄は、本当に「話題の女房」と話をして帰っていっただけなのだ。もちろんやり方が横柄で無礼には違いないし、どうせ自分を持ち上げる話題作りに妹の女房をダシにしに来たに違いないのだが。しかしともかくも。
「じゃあ……呪詛返しは成功しているし、お兄様はあなたに無体なことはしなかったのね……?」
無事でよかった。
弘徽殿は大きく息をつき、ぺたりと床にへたり込んだ。
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