第44話・紫の匂える君へ・7

「落ち着けよ、弘徽殿」

「だって!」

 兄と犬君を置いて桐壺のもとへと走ってきた弘徽殿は、怒りをあらわにしながら、桐壺の御帳台にちゃっかり上がり込んでいる梨壺をにらみつける。

 梨壺は穏やかな寝息を立てている桐壺の頬を確かめるように撫でて言った。

「この通り、桐壺の処置に関しては無事終わっている。そう心配するな」

 梨壺にとっては純粋に医療行為で他意はない。そう知ってはいても、胸がざわめく。帳に囲われた寝所で頬をよせあっているふたりの少女、青褪めた頬を隠すように被さって揺れる梨壺のゆるやかな癖毛。少女にしては大きめの梨壺の手が脈を取れば、折れてしまいそうなほっそりとした白い手首、ーー。

 梨壺は桐壺のことだけは色恋を介さない純然たる友と思っている、だから桐壺をあんなに大事にしている、それを疑うわけではないが、あの、帝にとてもそっくりな手ーーあの手を見ていると、起こるはずのない光景をまざまざと想像してしまう。吐き気がする。あのか細い手首を床に縫い止める蜘蛛のような長い指……。

「黄楊にさせていたのは、呪詛返しよ……」

 あふれる怒りは兄の横暴に対してか、目の前で桐壺の看病をしている梨壺への嫉妬か。ぐちゃぐちゃな感情のまま弘徽殿は梨壺を睨めつける。

 「秦川の機織りの女」と、兄は犬君に呼びかけた。あれは、李白の漢詩と、昨夜犬君が織姫を演じたこととを掛けた謎解きだ。

 唐の詩人・李白には、恋する女性になりすました詩の一群があり、その中に「烏夜啼うやてい」という一篇がある。罪人として遠くに遣られた夫を想い、泣きながら「廻文旋機図かいぶんせんきず」と呼ばれる回文を織り込んだ錦を贈ったという逸話をもとにした詩だ。

 だから犬君は回文で返答してのけた。しかも漢詩は女性には賢しいと言われているということを学習して和歌で返す周到ぶりで。

長き夜を長き夜を問ひ濡らしては泣きながら乞い惜しめども惜しんでも

 逆さにすれば

求めしをこんなにも果て知らぬ人を欲しいと知らない良きかな人がいいの

 という別の歌が出現する。

 どのみち元ネタである廻文旋機図そのものの実物やそれがどんな詩だったのかはよく伝わっていないのだから、原文で返す必要もない。

 だけど。呪詛返しの途中で言い争う弘徽殿兄妹を見かねて駆けつけたのだとしたら、途中で止めた呪詛返しはどうなってしまうのだ。呪詛返しは失敗すると大変なことになると聞いている。桐壺は……そして何より――術者の犬君は。あのままで無事なのか。

「……なるようになるさ」

 桐壺の脈を取りながら、梨壺はさらりと言った。それすらも弘徽殿にはいけすかない。

「そりゃあ呪詛など信じないというあなたには他人事でしょうけど!」

 声を荒げる弘徽殿に、梨壺はあきれたように目をすがめた。

「本当に兄妹そろって声の大きい奴らだ。そうやってしゃべるから、さっきの話もずっと聞こえていた。――まったく失礼な話だよ。僕が本気で兄様の子を欲しいと言ったら、どうするつもりなんだ?」

 冗談めかした仕草に反して声がいやに真剣なのを、弘徽殿は聞き逃さない。

「……あなたも、女性のほうが好きなのではないの?」

 虚を突かれたように尋ねる弘徽殿に、梨壺はふっと笑った。

「僕は多情だが、人に好きだと言って嘘だったことは、一度たりともないよ。女でも、男でも――兄様でさえ」

 梨壺を慕う女房たちが聞いたら卒倒しそうなセリフだが、その笑みはどこか皮肉を帯びている。

国母テッペンを取るだとかなんだとか、僕はそんな大それた野望は抱いていないのでね」

 弘徽殿はカッと恥ずかしくなり、頬を押さえる。そうだ、あの会話が聞こえていたということは、そこまで聞こえていたのだ。

 どうごまかそうかと頭をめぐらせていると、梨壺が笑いながら言う。その軽い口調からはもう皮肉げな響きが消えている。

「ただ、兄上達ができるだけすみやかに健やかに次々と譲位なさってくれたらと淡く夢見ているだけさ。そうなったらーーそうだな。この後宮をこのままそっくり引き受けて君達をはべらせてやるか」

 弘徽殿は思わず叫んだ。

「それのどこが大それていませんの!?」

 梨壺は相変わらず冗談とも本気ともつかない口調で猫のように笑いながら肩をすくめる。

「君にとってはそうかもしれないが、僕は降嫁しない三の宮第三皇女で次期皇后だぞ。皇位継承権が無いわけじゃない。そう大それてはいないと思うがね」

 そうしてふと真顔になると、弘徽殿にじっと目を合わせて口許をゆがめた。

「そうしたら弘徽殿、君を立后させてやってもいい。もちろん嫌がらせだがな」

「お断りですわ!!」

 怒鳴るように即答した後で、ふと思い当たることがあったように口をつぐみ、少し考えると、弘徽殿の女御は声をひそめて梨壺にささやく。

「……あの、もしかして、」

「なんだい? 僕のお妃サマ」

 どうも歯切れの悪い弘徽殿に、梨壺は不敵な笑みでからかうように問いかける。

 ふざけないで!と叫びながらも、弘徽殿はまた小声でおずおずと続けた。

「……その、あなた、もしかしてわたくしのことが……結構、好き?」

 弘徽殿にしては気弱な問いがぼそぼそと続いた後、気まずそうに長の沈黙が訪れる。

 しばらく無言で見つめ合っていた梨壺は、その長い沈黙を破るように突然くっと肩を揺らすと、声を上げて爆笑しながら高らかに言った。

「ばかな。嫌がらせだと言っているだろう? 僕はね、君の怒る顔を見るのが何より面白いんだよ、弘徽殿!」

 再び怒りが沸き上がったそのとき、桐壺付きの女房があわてて几帳の外にひざまずいた。

「頭中将さまがお帰りになられました。もう仕事に戻るから弘徽殿の女御さまにはよろしく伝えておくようにと。それから、我々桐壺の者たちにも迷惑をかけたと念入りに気遣っていかれたようです」

 弘徽殿はぶつけそこねた怒りごと几帳に八つ当たりして、「まったく!」と袿をひるがえし、悪態をつく。

「相変わらず、後のご機嫌取りだけはお上手でいらっしゃること!」

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