第43話・紫の匂える君へ・6

「……そのようなことは本当に血を流して子の一人でも産んでから言うのだな」

 重い沈黙の後に、兄・頭中将は冷たく言い放った。

 弘徽殿はにこやかに返す。

「あら、例えわたくしが皇子を産んでも産まなくとも、今だってお兄様の進退はわたくしの寵愛ひとつよ。どうぞお忘れなく、お兄様」

 兄は薄く冷笑した。

「桐壺などのような女にも負けているくせにか」

 そこで弘徽殿はようやく不快をあらわにする。

 桐壺の殿舎のド真ん中に乗り込んでやる発言か。あまりにも非常識が過ぎる。

 そもそもなぜ弘徽殿が怒っているのか。他の殿舎に他の妃の男兄弟が乗り込んでくるなど桐壺への侮辱と威圧に他ならないからだ。兄は妹がにこにこ着飾って政治のことなど知らないようにしていると思っているようだが、こちらにはこちらのやり方があるのだ。考えて考えて、積み上げて織りあげた関係や立場を。それを何も知らない男が土足で踏み荒らさないでほしい。代々の藤原の女たちが周到に根回ししてきたすべてのことを、この人たちは妹がただ楽しく抱かれていれば舞い込んでくるものだと思っているのだ。そんな男、が。馬鹿にしないでほしい。わたくしのこと、桐壺のことーー。

 顔を上げた瞬間、頭中将はぞっとした。

 それは一瞬にして空気が沸騰するような怒りだった。

 爛々と怒りを湛えた眼差しが無言で兄・儀通のりみちを睨んでいる。言い返さない、いや、言い返せないからこそ全身の纏う熱が空気の温度が変わる。紅潮した白い肌に剥き出しの殺意を込めた獣の瞳が爛々としている。

 さすがに気まずくなった頭中将が目を逸らした。苦々しい顔で「ところでだ」と話を戻す。

「昨夜の歌合せはもう仲間内ではもちきりの話題だよ。朝の蹴鞠の練習ではあの爽やかな東宮様が始終憮然としておられたほどだ。――となれば話題の面白い女、興味も湧くではないか。それも妹がどうしてもと取り立てた女房だという。お前の人を見る目を確認しに来たのだよ、蝶子。可愛い妹のために」

 またこの男は、思ってもないことを猫撫で声で言う。弘徽殿はうんざりとため息をついて口を開いた。

「みんなお忘れだけど、梨壺様は東宮様の妹君にして正妃なのよ。むしろなんというか……わたくし、安心してしまいましたわ。あの蹴鞠しかない御方にも妻の痴態を噂されて怒るような色恋の情緒があったのだと」

 すると兄は「いや、それはない」と真顔で答えて首を振った。

「真面目に蹴鞠をやれと言って怒っていた」

 再び沈黙が広がる。

 弘徽殿は遠い目をしながらため息か相槌か判らないうめき声を出した。

「そう……」

 いくら腹違いとはいえ、あの兄妹はいろいろと極端すぎるのだ。頭中将は鼻で笑いながら言う。

「それこそ何を今更、有名な話ではないか。妹君の女三宮様のほうから『いざ今宵こそ新枕すれ』というお歌を送られた話など」

 それを聞いた弘徽殿は両耳を押さえて悲鳴をあげる。

「やだやだもう聞きたくもないわそんな話! 主上おかみのためにもみんな忘れてしまいなさいよ、そんな歌」

 弘徽殿と梨壺・女三宮の仲の悪さはみんな知っている。先程の本気の怒りとは違う、駄々をこねるような反応を見て、兄はおもむろに話を戻した。

「ともあれ黄楊姫だ。そういうわけで仲間内に黄楊がどんな女だったか会って聞かせてやると蹴鞠仲間に言ってきたのだよ。なのにお前は部屋におらず、こんなところで遊んでいる。いい加減にしろと思うのも無理からぬ話だろう?」

 弘徽殿は再びうめいた。

 ああ、梨壺兄妹も話が通じないが、自分の実兄も違う意味でとても話が通じない。

「それこそあなたの勝手ではないの……」

 いい加減にしてよと叱りつけようとしたその時、後ろの几帳が動いた。

 振り向くと、呪詛返しの儀式をしていたはずの犬君が青白い顔をしてそこに立っている。

「い……黄楊姫!?」

 弘徽殿は詳しくないが、呪詛返しなど中断するのが恐ろしいことの最たるものではないのか。桐壺はどうなったのだ。そしてその生気の失せた顔色は。

 どうして!?と叫ぶ弘徽殿の後ろに、犬君はすっと座して床に手をつく。

「恐れ多くも頭中将様が私めを探しておいでだとうかがいましたゆえ」

「ほう……」

 頭中将は床にさらさらと流れ落ちる麗しい濡羽色の髪、そして頭の先から膝先まで舐めまわすように観察した後、口許に笑みを浮かべる。

「本当に、こんな女を隠していたとは。たいしたものだようちの自慢の妹は」

 そして「うん」と姿勢を直し、家族ではなく、自分に好意のある皆に向けるような人好きのする笑顔を浮かべて犬君に問うた。

「黄楊よ。昨夜の歌合せは皆感服しておったぞ。たいそう賢い女房が妹の世話をしてくれているようだとな。兄として誇らしいよ、ありがとう。しかも目の前で見るとますます美しい。――さて、機織り台の秦川しんせんの女よ、今想うことを好きに語ろうてみよ」

 考えるような間を置いて、犬君の少し蒼褪めたくちびるが薄く開く。

長き夜をなかきよを問ひ濡らしてはとひぬらしては惜しめどもをしめともーー」

 はッとした弘徽殿が振り向いて叫ぶ。

「黄楊! 答えなくていい!!」

 犬君が一瞬だけつらそうに眉をひそめた後、薄く微笑んで弘徽殿を見つめた。

「ご安心くださいませ。間違いなくやってみせまする。私は弘徽殿の女御様の女房にございますゆえ」

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