第42話・紫の匂える君へ・5

 頭中将・藤原儀通ふじわらののりみちは、弘徽殿の女御の「自慢の」兄である。

 「頭中将とうのちゅうじょう」らしい頭中将に、女房たちがみんなのぼせているのは知っている。自分で言うのも難だけど、藤原の右大臣家の兄妹はみんな顔が良いのだ。

 蔵人だけが帝から下賜される麹塵袍きくじんほうの直衣をゆったりと着こなし、輝きを帯びるような深緑のその品位にも負けない渋みのある美貌にうっすらと紫を帯びたつややかな黒髪をしている。

 弘徽殿の女御の性悪な印象を加速させる目鼻立ちのくっきりとした顔も、つややかで張りのある髪も気の強い眼差しも、兄ならば涼やかで凛とした印象になる。加えて文武両道、殊に蹴鞠の腕は有名で、彼が練習に参加すると女官達の黄色い歓声があがる。そんなこんなで蹴鞠が趣味の東宮にもたいそう気に入られている。


 そんな、兄である。


 さて、日本の後宮は厳密には男子禁制ではない。そもそも男子か女子か以前に五位以上の公卿しか内裏に上がることが許されないのだが。そして後宮に仕える子女はおおむねその身内のみから選ばれる。だから后妃の家族が面会に来ること自体は何の問題もないのだ。それが男親や男兄弟であっても。

 

 ――とはいえ。


「わざわざ違う局にまで尋ねていらっしゃるなんてよっぽどのご用事でいらっしゃいますのね。しかも要件はたかだか個人的なお遊びで黄楊に会わせろですって? まさかお兄様は右大臣家の嫡男ともあろうに、うちの黄楊のような下賤な女とつきあっていらっしゃるのかしら」

 わざわざ桐壺の一角に面会の場所を用意されて、不機嫌な表情も隠さずに座したのは弘徽殿の女御だ。それもどんな急用かと思えば、昨日歌合せに出した女房を紹介しろと言う。

 兄は皮肉を込めて笑った。

「まさか。それにあまりに言い方というものがあろうよ。摂関家の娘ともあろうものが下賤の女を取り立てたと思われる」

 兄のからかいに弘徽殿は目をすがめ、不服そうにつぶやいた。

「……そういう意味ではありませんわ」

 扇越しの妹の表情は見えない。しかし兄は見えていたとしても妹の弘徽殿の反応を無視しただろう。

 「しかしあれだ」と手の内の扇を弄びながら、長兄・頭中将は挑発的に笑った。

「藤原家に、お兄ちゃんの知らない美人の女房がいたとはな」

「…………」

 弘徽殿はかすかに眉間に皺をよせ、沈黙する。ニヤついた兄の口許が鬱陶しい。

「わたくしがどうして怒っているか解ってる? 他の妃の殿舎まで押しかけてくるなんて非常識だと言っているのよ、お兄様。後でなら黄楊とも話くらいさせてあげるから、弘徽殿の部屋でおとなしくお待ちなさい」

 こいつに配慮の話は通じないとばかりに直球の警告を告げた妹を見て、ようやく頭中将は眉を上げ、鼻を鳴らした。

「偉そうになったものだな、蝶子」

 そうして見下げるような冷たい目で妹を睨め回す。

「お前は他の妃の部屋に押しかけてくるなど非常識だとは言うが、自分は相争うべき妃同志で仲良くお茶会か? まったくいい身分だよ。為すべき役目を忘れるな」

 鋭い目許に宿直続きの疲れが見える。

「そうやって可愛らしく着飾って媚びておれば国一番にも出世できる女は平和なものだ」

 弘徽殿は無表情のまま目を細めて兄の疲れた目許を見つめる。

「ならばお兄様が入内して皇子をお産みになってはいかが?」

「ふざけるな」

 兄は眉間に皺をよせた。

「男が入内などできるはずがない。俺だって女のほうが好い」

 すると弘徽殿は扇で口を覆い、艶然と微笑む。

「あら、わたくしだって、入内しなくていいなら可愛い女の子のほうが大好きよ」

 兄は絶句し、さらに眉間の皺を深め、それからそれらの反応をすべて打ち消すように鼻で笑った。

「お前はまたそんな世迷言を……」

 妹は。たまにそういう戯言を言うときがあった。面白い冗談として聞き流すのが兄の役目だと思っていた。

 弘徽殿は女御らしく「可愛らしく飾った顔で」美しく微笑んでいる。

 わたくしだって入内するために育てられてきたのだ。いざというときになって床で醜く動転しない程度のことは言い含められてここにやってきた。それはとても幸せなことなのだ、とても気持ちのいいことなのだと言う者すらいた。しかしこじあけられてみれば、そこはただの内臓ではないか。

「戦も遠く刑死もほとんどないこの世の中、この身を捧げ、身体を裂いて血を流し、命を賭してまつりごとをしているのは女ばかりにございますわ。……ねえ、そうは思いませんこと? お兄様」

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