第41話・紫の匂える君へ・4

 思わず毒づく内侍に、親愛をこめて甘えかかるようなからかい口調で梨壺が言う。

「なーいしっ! 愛してるよ」

 なだめるように頬へ指を延ばすと、内侍はスンッと目を細めてその手をピシャリと撥ね退けた。

「可愛く言ったって無駄です」

 梨壺は笑いながら手を引っ込め、やれやれとばかりに肩をすくめた。

「……ま、そういうわけで僕は言ってやったのさ。兄様方が要らないなら僕がその女もらい受けるとな」

 そうして口の端に皮肉な笑みを乗せる。

「――困ったことに、梨壺にはこんな優秀な問題児ばかりが集まってくる。まったく朝廷の損失だよ。男くらい好きなだけ食わせておけばいいのに」

 弘徽殿と鞠子、そして居並ぶ女房たちは一様にしてぼうぜんとしている。怒涛のようにとんでもない内情が暴露されていった。皆、ついていけていない。

 有能なのは認めるがどちらかといえば堅物の皮肉屋だと思っていた内侍の色恋の乱れぶりも、そんな性格ごと気に入っているらしい梨壺が甘えるように戯れてはけんもほろろにあしらわれている姿も意外だし衝撃的すぎた。皆、ツッコむこともできずにそれを見つめている。それでいて、あまりに自然と繰り広げられる過激なやりとりだからこそ、彼女たちふたりの素顔に見えるのだ。

 反応に困る一堂の前で、ようやく梨壺はしなやかな指で索餅を割り、ゆっくりと蜂蜜へ浸す。そうして蜜をこぼさないように懐紙で受けながら口許に運んだ。

「確かに甘さがしみて美味しい。鞠子は賢いな」

 目をしばたたかせて長い睫毛を上げながら梨壺が微笑うので、弘徽殿が唇をとがらせて言う。

「それ考えたの、わたくし」

 梨壺は再び睫毛を伏せて索餅を味わいながらあしらった。

「こういうときはこどもに花を持たせたまえよ、弘徽殿。大人げないな」

 これまでの話の半分も理解していないだろう鞠子がぼうっとしていて、名指しで褒められて初めてハッと顔を上げた。どれだけぼんやりしていたのか、口の端に蜂蜜をつけている。梨壺はそれを見留めて、くすりと笑った。そして立ち上がり、鞠子の目の前に座ると、耳許に顔をよせてささやく。

「ついてる」

 息も触れんばかりの至近距離でくちびるの端を指先で拭われた鞠子は、目を丸くした。それから頬をたちまち紅潮させてしまう。

 すかさず動いたのは弘徽殿と内侍だ。弘徽殿が鞠子をかばうように抱きよせた。内侍も梨壺と鞠子の間に割って入り、懐紙で丁寧に鞠子の顔を拭き直す。

「なんだなんだ、さすがに鞠子には何もしていないだろ!」

 梨壺の言葉に弘徽殿と内侍は目と目を見合わせた。今の行動が「何もしていない」というのか。

 ふたりは目を合わせたまま深くうなずき合う。

 弘徽殿はさらに鞠子を後ろに押しやりながら微笑みかけた。

「気が合いますわね、内侍」

「おそれながら深く同感にございますわ、女御様」



 笑い合っていると、突然血相を変えた桐壺付きの女房がひざまずいて弘徽殿を呼んだ。

 不思議そうに首を傾げながらも、そばに寄る許可を与えると、その女房は困惑顔で弘徽殿に耳打ちする。

「弘徽殿の女御様! 頭中将とうのちゅうじょう様がこちらにお越しでございます」

 光源氏の親友で有名な「頭中将」だが、これはこの時代の朝廷にはよくあることとして、個人名ではなく役職名である。慣例的に帝の身辺の諸用を務める蔵人の長官「蔵人頭」が内裏の警備にあたる「近衛中将」を兼任することが多いため、「頭」+「中将」と二役を合わせて「頭中将」と呼ぶのだ。

 そして現在の頭中将は、弘徽殿の女御の兄、藤原右大臣家の長男である。

 弘徽殿の女御は一変して険しい顔になり、ひどく不快そうに言った。

「は? なんで?」

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