第38話・紫の匂える君へ・1

 緋袴の長い裾を後ろにさばき、両足を肩幅に開いてそろえる。左足が一歩踏み出した。さらに同じ足を引きずり、もう一歩。膝をまっすぐに高く上げてから拍を取るように足の裏で床を叩き、そのまま腰を深く落とす。広げた腕を左右に胸へと折ってそろえると、袴の内布に膝頭をすべらせて一気に体を反転させた。長袴の裾が紅く孤を描く。今度は逆の足を踏み出し、再びすり足で二歩。さらに体を反転させてすり足を繰り返し、計九歩。

「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、前、行」

 裳が床に流れる軌跡が北斗七星の柄杓を描く。


 犬君は手に持っていた弓を捧げてひざまずく。

 おもむろに一礼した後、片膝立ちで背を伸ばし、弓を構える。

 が、矢はそこには無い。無いまま弦に指をかけると、頬に黒鳥の羽毛はねがかすめた。降り注ぐ烏の羽根はたちまちに矢を形成し、最後に石打ちの羽根が矢羽となる。

 実体の無い矢を白く長い指が引いて射放つ。



   ◇◇◇



 狼の遠吠えに似た声が、几帳に隔てられた向こうから聞こえてくる。犬君の警蹕警告音の声だ。

「……始まったか」

 梨壺は疲れた声でそう言うと、さらに膝をくつろげる。

 どうなることかと考えるだけで憔悴しそうな弘徽殿と中宮に、内侍は唐菓子を持ってきてにっこりと微笑んだ。

「皆様方、お茶にいたしましょう。息抜きに索餅さくべいはいかがですか? 乞巧奠の撤饌おさがりで申し訳ありませんが」

 とたんに弘徽殿と鞠子は手を叩いて顔を見合わせる。

「索餅!」

 索餅は乞巧奠の供物のひとつで、糸の束に見立てた唐菓子だ。小麦粉と米粉、それから少々の塩を練って縄を編んだような形に成型し、油で揚げる。もっちりとした触感の揚げ菓子である。

 鞠子がまっさきに手を伸ばし、揚げ菓子の弾力を噛みしめて目を輝かせる。

「うまい! 鞠子は索餅が食べられる乞巧奠が好きやぞ! 儀式だけとはいえ、服を縫う真似事をさせられるのだけは辟易するがの」

 あとこの索餅も――と、鞠子はちょっと弘徽殿の前に掲げて見せて、頬をふくらませる。

「正直に言えば、もっと甘いほうが好みや」

 弘徽殿は目を丸くして、それから「わたくしも!」と大きくうなずく。

「よかったわ! 索餅の素朴なモチモチ感はそりゃあ美味しいですけど……これを甘くしたらもっと美味しいはずと思ってるの、わたくしだけじゃなかったのね!」

 鞠子がただでさえ大きな目を丸くして身を乗り出した。

「まことか弘徽殿!」

「ええ!」

 鞠子は感極まって手を差し出す。

「なんということや弘徽殿! 鞠子が索餅は甘いほうがうまいはずや甘い索餅を作ってまいれと言うても叱らんかった大人は弘徽殿だけやぞ!」

「わたくしもですわ鞠子さま!」

 弘徽殿も差し出された手をしっかと握りしめる。

 そして思いがけない食の好みの一致で結束したふたりは、索餅をより美味しく食べる相談であっという間に盛り上がった。

 しばらくして弘徽殿が世紀の名案を思いついたとばかりに手を打つ。

「そうですわ鞠子さま! 蜂蜜! 蜂蜜ですわよ、鞠子さま! はったい粉に混ぜていない蜂蜜はまだお持ちでいらっしゃいますか? 蜂蜜をたっぷりつけて甘くしたら、米粉を揚げたもっちり触感にとても良く合うとは思いませんこと!!」

 弘徽殿の言葉に鞠子ははッとした。手を打ち、尊敬のこもった眼差しで弘徽殿を見る。

「思う!!!!! なんや弘徽殿は天才か!?!?」

 弘徽殿は目を輝かせ、周りを見回すと、中宮付きの有能な女房と思しき按察使あぜちにぴたりと目を合わせた。

「ねえ按察使! 持っていらした蜂蜜はまだ残ってる? あれをつけて索餅をいただきましょう! よろしければあなたもご一緒に!」

 按察使は驚いたように目を見開き、困惑して尋ねる。

「……よろしいのですか? その……騒動の原因の蜂蜜ですのに……」

 桐壺が食べて倒れた蜂蜜を口にしようという豪胆さに按察使が慎重に確認すると、弘徽殿はにっこりと笑った。

「あら、だってあの蜂蜜に毒はないのでしょう? うちの黄楊がそう言ったのだもの。わたくし、鞠子さまと黄楊姫を信じますわ!」

 按察使は目を見開いたまままじまじと弘徽殿の顔を見つめていたが、突然ひれ伏して感極まった声で叫んだ。

「今すぐにご用意を!」

 そうしてすぐに桐壺付きの女房達と何か相談したかと思うと、美しい青磁の皿に注がれた琥珀色の甘露が運ばれてきた。

 弘徽殿と鞠子は強くうなずき合い、手に持った索餅をおそるおそる蜂蜜に浸す。

 蜜が服に垂れないように手を添えながらそっと口に運ぶ。もっちりとした歯ごたえの中からじゅわりと甘味が口に広がる。

「美味しい!!」

「美味いぞ! 弘徽殿!!」

 ふたりは一斉に歓声を上げると、今度は少し無作法なのもかえりみず、がぶりと大口でかぶりついた。

 甘い。もっちりとして少し塩気のある揚げ菓子に、長く後味を引く濃厚な甘さが絡む。

 ふたりはもはや感想の言葉もなく夢中で索餅を平らげた後、どちらからとも言わず手を差し出す。

「やりましたわね!」

 ふたりは自分の手がべたべたなのも構わず、手を叩き合って快哉の声をあげた。

 蜂蜜味の索餅でおおいに盛り上がる弘徽殿と鞠子を一瞥して首を振ると、梨壺は胡座あぐらから一気に膝を畳んで立ち上がった。そしてもう用は済んだとばかりにさっさと出口へと歩き始める。

「帰るぞ、内侍」

「はい」

 内侍はひとつ返事でそれに従う。

 困惑したのは弘徽殿だ。自分の女官がお菓子を持ってきて、それはとても美味しいのに、食べずに帰るというのか。

「え、待ってよ。梨壺は食べないの? 蜂蜜の索餅、絶対おいしいのに」

 梨壺と一緒に菓子を食べるなんて嫌だという感情より、自分付きの女官がせっかく美味そうなものを持ってきたのに置いて帰る違和感が勝る。

 しかし梨壺は振り向きもせずに、ただ「勘弁しろ」とばかりにひらひらと手を振る。

 内侍はさすがに一度だけ足を止めてひざまずいたが、こちらも一緒に食べるつもりはないらしい。一礼してすぐに梨壺を追う。

 弘徽殿と鞠子は手に索餅を持ったまま目を見合わせた。

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