第39話・紫の匂える君へ・2
梨壺がげんなりと首を振った。
「さっきの騒ぎの直後だぞ……。よくもまあ警戒もなく、人からもらった菓子を食えるな」
その言葉に弘徽殿と鞠子は再び目を見合わせる。
「ねえちょっと! それってわたくしたちに警戒心がないって意味!?」
梨壺は聞こえよがしにため息をつく。
「それ以外の意味に聞こえるか? 皆まで言わせるな」
弘徽殿はむっとした顔になり、意地悪く口角を上げた。
「わたくし言ったわよね!? わたくしは自分の女房と鞠子さまを信じるわ。あなたには内侍のことが信じられないとでも?」
弘徽殿の煽りに、梨壺も挑発的に微笑む。
「それはそれは素晴らしい心映えだ、弘徽殿の女御サマ。しかし僕が君たちに薬を盛る可能性は考えないのかな? 僕は内侍のことを信じている。だからこそ、こいつは僕の命令ならばそれくらいするだろう。加えて、僕は黄楊姫ほどではないにせよ、ある程度医薬品の知識があり、典薬寮から好きに薬を引き出して怪しまれない立場だ」
「そ……っ」
自らそう言われれば弘徽殿は売り言葉に買い言葉で言い返すしかない。
「ええ、解ったわよ信じるわ! わたくしはあなたのことも信じるわよ信じますわよ! そ、そりゃああなたの素行はアレだけど、薬を盛ってどうにかしようとするような人ではないもの」
それを聞いた梨壺は笑った。腹を抱えて大声で笑い、それからふっと真顔になった。
「褒めると思うか? 少しは警戒したまえよ弘徽殿」
弘徽殿はむっと眉をよせる。
それからふと意地の悪い笑顔になり、煽るように言い返す。
「あらあら。それが戯言じゃないとしたら、わたくしに手の内をさらすなど、たいそうお甘くいらっしゃるのね。……ねえ、女三宮サマ?」
梨壺が面白いとばかりに唇を歪めた。しかし言葉は返さない。
一気に険悪になる空気をこどもなりになんとかしようとしたのか、鞠子が内侍の袖を引っ張る。
「内侍、なあ内侍は食うていくのやろ? 蜂蜜の索餅、たいそううまかったぞ。内侍のおかげや。……何、遠慮はいらん。内侍の手柄や」
無邪気に甘えかかられた内侍は一瞬、鬱陶しそうに目をすがめた。そしてその険しい顔を隠すように涼やかに微笑んで一礼する。
「……いえ、とてもとても左様な素晴らしいお茶会にご一緒できるような身分ではございません。どうぞこれにて仕事に戻らせてくださいませ。やんごとなき皆様と違い、我ら下々の者にはつまらぬ用が山積しているのです」
内侍の、丁寧だがどこか棘のある言い回しを弘徽殿は見逃さない。さらに梨壺に対する怒りも加算され、弘徽殿はひくりと片頬を上げると、この上なくにっこりと微笑みかけた。
「ねーえ、わたくし前々から気になってたんだけど、内侍ちゃんって、わたくし達に対していつもほんのり冷たくなあーい? 内侍ちゃんに怒られるほどの無作法した覚えないんだけど、わたくし」
内侍もしれっと袖で顔を覆いながら答える。
「滅相もございませんわ。恐れ多くも弘徽殿の女御さまに思うところなど」
交錯する言葉がバチリと不穏な音を立てる。
梨壺があきれたように言った。
「そこまでにしておきたまえ、弘徽殿。あまりうちの内侍をいじめてくれるな」
「だって!」
内侍の態度から感じる小さな棘が確信に変わり、噛みつかんばかりに食い下がる弘徽殿に、梨壺はなぜか誇らしげに笑みを漏らした。
「あいつには朝廷直属の女官だという誇りがあるのさ。面倒な妃の世話係などではないという自負がね。いいことだ」
一般的に言って、朝廷の女房が妃候補たちを小馬鹿にし態度を取るのは褒められたものではないだろう。しかし梨壺はなぜか誇らしげだ。共に不服そうな弘徽殿と内侍を眺めると、梨壺はなぜか面白そうに口角を上げた。そしてやれやれとばかりに肩をすくめて、どかりと床に座り込むと、内侍にも床を指さす。
「内侍、仕方ない。座れ」
「でも!」
「命令だ。内侍、僕は君のそういうところが大好きだ。だが、後宮仕えを蔑んでも内侍としての出世は見込めんぞ。ここはここで、皆真剣に仕事をしている。くだらなさそうに見えるおしゃべりにだって意味がある。ーー君も僕に仕えて何年になるんだ。そろそろ解ってくれたかと思ったがな」
内侍は不服そうに唇を開きかけたが、
「――
静かに名前を呼び掛けられると、文句を飲み込んで膝を折り床に座った。そんな内侍の肩を優しく叩き、梨壺がささやく。
「だから今日は、親愛なる兄様の妃たちに無礼を働いた罰として、一緒に菓子を食べていこう。いいね?」
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