第36話・桐壺のクローズドサークル・9

「……とまあいろいろございまして、附子に関しては自ら飲んで味も効果のほども確かめたことのある身でございます。そこで桐壺さまの容態、特に身体のしびれの状態などを総合的に判断しまして、附子ではないと考えました。しかも桐壺さまの戻されたものを見れば、ほとんど消化されていないようでございます」

 ふむ、と梨壺が顎を撫でる。

「附子なら四肢がしびれた後、やがて呼吸に至り、息が止まる」

「左様にございます。蝦夷ではこれを煎じたものを矢に塗り大和の獣よりも大型で獰猛な獲物を即効毒で倒す。しかしその際、仕留めた四つ足の肉は毒抜きの処置をしなければ人間もまた毒にあたって身体がしびれ、死に至ると――」

「しかしそれならばなんらかの方法で体内に入れば良いということではないか? だとすれば喉を通った時点で消化されずとも吸収されている可能性は考えられるだろ」

 梨壺の意見に犬君は首を振る。

「話はそう簡単ではなく――しかも混ぜ物は蜂蜜でございます。粘性の高い液体に混ぜ込まれているなら吸収も緩やかになるのではないでしょうか」

 ぽむ、と扇を掌でもてあそんで少し考え、梨壺がさらに問う。

「蜂蜜自体はどうだ? 赤子には毒だとも聞くが」

 梨壺が質問する。

「それはすこぶるお身体の弱い場合にございましょう。当代の桐壺の更衣様は源氏物語のようにはご病弱でいらっしゃいますまい。ましてや赤子や老人のようには」

 そしてそこでさらに言葉を切り、梨壺に向かって説明を加える。

「……もちろん見落としがちなことではございますが、強い毒のある花の蜜はそれ自体やはり毒なのでございます。遠き異国とつくににて、兵士が花の蜜を飲んで死んだとの伝説がございます。――が、蜂蜜全体が毒に侵されていた場合、最近蜂蜜にご執心という中宮さまがお勧めになった他の女達も無事ではございますまい。何がしかの薬効が混入しているのならば後から入れたとしか考えられません」

 そうして「さて、梨壺様には様々な角度から検証しなければ納得してはいただけまいと極端に危険な事例を申し上げましたが」と言い添え、犬君は今度は鞠子に向かって微笑った。

「蜂蜜自体は和薬にも漢方薬にも重宝されている安全性の高い滋養にございます。『神農本草経』の記載によれば蜂蜜は、内臓の疲れを補いき気を高め、邪気や毒を和らげるとのこと。加えて癖のある薬ともよく馴染み味を整えるので、我々は調合や丸薬のつなぎとして便利に使っているものでございます。長期にわたって味わえば不老長寿にもよろしいとのことでございますから、中宮様におかれましてはこれに恐れず蜂蜜の菓子をお楽しみいただけましたらと」

 鞠子はただでさえ大きな目をさらに丸くして潤ませてから「うん!」とこどもらしい笑顔でうなずく。

 それを聞いた梨壺はふっと笑った。

「解った。やや語りにごまかされた感はあるが、いいだろう。満足だ」

 そうして機敏に裾の長い緋袴をさばきながら廊下まで歩いていくと、そこで弓を抱えて伺候している内侍から弓を受け取る。

 戻ってきた梨壺は、犬君の前にぞんざいに弓をよこしながら言った。

「ただの女、それも陰陽寮や典薬寮の所縁ゆかりでもない君になぜそこまでの知識があるのか、今は問わないでおいてやる」

 そうして険しい表情を解くようににやりと笑い、命じる。

「――……く祓え、桐壺の呪いを」

 竹と木の二材を重ねて強度を上げた大ぶりの弓束は黒漆塗。持ち手には美しい絹布が巻かれている。そして持ち手の上には唐の時刻を表す三十六禽さんじゅうろっきんになぞらえた三十六箇所、下には仏教天文学における星座の二十八宿になぞらえた二十八箇所を。それぞれ藤の枝で強く締め上げた「重藤の弓」。

 犬君はようやく受け取った弓の前に微笑みながら優雅に一礼する。

「仰せのままに」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る