第35話・桐壺のクローズドサークル・8
「なんだっていいぞ。忌憚なく申せ。なんならそこにいる鞠子が犯人だと言っても構わんのだぞ。怪しいからな!」
笑いながらからかう梨壺に、鞠子がたちまち蒼褪めた。
桐壺に菓子を持ってきたのは彼女なのだ。生意気な言葉も出ずに震えている鞠子の白い顔をしばらく眺めて考え、犬君はゆっくりと言葉を切り出す。
「鞠子様は……犯人になりようがないのです」
梨壺が口角を上げる。梨壺は楽しんでいる。犬君はそう思う。
「なぜそう思う?」
試すように飛んでくる質問に、犬君はあえて断言する。
「今をときめく中宮様に、たかだか更衣を害する理由がありましょうや。それも左大臣家の大事な御姉妹でいらっしゃるものを」
犬君の答えを聞いた瞬間、場にいる一同がほっと息をついて顔を見合わせた。鞠子の蒼褪めた顔にも少しだけ赤みが戻ってくる。
自信なく弘徽殿の顔を確かめると、弘徽殿はよくやったとばかりに強くうなずく。
その様子を見つめ、なるほどと犬君は思った。なるほど、これが「正解」か。そしてこの「後宮の常識」を指導するために先程まで弘徽殿は懇切丁寧に自分の置かれた立場を説明してくれていたのだ。
桐壺は中宮と同じ左大臣派。自分の親を有利に運ぶために入内した自覚があるのなら、同陣営で今をときめく桐壺の更衣を害する理由はない。個人的な嫉妬ということはありえないわけではないが、中宮であるはずの鞠子より桐壺のほうに寵愛が偏っているのは桐壺のせいではなくてただ鞠子が幼すぎるからなので、桐壺が死んだところで状況は変わらない。例えば鞠子が充分に成長したあとで、いずれ臣籍に下るしかない桐壺の子が邪魔になるということはあるかもしれないが、左大臣本人の差し金だとしたら、愛娘の鞠子の手を直接汚させるわけがない。そのために切り捨てられる女官なんかいくらでもいる。というか、そもそもそんな複雑な事態になるような御子が産まれてすらいない。
「ではもうひとつ。毒ではなく呪詛だと判断した理由を教えてほしい」
犬君は困ったように首を振る。
「勘としか言いようがございませぬ」
うん、と梨壺はどうでもよさそうにうなずいた。
「それは聞こえていた。しかし僕は怪力乱神を信じぬことにしているのだ。……厭魅呪詛を信じない者に対しては、君は納得のいく説明をしてくれるのだろう? ならば今がそれだ。答えよ、
そして追い打ちをかけるように口角を上げる。
「弓が欲しいのだろう?」
犬君は少し考えてから口を開く。
「……お話をおうかがいしますに、もしも毒であるのならば、菓子の味に違和感のない無味無臭でなおかつ即効性の高い麻痺毒……それも眠るように死に至る『
なるほど、と梨壺は言って顎に指を当てた。
「
「しかし私は附子については一家言がございます。――と申しますのも、昔、ゆえあって寺に預けられていた頃、壺の中に隠したおやつをめぐって、私、水飴か附子か己の命を懸けた一世一代の判じ対決をしたことがございまして」
「なんですって!?」
いきなり情報量が多い話の超展開に、弘徽殿が素っ頓狂な声を上げる。
「ちょっと待って。何があったらいきなり命を懸けて水飴か附子か当てる羽目になるのよ!?」
犬君は弘徽殿のほうに向き直ると、至って真面目な顔で答える。
「私の師僧は聡明な方でありましたが、甘いものに関しては大人げが……たいそうこだわりが深く、水飴を猛毒の附子であると偽って壺に隠していたのです。稚児たちも馬鹿ではないので壺の中身が菓子であることなどとうに見抜いておりました。そこで稚児たちが不満を愚痴っていたのを聞いた私が一計を案じて、師僧に申し上げたのです。あれが本当に附子であるか当ててみせましょうぞ、もし水飴であれば稚児たちに分けてふるまえと。すると好奇心旺盛な師僧は面白がって、よろしいならば対決だこれまで教えた薬学があれば解けるからやってみせよと本当に附子と水飴を並べて判定対決を始めてしまい――」
「あなたって師匠までそんな感じなの!?」
弘徽殿があきれたように叫ぶ。
梨壺まで遠い目で肩をすくめた。
「……聞けば聞くほど、高僧のいる寺にあるまじき登場人物しか出てこないが、いいのかそれは」
見れば、それこそ常識の通じない好奇心と知識欲の権化みたいな梨壺までドン引きしている。
「どんなつらいことがあったんか知らんけど、その……お若いのに、命は大事にせねばならんぞ。いかなる甘露も命あっての物種ぞ。水飴でよければ鞠子がいつでも用意してやるからの」
ついには幼女中宮にまで憐みの目で説教されてしまった。
こほん、と犬君は咳き込んで話を元に戻す。
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