第34話・桐壺のクローズドサークル・7

「どうしてあなたがここに?」

 刺々しい弘徽殿の声に構わず、梨壺は室内を見回すと迷わず鞠子の前にひざまずき、安心させるように笑顔で何かささやいた。腕を広げて桐壺をこちらに渡せという身振りをすると、鞠子は素直にうなずく。

 梨壺は流れるように桐壺を抱き取り、顔を覗き込むように額を撫でた。至近距離で見つめられ、肩を軽く叩かれても桐壺の瞼は開かない。首を振って「しかたないな」とつぶやいた梨壺は、しなだれた手首を取って耳許にささやく。

「桐壺、聞こえるか? 僕が来たからにはもう大丈夫だから」

 人が人なので甘い仕草に見えて弘徽殿が歯を噛みしめるが、犬君はひと目見てそれが倒れた桐壺の病状確認であることに気づく。熱の有無を手のひらで測り、声かけと身体への軽い刺激で意識確認を試みたのだ。そうしてしばらくいろんな様子を確認していた梨壺は、ふっと緊張が解けたようにため息をつくと、ようやく弘徽殿の質問に答えた。

「来て悪いか。僕はおとなりさんだぞ」


 いろんなしがらみから比較的中立だろう梨壺が救援に来たのを見て、犬君も動き出す。

 思い出すのは、甘い言葉をささやいて抱きしめながら決してこちらを見なかった視線の行方だ。梨壺はなぜか弘徽殿にご執心とみえる。もし万が一のことがあっても悪いようには証言しないだろう――と、賭ける。

 まずさりげない風を装って床にこぼれた蜂蜜を懐紙に吸わせた。指に残った蜜を腕の内側に塗ってみるが異変はない。皮膚を焼く類の薬物は混入していないと見て、飲んだものの吐瀉を試みる。ただれるものを飲み込んだ場合、吐き戻させると喉の粘膜が二重に傷つくからだ。

「失礼いたします」

 犬君は梨壺の前にひざまずいて交代を申し出る。

「まずは桐壺様に問題の菓子を戻していただきとうございまする。梨壺様の御手を穢すのははばかれますゆえ、どうぞ私にお任せくださいませ」

 梨壺はふっと笑って言う。

「ただひとりの友の吐瀉物だ。命が助かるなら汚くなどないさ」

 しかしそう言った後でふと何か思案するように犬君の顔の上に視線を止め、真顔になって、問う。

「……君には医術の心得があるのか?」

 犬君は一瞬ためらった。普通の女官なら「無い」と答えるのだろうか。しかし今は桐壺の応急処置を優先したい。

「読みかじりの半可な知識にございますれば」

 犬君が答えると、梨壺は「うん」とうなずいた。

 そうしてあっさりと犬君に桐壺を預けると、その場にあぐらをかいて座り込む。

「いい。やってみろ」

「姫様」

 内侍が咎めるように小さく呼んだ。内侍が犬君を見る目は険しい。いくら藤原家の所縁の女房だとて、身元の知れない新参者など信用に値しないと思っているのだろう。梨壺が振り向いて笑う。

「医心法に神農本草経――僕だって少々の医学書くらいは目を通している。内侍だって知ってるだろ? 明らかにおかしな処置をし始めたら二度とその小賢しい口を開かせないだけだ」

 内侍はそれを聞くと舌打ちをして、見てられないとでも言うように身を翻した。

「弓を借りて参ります!」

 梨壺はそれにも平坦に「うん」とうなずく。

 内侍が走っていくのと同時に、犬君は応急処置を開始した。

 傍ではらはらしながら見守っていた桐壺の女房に茶を持ってくるよう指示しながら、吐いたものが喉に詰まらないよう、桐壺の顔を横に向けて寝かせる。とはいえ、意識のない人間に液体を飲ませるわけにはいかない。梨壺に引き続き意識の確認をお願いする。

「怪しいものを飲んで倒れている者に、さらに物を飲ませるのか?」

 桐壺の肩を揺すりながら梨壺が尋ねる。

「……神農本草経に、茶が解毒に効いたという記載がございます。茶で薄めて吐き出させまする」

「解毒剤はどうだ。僕ならどんな薬も手配してやれる。弓などという効果の知れぬ呪具よりは効くと思うがな」

 梨壺の提案に犬君は首を振る。

「私の見立てはあくまで呪詛にございます。毒の入っていない可能性が高いのならば、それ自体が劇薬である唐物の解毒剤はなるだけ避けたい」

 梨壺と交互に呼び掛けを続けていると、やがてその瞼が動いた。

 意識が戻った喜びもつかの間、弘徽殿が桐壺から引き離されて不満げな顔をした。その目の前で、梨壺は素早く女官たちに命じ、応急処置をする姿が隠れるように几帳の位置を移動させる。さらに貴人の吐瀉する顔が人に見られないように、犬君は自分の袖で姿を隠しながら膝の上に桐壺の顔をうつぶせた。そして勢いよく背中の上に手を振り上げる。

「無礼をお許しくださいませ、更衣様」

 背を叩かれた衝撃で、桐壺がき込む。蜂蜜とはったい粉が茶で薄まったものがほぼ食べた状態のままの色で懐紙の上に吐き出される。

 吐かせたところで、どっと救援がやってきた。内侍が弓を取りがてら自分の仕える殿舎にに立ちよって救援を頼んだのだろう。梨壺からやってきた噂以上に美人ぞろいの女官たちがあれよあれよという間に桐壺を御帳台(畳で床を一段上げた天蓋つきの寝台のような場所)に寝かしつけ、震える鞠子を保護して白湯を飲ませる。

 梨壺は疲れたように皆の前に戻ってきてどさりとあぐらをかく。犬君もそれに従って弘徽殿のもとに戻り、簡潔に経緯を説明した。

 ややして、ふっと息をついた梨壺が、ぱちりと扇を畳む。

「内侍が戻るまでまだ少し時間がある」

 そうして、現在桐壺にいる一同をゆっくりと見回してから、犬君に視線を止めた。

「桐壺が落ち着いたならこの事態の究明だ。まず黄楊姫つげひめに聞こうか。桐壺を看て何か気づいたことはあるか」

 その視線で、自分が当てられたことに否応なく気づいた犬君は、戸惑ったように視線をさまよわせた。その様を見て梨壺が愉快そうに笑う。

「なんだっていいぞ。忌憚なく申せ。なんならそこにいる鞠子が犯人だと言っても構わんのだぞ。怪しいからな!」

 笑いながらからかう梨壺に、鞠子がたちまち蒼褪めた。




※この小説で描かれている「劇薬誤飲が疑われる場合の処置」は医療的にも歴史的にもデタラメです。誤飲患者は無理に吐かせず、速やかに救急車を呼び、状態次第で一般救命処置を行ってください。

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