第33話・桐壺のクローズドサークル・6

「それは、呪詛だってこと!?」

 弘徽殿の叫びに、犬君は黙ってうなずく。

「そうですね。もっと信用に足ることを言える人間ならよかった」


 「鳴弦めいげんはらえ」という儀式がある。

 古来より弓の音は魔を祓う力がある――と信じられている。そこで、病や雷、呪詛の疑いがあるときには弓の弦を手で弾いたり鏑矢を射たりして場を清めるのだ。宮中でも何かあるたびに近衛や陰陽師が何かと弓を鳴らしている。例えば、出産、成長祝い、病、落雷――。

 民間では祇園社の庇護下にある下級神人たちが、この鳴弦を請け負って生計を立てている。犬君が「はふりでありはふりである」と自己紹介する意味はそういうことだ。神事・祝祭にまつわる芸事を行うみこであると共に葬送にかかわる一切を引き受ける半俗の僧侶でもあると。

しかし。

「ちょっと待って、あなたらしくないわよ。呪いや鬼だなんて論理的じゃないって言うあなたがいきなり……桐壺が呪いで倒れただなんて」

 困惑する弘徽殿以上に、犬君は困ったように笑ってみせた。

「もともと……呪いか呪いでないかくらい、私には直感で判るのです」

 その瞳にかすかな影が差す。

「しかし勘でそうに決まっているというものをーー人に説明できましょうか。納得をさせることができましょうか。説き伏せることができましょうか。……最悪、私の目の前に呪詛の疑いをかけられて破滅する人がいたとして、『なんとなくこの人は人を呪わない気がする』では救えないのです」

 ただならぬ表情に弘徽殿がうろたえる。

 弘徽殿もまた直感で、犬君の言うことに嘘はないと気づいている。しかし誰がそれを証明できるのか。

「……ただ呪いでないならば――逆にそこには理由がある。その違いを、私は呪いでなかった場合の論理でしか証明しようがない。そのために、このようなときのために、私は学んできたのです――物の理を、薬を、そして人の身体の構造を」

 犬君は重い声でそう言うと、再び床に手をつく。

「……という人間ではありますが、皮肉なことに私の巫覡としての能力は本物にございます。どうか、弓を」

 こく、こく、と弘徽殿は声もなくうなずいた。

 しかしどう説明して鳴弦の祓えを行うための弓を借りればいいのだろう。

 確かに宮中ではしょっちゅう鳴弦が行われているが、それは弘徽殿にとって、父親を通して土御門に頼めば勝手に陰陽師と弓を手配してくれるものなのである。「誰か弓を貸してー!」と呼びかけてほいほい渡されるものとも思えない。

 弘徽殿が戸惑っていると、不意に低い声が響いた。



「許そう」



 突然の声に、皆がはッと顔を上げる。

 勝手知ったる様子で今、桐壺の母屋に上がり込んできたのは、月夜の川の水の波打つがごとくゆるやかな癖のある黒髪。翻るのは夜の空よりも深く艶めく濃紺の袿。その内側に重ねられた衣は果実が色づくまでの経過をたどるような、あるいは夕暮れの空のような、水色から赤へと移る葡萄襲えびがさねで、一番内側に仕込まれた彩度の高い薄紅の衣が目を引く。

 と思った瞬間、紅の袖が映える白い手はばさりと扇を畳み、現れたかおの中で薄く不敵なくちびるがニッと笑った。

「できるね? 内侍ないし


 女三宮、梨壺。


 その姿を見た瞬間、弘徽殿がギリとくちびるを噛み、鞠子が安堵のため息をつく。

 梨壺の後ろに控えて彼女の裾を直していた女房がため息をつきながら顔を上げた。持ち上げられた袖はまるで、梨壺の装束の色をまるで反転させたようである。空のような淡い縹色はなだいろの濃淡に白を重ねた花薄はなすすきかさね、その一番表に萩の花を思わせる青みの薄紅の袿。あざやかだが甘くはない色調の袖が、軽く顔を覆うように持ち上げられた。

 后妃候補たちがそろい踏みする空間に礼を示して優雅に顔は隠しているものの、その隙間からのぞく涼やかな目許は、あきれたようにすがめられている。

「まったく姫様は人使いが荒いんですから」

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