第32話・桐壺のクローズドサークル・5
「どういうことなの!?」
弘徽殿はしばらくぼうぜんとしていたが、すぐに険しい顔になって、白木の床に這いつくばる女房を叱責した。
敷物のように平らに伏して動かない
「
言うなり弘徽殿は袿をひるがえし、平伏する按察使を置いて透廊を早足に渡り始めた。
「早くなさい、按察使。うずくまっている暇などありませんのよ。桐壺に死んでほしいのなら別だけど」
あまりの強い言葉に何か言おうとして、犬君は弘徽殿の顔色が酷く悪いことに気づく。きつく叱咤していなければ、極寒に放り出されたようにくちびるが震えてしまう。面と向かって桐壺を想うことすらできない、そうと知られてはならない弘徽殿の、これが精一杯の心配の表明なのだ。
「第一、中宮さまが直々にこんなところにお越しになるなんて、気軽な話じゃないわ。なぜお止めしなかったの? 桐壺と鞠子さまにもしものことがあれば、不始末では済まなくてよ」
自分も不自然に梨壺の前にいることも忘れ、弘徽殿は振り向きもせずに按察使を叱責する。
「よろしゅうございます。中宮様をお助けいただけるならば、すべては私の責任に」
按察使は弘徽殿の早い足取りに息を切らしながらも強くうなずいた。弘徽殿に強い言葉で責められてかえって心を強く持ったようにすら見える。
「蜂蜜を……」
しかし自分でも疑いの元になることをした自覚があるのか、日頃きびきびとした按察使も状況の説明となると歯切れが悪い。
「中宮様は最近蜂蜜がたいそうお好きでいらして、
中宮・鞠子は昨晩の乞巧奠の宴でも、弘徽殿に蜂蜜を食べさせたいと言っていた。今、鞠子が蜂蜜をいたくお気に召していて、少女らしい好意として周りの后妃たちにも勧めたくて仕方ないことはよく解る。昨晩弘徽殿に甘えていた鞠子に悪意がないことは、その無邪気さと親しさにあぜんとして見ていた犬君がよく知っている。ましてや鞠子が日頃から妹のようによくなついている弘徽殿には。
弘徽殿が一度だけ立ち止まり、振り向いてキッと按察使を睨みつける。
「ばかなこと。あろうことか中宮様に毒殺の疑いでもかけられたら如何するおつもりなの」
◇◇◇
「桐壺!」
桐の大樹が見事な枝を広げる後宮最奥の殿舎にたどりつくと、弘徽殿はたまりかねたように名を叫んだ。焦っているのか後宮にあるまじき大きな物音を立てながら格子が外され、あわてた様子の桐壺の女房たちに招き入れられる。桐壺付きの女房は平均的に年長の者が多く、普段は至って落ち着いているのに、である。
弘徽殿は冷汗をかきながら母屋の中を見回す。すると弘徽殿と犬君に助けを求めるように、幼い少女の涙声が上がる。
「弘徽殿! 弘徽殿!」
「鞠子さま!」
声のするほうを見れば、人影の映る几帳がある。几帳の裾から不自然に広がった藤色の袿とその下からのぞく白い足を見た弘徽殿はびくりと肩を震わせた。
几帳の陰で、鞠子は自分よりもひとまわり身体の大きい女を抱きしめて泣いている。女は意識を失っている。意識を失った身体は重いので、ほとんどつぶされるようにして支えている。
ついに耐えかねて駆けよろうとする弘徽殿の腕をつかみ、犬君が制止する。
「なによ離して!」
「なりませぬ、女御様」
犬君は険しい顔で首を振り、決して腕を離さない。
「安易に触れて、もしも本当に毒が仕込まれていたらどうするのです。そしてそのとき桐壺さまの御身に接触したとあらば、女御様ご自身が疑われることになりかねません。しかも客観的に政治的な立場を考えれば、あなた様にはそれをする理由が存在してしまう――ですから、こういう場合は無暗に触れ回らないのが良ろしいのです」
それを聞いた弘徽殿は犬君に腕をつかまれたまま、ぺたんと床にへたりこむ。
「わたくし……わたくしは、なにか桐壺にできることはないの……?」
こどものように途方に暮れた顔で弘徽殿がつぶやく。
「ございます」
犬君は今にも泣きだしそうな弘徽殿を正気づけるようにうなずいて、つとめて冷静にささやいた。
「弘徽殿の女御様にしかお頼みできないことにございます」
自分にしかできない、桐壺を助けてあげられること――聞いた弘徽殿の瞳にわずかに光が戻る。
「わかったわ。どうすればいいの?」
犬君はようやく手を離し、その場にひざまずいた。
「弓をお貸しくださいませ」
犬君の頼みに、弘徽殿はためらう。
「でもここは……」
――内裏で武器を使うことなど許されない。
その言葉を遮るように、犬君は言う。
「矢は要りませぬ。弓だけお貸しいただければ良いのです」
「弓だけ……?」
弘徽殿はさらに困惑している。弓に矢がなくてどうしようというのか。
しかし犬君にはそれができるのだ。
「そろそろお忘れのこととは思いますが――」
ひざまずいて九字を切った犬君が力強く顔を上げる。
「私は、弓の音で魔を祓う巫覡にございます」
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