第31話・桐壺のクローズドサークル・4

「とは申しましても、わざわざ梨壺を突っ切って桐壺の前まで行くのは不自然ではありませんか?」

 扇で顔を隠して弘徽殿の後ろに付き従いながら、犬君は言った。

 桐壺と弘徽殿、当然ながら方角が正反対になる。殿舎の母屋の大きさは平均して五間×二間のおよそ十坪。その四方には外付の廊下として使用されるひさしが巡らされている。しかも七間×二間のだだっ広い一室になった弘徽殿と違い、梨壺と桐壺はふたつの建物から成る二舎式である。梨壺に会った後、ふたつの建物を正々堂々と奥へ突き進んで桐壺へ行くというのは「たまたま経由した」で済まされないのではないか。いくらどちら回りでも帰れるとはいえ、わざわざ突き当りまで行ってから遠回りして帰る必要もないのである。

 何か策はあるのですかと尋ねると、

「ばっかね。迷い込みましたって言えば済むことなのよ」

 さわやかな笑顔で弘徽殿が答えた。

 そんなわけがあるか。 

 犬君は笑顔のまま心の中だけでツッコむ。相手は三年もこの後宮に住んでいる女御なのだ。迷い込みましたと主張するには無理があるんじゃないだろうか。

 しかし他の殿舎の構造、様子をぐるりと見学させてもらえるのはありがたい。そのために少々の不自然を押し通すつもりなのなら、こちらはその分きちんと見て帰らなければならない。犬君はそう思い、見える景色をつぶさに観察し、距離の気になるところがあれば歩数で記憶している。

 母屋に巡らされた白木の廊下は歩いても歩いてもずっと続いていくかのように見える。その端には膝下ほどの高さの木の欄干があり、下は整備された白砂と植え込みの「壺庭」と呼ばれる小庭園が広がっている。藤壺、桐壺、梨壺、梅壺――というのは、その殿舎の壺庭を代表する樹木の美しい花からつけられた愛称である。そういった「殿舎を代表的する花」はあるものの、基本的に前栽の木々は季節に合わせてしつらえられる。今は紅葉の美しい木が光に揺れ、女郎花の彩る茂みに秋の虫が鳴く。機を織るような声を長く響かせる虫に合わせて麗しい琴の音がさやかに流れてきて、犬君はここがもう麗景殿の前だと気づく。さっと建物の中を眺めると、屋内を仕切る御簾に透け、風に揺れる几帳の下から、荻や女郎花などの秋の花を模した衣の色が垣間見えた。

 雅な情景に見とれていると、唐突に弘徽殿が言う。

「源氏物語で桐壺が仕掛けられるいじめに、廊下にうんこを撒き散らして通れなくしてしまうっていうのがあってね」

 一気に雅な気分が台無しになり、犬君は露骨に眉をひそめた。

「なんですか女御様ともあろう方が藪から棒に。童の言うことではないのですから少し……」

 犬君の小言を遮り、弘徽殿が妙に晴れ晴れとした声で言った。

「地面に降りてしまえばいいと思わない?」

 犬君は絶句して立ち止まった。欄干の下を見る。そこから見える庭は思ったよりも広く、廊下と地面の間には結構な高さがある。それこそ童の身長ほどはあるのではないだろうか。いつもの犬君ならこのくらい飛び降りて歩いていくことは難しくないが、長袴をはいて重い袿を着重ねた身体では、その地面は途方もなく遠く見えるのだ。

 紅葉した枝から小鳥がさえずりながら飛び立つ。それを見上げた弘徽殿がどこか晴れ晴れとした声で言った。

「わたくしたち、本当はやろうと思えばできることをできないと思い込まされているのかもしれないわ」

 犬君は同じように鳥の行く手を目で追ってから、暗澹とした表情になった。

 できることをできないと思い込まされている、と弘徽殿は言うが、犬君はこのとき逆に「なるほど実物を見れば思うようにはうまくいかないものだ」と舌打ちしていた。遥か白砂の庭園の向こうに見える塀は、隙間があるかどうか確認することもできないほど小さい。つまり、思ったより遠いのだ。もちろん何にしても廊下を出歩くことすらはしたないと思われる深窓の令嬢たちが自ら地面に降りて工作するとも思えないので、下女に命じたとあれば結構いろんなことが可能ではあるが。

 そんなことを小声で話し合っているうちにも、足は麗景殿と梨壺をつなぐ透渡殿に差し掛かっている。透渡殿は建物と建物をつなぐ木製の橋のような形状の廊下である。これを渡ればもう梨壺だ。

「あ、そうだ。梨壺を見てびっくりしないでよね。自分でなんでもできるし親の家のしがらみもないのをいいことに、あいつ、女房を顔で選んでるのよ。朝廷仕えの女官に浮いた噂があればすぐ梨壺に連れてっちゃうの。おかげで徹底して綺麗な顔をして和歌が上手い女しかいないわ。まるで梨壺のためにもうひとつ小さな後宮があるみたい。気持ち悪いったらありゃしない」

 ふん、とまくしたてる弘徽殿に、「弘徽殿もなかなかの美人そろいだとは思いますが……」と犬君は控えめに言った。




 そのとき、ただならぬ足音が響き渡った。顔を上げれば透渡殿を血相を変えて走ってくる女房がいる。

 岩のようなたくましい顔をした高齢の女房だ。その女房を、犬君は乞巧奠の宴でちらりと見たことがある。あれは――そう、無邪気に出歩く幼い中宮に毅然と注意をして連れて行ったしっかり者だった。

 礼儀に厳しそうな女であり、そんな人が廊下を走るなどとはありえない。弘徽殿も異変を察して眉をよせている。

「……もしかして按察使殿でいらっしゃいますか?」

 こちらからも少し駆けよって犬君が声をかけると、按察使は息を切らしながら倒れ込むように床に伏せた。

「そうでございます中宮付きの按察使にございます! 弘徽殿の女御さま、他の妃のことで女御さまを頼るのも無礼とは承知ですが、今は緊急のご事態。どうか! どうか姫をお助けくださいませ!」

「ど、どうしたの? どうしてここにあなたが? 鞠子さまは? 何かおありなのね!?」

 ただならぬ様子にひたすら当惑する弘徽殿に、按察使が平身低頭したまま顔を上げずに答える。

「それが……」

 整わぬ息を継ぐように苦しげにうめいた後、按察使は再び突っ伏すようにひれ伏して叫ぶ。

「桐壺さまがお倒れにございます!」

 思いもよらない按察使の言葉に、弘徽殿はただただ目を丸くして固まっていた。

「……え?」

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