第12話・弘徽殿の悪役令嬢(9)

「……どういう意味かは詮索いたしません」

 犬君いぬきの返事に弘徽殿の女御は不服そうに声を重ねる。

「強くお慕い申し上げている、という意味ですわ」

 その声は強く断言する。気圧けおされていると、弘徽殿は諭すように続けた。

「お前は男の身で男が好きなのでしょう? わたくしは女で女の人が好き。驚くことじゃないわ」

 違う、と犬君は思う。身分が違えばわけが違うのだ。

「しかしあなた様は女御でいらっしゃる……」

 言葉を選びながらゆっくりと口を開くと、弘徽殿はばっさりと言った。

「お前はばかなの? 摂関家に生まれたら恋に生きることなんてできないのよ。だったら好きな人が女でも男でも同じことじゃない」

 犬君はしばし黙り込み、それから声をひそめて尋ねた。

「……いつからとは、おうかがいしても?」

 変な質問をするのね、と弘徽殿はため息をつきながらうなずく。

「気がついたときからわたくしは女の子だけが好きよ。初恋の人はずっと龍田だったわ。あの子は気がついていないだろうけど」

「いえ、そういうことではなく、桐壺の更衣様のことを――」

 犬君が言うと、あ、と弘徽殿は扇で口許を覆い、「言っておくけど」と表情を険しくする。

「このわたくしが、嫉妬や絶望をこじらせておかしなことを言いだしたと思っているのなら大間違いなんだからね」

 むろん承知しております、と犬君は答える。事実そんなことは勘ぐってもみなかった。

 冷静な犬君の反応に、弘徽殿はちゃんと惚気を聞いてもらえると思ったのか、いそいそと距離を詰めてささやく。

「桐壺が入内してすぐのことよ。一目惚れだったの。桐壺は帝に逢いに行くなら必ずわたくしの殿舎の廊下を通っていかなくてはいけないから」

 そうして弘徽殿の女御は嬉しそうに桐壺の自慢を始めた。いかに桐壺が愛らしく慎ましい女性か、垣間見た姿の美しさ、いつも身に纏っている紫の濃き淡きがいかに品があってはかなげで物憂げな翳が源氏物語の桐壺を彷彿とさせるか、噂に聞く面白いふるまい、数少ない交わした言葉のすべて――桐壺について思いつくすべてを立て板に水を流すように語り出す。しかし犬君の頭の中には全然話が入ってこない。愛おしそうに輝く瞳のなんと幸せそうなことか。しかしそれは惚れた女が違う人に抱かれに行く姿ではないのか。そうして弘徽殿の女御だってその帝に抱かれるのではないのか。その関係で混乱はしないのだろうか。立ち入ったことを尋ねかけて言葉を選び、濁して飲み込む犬君に、弘徽殿の女御は言う。

「それとこれとは別問題よ。わたくしの腹にかかっているのは父上兄上、それに連なる者たちと、弘徽殿の可愛い女官達30名の命運。相手が愛する桐壺でも一歩も退くつもりはありませんわ。皇后テッペンを取るのはこのわたくしよ」

 勇ましい言葉に、犬君の眉が寄る。威勢がいいのは良い。しかしそれを担ぐ大の男たちはどうだ。十七歳の女御は女と呼ぶには青さが残り、その腹は一族郎党の期待を載せるにはあまりに細いではないか。

「……私は下賤の身にて、かような細い御身にすべてを託そうとする方々のお気持ちは量りかねます」

 言われて弘徽殿の女御は誇らしげに胸を張る。

「そうよ、人にはそれぞれの身分に応じた為すべきことがあるの」

 犬君は黙っている。唐菓子を手に取り、目を閉じて噛みしめる。弘徽殿は犬君の眉間の皺をしばらく見つめた後、「だいたいねえ」とため息をついて言った。

「あなたは望んだ本を貸せばなんでもしてくれると聞いたわ。わたくしからしたら、書物を読むためならいくらその身を差し出しても構わないという人の気持ちのほうが解らなくてよ。勉強しなくていいものならそこまでして勉強したいかしら。人の心配をする前に自分の身を大事になさい」

 自分に話を振られるとは思っていなかった犬君はまだ食べていない唐菓子の半分を持ったまま、虚を突かれた表情をした。

「そこまでしてでも文字を覚えねばならぬ事情があったのです。少々やりすぎましたが」

 そうしてふっと息をついて微笑む。

「さて、そういう話になりますと、確かに人の為すべきことや決意の軽重は他人には容易に判断しかねるものですね。解りました。おつきあいしましょう、あなた様の納得がいくまで」

「やった! っていうことは一緒に来てくれるのね?」

 嬉しそうに手を叩く弘徽殿に、犬君は袖を広げて肩をすくめる。

「むしろついていかない選択肢がありますか、この格好で。私に拒否権があるのなら法衣をお返しくださいませ」

 嫌よだってあなた逃げるでしょと弘徽殿が言う。それはそうだ。

「さて、噂のお話ですが。おっしゃるとおり、私は本を手に入れるためならなんでも致します。相手のお望みのままに」

「なんでもって……」

 弘徽殿の咎めるような声に、犬君はどこか冷ややかな微笑を浮かべて言う。

「おそらくはご想像のとおりのにございます。おおよそ本業としてやっていることの他のすべてーー呪詛呪詛返し、検非違使の取り合わぬ事件の調査、相手が男であれば添い臥しも」

 弘徽殿は絶句し、犬君は淡々と話し続ける。

「ただし対価はそのとき私の求める書物のみ。いかなる財貨も替えにはなりませぬ。――つきましては弘徽殿の女御様、これ以上の協力を求めるならば、あなた様からも相応の書物をお貸しいただくことになります」

 弘徽殿の女御は「え、そんなことでいいの?」と驚いたように声を上げてから強くうなずいた。

「いいわよ、任せて。国内にある本ならなんだって手に入れてあげますわ。それで、要求は何?」

 およそこの世の物質で望んで手に入れられぬものの無い藤原家の令嬢、それに対して褒賞はただの本とあらば、弘徽殿の女御の返事は強く頼もしい。

 ありがとうございます、と犬君は指をついて頭を下げる。ここに来て初めて、花のほころぶような艶やかな笑顔がこぼれる。

「この平安京の宮中で今までに発生した死穢の記録。それが書かれているだろう日記をあたう限りすべて」

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