第11話・弘徽殿の悪役令嬢(8)
「――これは桐壺の更衣様の無実を信じたい女御様には最も不本意な仮説でございますが、最も納得のいく経緯がございます」
両手の美しい紫の袖を重ねるように姿勢よく手を膝の上に重ね、
「死んでいなかったのです」
「え?」
弘徽殿は耳を疑い、聞き返す。
「その時点においては息絶えてはいなかったのです。重症ではありましたでしょうが。『手招くように揺れていた』というほどの柔軟な状態であれば、そもそも童は生きていたのかもしれない。それを運び出したのが桐壺の更衣様の義兄様にございます」
そんな、だって、と小さくつぶやく弘徽殿の声が聞こえなかったかのように犬君は話を続ける。
「病に
淡々と、しかし桐壺の更衣の命令だと断言して語る犬君に、弘徽殿は怒りもあらわに眉を上げる。
「あなたねえ」
令嬢ともあろうものが扇でばしりと床を叩く。本気で怒っているのだ。
「さっきから聞いていればなぜそんなに桐壺の更衣を犯人にしたいわけ? 桐壺に何の恨みがあるって言うのよ。それも、病で息絶えそうな童を殿舎から放り出しただなんて。桐壺がそんな残酷な女だと思ってるの!?」
まさか、と犬君も眉をよせる。
「当然のことではございますが桐壺の更衣とは面識もございません。あくまで論理的に考えれば桐壺の更衣ではないかということをずっと申し上げているはず」
それに、と犬君は皮肉を込めてささやく。
「その残酷なことを、我々
弘徽殿がはっと息を呑む。それを見る犬君の笑顔は冷ややかだ。ゆっくりと口角を上げて言う。
「御存知ありませんでしたか?」
先祖の日記に、私邸の池に身元の判らない遺体が流れ込んだのを知るやいなや「触穢」が露見する前にあわててこれをドブのほうへと押し流して隠蔽したという記録がある。内裏で亡くなった下女を夜のうちに運び出して知らぬ顔をすることがあったことも。そこまでの事件ではないにせよ、助からないと判断した使用人が邸内で死なないように、犬君のような身分のものを呼びつけてごみのように急いで搬出するということは父も兄もやっている。
「……だ、だってお父様やお兄様がそうするのは、穢れと接触したと知れれば物忌みでお仕事に出られないからですわ。それが藤原家の者ともなれば重要な行事を執行する立場のことも多い。長の休みとなれば、行事自体が行えないことになりかねない。だから藤原の男達は……」
弘徽殿の女御は震える声で言って、膝の上でぎゅっと扇を握りしめた。
「そうね、あなたの言う通りよ。わたくしたちは残酷な仕打ちをあなた方に押しつけています。だけどそれは表の仕事をする男の話。更衣に替えの利かない行事や
動揺を押し殺して虚勢を張る弘徽殿の女御を見つめ、犬君はつとめて冷静に言う。
「ですからこれは“場”の話でございます」
誰かが個人として残忍冷酷ということではないのだと強調してから犬君は問う。
「内裏で穢れがあってはならないということを厳密に執行したまでのことでは?」
弘徽殿の女御は首を振り、毅然として言い返した。
「もちろん宮中でとつぜん人が死ぬことは、ありえないわけではないわ。だからわたくしたちはそうなる前に病の人間を療養先に移したり出家させたりする。だけど、それはきちんとした手続きと連絡の上のことよ。秘密裏に放り出す必要は全然ないでしょ。わたくしが接触したとしても物忌みすればそれで済むこと。そんなことより大切なのはわたくしのために働いてくれている女官や童達の安全じゃなくて? ……ましてや自分の殿舎で働いていた可愛い子たちなのよ? 正直に申し出てしかるべき治療なり埋葬なりをして、それからしばらく物忌みをしたって何の支障もないでしょう。わたくしならそういたしますわ」
犬君はじっと弘徽殿の女御を見つめ、静かに問う。
「あなた様こそなぜそんなに桐壺の更衣を弁護なさるのです。ご無礼ながらそのほうが弘徽殿の女御様にとってはご都合がよろしいのでは?」
そんなことない、と弘徽殿は泣きそうな声でつぶやいてから、不愉快そうにくちびるをとがらせて言う。
「……わたくしは、桐壺の更衣のことが好きなのよ」
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