第21話「告白」

「え、私にですか?」


 午前、始業の直前——ながれは目を丸くしていた。


「それはまた、どうして?」

「この間貸してくれた本の内容について、もう少し踏み込んだ話を聞きたいと思いまして」

「はぁ。奇特な方もいたもんですねぇ」


 この人にはあまり言われたくないセリフだった。


 資料を手に抱えつつ、「いいですよ」


「では、放課後辺り、図書室にてお話しするという形でいいでしょうか?」

「ええ、問題ないです。……あ、それと狭間夢月はざまむづきも同席して大丈夫ですか?」

「夢月さんも? 彼女も興味がおありなんですか?」

「ええ、まぁ」


 流は気を好くしたように頬を緩める。


「大丈夫ですよ。こんなことに興味を持ってくれるなんて嬉しいですし。……では、そろそろ授業に行きますので」

「お時間を取らせて、すみません」


 光一が頭を下げると、「いえいえ」と流は手を振った。


 二人で職員室から出、階段のところで別れる。


「それでは、また後で」

「はい、よろしくお願いします」


 流が階段を上がり、姿が見えなくなったところで、光一は保健室に向かった。


 扉に鍵を差し込んだところで——開いていることに気づいた。しかもこんな朝っぱらからということは——犯人の目星はすぐについた。


 室内に入ると、やはり黒乃がいた。ベッドに腰かけていて、光一が来るのをわかっていたように、和やかに微笑んでいる。


「おはようございます、先生」

「……朝からサボりとはいい度胸しているね。しかも勝手に鍵まで開けて。君に預けた覚えはないんだけどな」

「サボりではありません。貧血を覚えたので、その休息です。それに、今どき鍵の複製なんて誰でもできますよ?」

「犯罪だよ、それは。……まったく。後で変えないと」


 ぼやきながらデスクに着くと——写真立てのガラスに、わずかにヒビが走っている。よく見なければ気づかないほどの、ほんのわずかなものだ。動かした覚えなどない。


 気づいていないように鞄をデスクに置いてから、肩越しに振り返った。


「で? 貧血だって?」

「ええ。朝、登校中にくらっときてしていまして」

「横になってなくていいのか?」

「先生の顔を見たら、元気になりましたの」

「……現金なことだね」


 パソコンを開き、ひとまずメールや作りかけの書類をチェック。その間、黒乃は邪魔してこようとはしなかった。


 キーを打つ音だけが室内に響く。誰かが来る気配もない。グラウンドからたまにか

け声が聞こえる以外は、静かな時間が流れていた。


「ねぇ、先生」


 キリのいいところで仕上げると、黒乃から声がかかった。あまりにもいいタイミングだったので、虚を突かれてしまった。


 椅子の向きを黒乃に向けると、黒乃は薄く笑みを浮かべていた。


「先生は、私のこと好きですか?」

「なんだい、藪から棒に。……好きって、どういう意味かな?」

「とぼけちゃって。女として好きかどうかって話ですよ」

「生徒に対して、僕にそれを言えと?」

「愛は立場も年齢も超えるものですよ」

「小説からの受け売りかい、それは?」

「話をそらさないで下さい。単純に答えてくれればいいんです。私のことを好きなのかどうか」


 からかうような素振りはなかった。


 じっと光一を見据え、ただ返答を待っている。


 光一はいったん、口を結んだ。


「先生と生徒だから、君をそういう感情では見られない」という決まり文句で逃げようとしてもいいが、それでも彼女は問い詰めてくるだろう。


 それに——なぜか、肌が粟立っている。ここで返答を間違えれば何かが終わってしまうかもしれないという、漠然とした予感。


 小さく咳払いをしてから、光一は答えた。


「僕は君のことを、いち生徒として好意を持っているよ。サボりがちだが頭もいいし、ユーモアもあるしね」

「そんなことが聞きたいんじゃないわ」

「わかってる。でもね、残念だが僕は君のことを女性としては見られない。たとえ君が成人して、世間からの目が怖くなくなる時になったとしても」

「……なぜ?」

「僕は誰とも付き合う気がないからさ」


 黒乃の目つきが鋭くなる。


 光一は椅子の向きを変え、黒乃からいったん視線を外した。腹の上で手を組み、独白するようにして言葉を紡ぐ。


「俺……いや、僕はこんな歳になっても独り身だ。恋愛もどきの遊びをした経験はあるが、相手に興味を持てなくて、成立しなかった。いや、恋愛だけじゃないな。僕は人に興味を持っていない。それで破綻した関係もある。だから僕のような人間を好きになるのは、止めておいた方がいい」

「嘘ね」


 黒乃が断言する。


「先生はそんな人じゃない。私を言いくるめているだけ。本当にそんな人なら、多くの生徒と触れ合うような職業に就くわけがないでしょう?」

「生活のためだ。生徒のためじゃない」

「…………」

「就職で有利になりそうだから資格を取って、養護教諭になった。まだまだ底の浅い生徒たちとなら楽に相手できるだろうと思ってね。……それだけの話なんだ」


 黒乃はベッドの上でシーツをきゅっと握り締めた。


「ひどいことを言うのね」


 光一は悪びれもせず、「ああ、そうだよ」


「他人にも、自分にも興味がない。……僕はそういう男だ」

「嘘よ。だったらどうして、あの子のことばかり気にかけるの?」


 黒乃の視線は光一を通して、写真立てを睨みつけている。


 光一も横目で見て——「あの子は特別なんだ」


「特別……?」

「俺を救ってくれた。守るものも失うものも、何もなかった俺にね」


 これだけは嘘偽りない、本心だった。


 虚空を見上げる。


 生まれたばかりのあの子を、初めてこの手に抱いた感触は今も忘れていない。忘れようがない。昨日のように思い出せる記憶が、まるで目の前に広がっているようだった。


 かすかに震える声で、黒乃が言った。


「救ってくれたって、どういう意味ですか?」

「それは話せない」

「どうして、ですか?」

「君にそこまで話す義理はないからだ」


 息が詰まるような音が、光一の耳にも届いた。


 ひどい言い草だ、と自分でも思う。だが、ここまで言わないと彼女は退かないだろう。プライバシーの侵害だなんて安っぽい言葉ではなく、非情だろうが自分の言葉で言うことで、黒乃のように頭の巡る人間には効果的のはずだ。


 黒乃は目を伏せ、肩を震わせていた。


「私が、人に言いふらしたりすると思っているんですか?」

「いいや、君はそんなことしない。だが、誰にでも胸に秘めておきたい想いってのはある。君にそれが理解できないはずがない」

「……私には、理解できません」


 黒乃はベッドから立ち上がり、扉へ向かった。


 立ち止まり、背を向けた状態で——「私は、それでも先生のことが好きなんです」


「……気持ちは嬉しいよ」

「あの子が羨ましいです。先生からの愛を、一身に受けているあの子が」


 扉を開け――そして閉まる。


 光一はその扉を見つめつつ椅子にもたれ、自嘲気味につぶやいた。


「愛なんて、そんな大層なもんじゃないさ」

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