第17話「使命と恋情と」
「甘く見ていたみたいね」
奇妙な空間の中で、黒乃は冷ややかな声を発した。
縦長、横長、円形、ひし形——大小問わず、あらゆる形の時計が宙に浮かんでいる。ゆっくりと上昇していくもの、下降していくもの、あるいはまったく見当違いの方向に向かっていくものと、時計ひとつひとつの動きに統一性も規則性もない。
ただひとつだけ、その場から動かないものがあった。黒乃、リューズ、ベゼルから見て左側に、巨大な〈クロック〉がある。果ての見えない大きさで、黒乃たちからの目にはもはや文字盤どころか、針しか見えない。
そして——三人のいるこの空間の中では、重力の影響を受けていない。その恩恵を受けるようにベゼルはくるくると回転していたが、黒乃とリューズは直立不動のままだった。
「ええ、計算外でした。針が二十分を指す前に破壊されたのは」
リューズが不愉快さを滲ませた口調で言う。自ら〈クロック〉を配置したのだから当然ともいえる。その証拠に、彼はしきりに懐中時計を開いては閉じて……を繰り返していた。耳障りだから止めてほしいが、黒乃は我慢することにした。彼の悔しそうな態度を見られるならば、この程度は許してやろう。
「ですが、それよりももっと深刻なことがあります」
「あの二人——
「狭間光一がやったと?」
「……それはないでしょうね。今の先生に、そんな力はない」
「先生、ですか……」
リューズの言葉には、
彼は自分が、光一のことを特別視しているのではないか、と疑っている。そういう意味では厄介な男だった。曲がりなりにも修正機関〈リライト〉の幹部が、一人の人間に——それもイレギュラーである——好意を抱くなど許されざることで、あり得ないことでもあった。
「……狭間光一は」
取り
「彼は行く先々で、いくつかの選択を行っている。それが分岐点を生じさせている。本来、久慈千晴と久慈悟郎は避難する先で死ぬはずだった。しかし直前で、まったく別の方向に向かった。それでまた、未来が変わった……」
「これ以上変わったら、まずいことになるんじゃねえの?」
あぐらを組んで、相変わらずベゼルは宙で回転している。
「すでにもう、まずいことになっているのですよ、ベゼル」
リューズは手をかざし、緑色のモニターをいくつか出現させた。手を広げると、さらに複数枚、樹木の枝のように広がっていく。そのモニターには光一の行動や、ヨルワタリの戦闘記録をこと細かに再現している。初めて〈リライト〉と相まみえた時、そして我が身を省みず子供を助けた必死な顔の光一を見ていると、胸が張り裂けそうになる。
リューズが続ける。
「これ以上分岐点が増えれば、それは際限なく広がっていく。いくつもの可能性を生み出し、我ら〈リライト〉では管理しきれなくなる。
「……そうね、その通りよ」
黒乃はあえてリューズの言葉に同意した。自分はあくまでも〈リライト〉であるということの証明のための発言は
「過程はどうあれ、最終的には同じ結論に辿り着ければいい。私たちはそう考えて行動していた。しかし、あの二人が生き残ってしまったことで、また未来が変わってしまった」
「そこで話はおかしくなります。久慈千晴と久慈悟郎——二人が健在ならば、
「そう、確かにあり得ない。同一人物が二人、同じ時間軸の中に存在していられるはずがない」
「……ってことは、それを可能にしているのはイレギュラーってことか?」
「その可能性が極めて高いでしょう」
「本人にその自覚はないと思うけれどね」
「それならどーするんだよ? あの時代と同じように、この時代も消すのか?」
ベゼルがあっさりと言う。
ひとつの時代を消す——それは、その時代に生きる人々を、文明を、歴史を、存在していたものすべてを抹消するということだ。別の時代の人々はその時代があったことなど、
——イレギュラー以外は。
リューズが懐中時計の蓋を閉じ、ようやく胸ポケットに戻した。
「それが一番手っ取り早いでしょうが……消すのは最終手段であることを忘れないようにお願いしたいですね、ベゼル」
「ただ時の流れのままに……ってやつか」
「そう。時の流れは誰にも止められない。私たちは基本、見守るのみ。ただし、その流れを変えたり、あるいは別の流れを作ろうとすれば——当然、それを見逃すわけにはいかない」
「そうね。そのために私たちがいる」
リューズが散らばったモニターをさっとまとめ、手を振って消したのを見計らって——
「……私に考えがあるわ」
「それって、何さ?」
「誰でも人生の——時の流れにおいて、選択することは避けられない。ならば私たちの方から彼に選択を迫ればいいのよ」
リューズは細いあごを指でつまみ、「なるほど」と小さくうなずいた。
「なかなか残酷なことを考えますね」
「おいおい、俺には話がわかんねーぞ」
「時が来ればわかるわ。……リューズ、ベゼル」
「何か?」
「なんだ?」
「アサヅミとマヒルガの調整をしておくことね。私も、『あれ』の調整を急ぐから」
「ちょ、おい……」
ベゼルの言葉は無視し、黒乃は前方を指で、縦に切った。人ひとりが通れるほどの大きさの穴が広がって、二人に構わず、それに入っていった。
出た先は、見慣れた保健室だった。
今日は日曜。誰もいないことなど承知の上だ。
いったんベッドに腰かけたが、すぐに思い直して立ち上がる。
光一が普段から使っている椅子に座り、感触を確かめてみた。お世辞にも上物ではない。こんなものに長く座っていたら、腰を痛めるのではないだろうか。ただ、何かと動き回ることが多いようだから、これでもいいと思っているのかもしれない。
ぺたり、と今度はデスクに頬をつけてみた。髪が垂れて、ふと——棚が見えた。消毒液などが収まっているので、その匂いがしてくる。
「先生の匂い、かな……」
もちろん違う、と自分で否定する。だが、そうとでも思わないと、あの狭間夢月が、光一のすぐそばにいるという事実に苛立つのだ。
自分は嫉妬している——
〈リライト〉の身でありながら、恋心などというものを抱いている。
〈クロック〉によって生を受けた者は、〈リライト〉のために尽くし、戦う。修正のきかなくなった時の流れは遮断し、その時代に生きる人々すべてを葬る。
〈リライト〉のやることに疑問など感じていない。
ただ、自分の恋心がイレギュラーである光一にどう作用するのか――その好奇心があるのは紛れもない事実だ。
「先生……」
無意識に手を動かすと、指先に何かが当たった。それは写真立てだった。まだ幼い夢月の写真で、何も知らずに笑顔を浮かべている。
光一がいつも見ているもの。いつも、愛情のこもった眼差しを向けているもの。
気づいた時にはその写真立てを、乱暴に払いのけていた。壁に激突し、ガラスやフレームが散乱し、床に一枚の写真がすうっと落ちる。
乱れた髪が額にかかって、うっとうしかった。
「……先生は、私のモノ」
誰にも渡さない。
相手が誰だろうと、狭間夢月だろうと。
たとえ、〈リライト〉の使命に反することになってでも。
黒乃は両の眼を写真に向け、ためらいなく踏みにじった。
どうせこんなもの、いくらでも修復できるのだから。
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