第10話「光一の災難」
養護教諭という職業は大抵、『保険医』と呼ばれたりする。
保健室にずっといて、ケガや病気をした生徒のケアをするというのが漠然としたイメージかもしれない。光一自身も、資格を取るまではそんな風に考えていた。
ただ、実際には健康診断や保健教育、そして風邪の予防などを啓発するポスターの作成、職員や保護者向けにプリントを作成することもある。そして専門外ではあるが、カウンセリングの真似事も。これがある意味、養護教諭という役職の一番重要な部分かもしれない。
そして養護教諭はひとつの学校につき一人、というケースが多い。
そのため暇そうだが、実は忙しいというのが実情だ。資料の作成をしているとケガをした運動部員がやってきて中断せざるを得ない上、『女子に対して保健教育を行うのが男性というのはいかがなものか』というクレームへの対応・対処を考慮することもある。
さらに、光一にとっては災難なことに。
どこから流布したのか、あるいは必然だったのか、『転校生の
女子はまだわかる。好奇心の強い年頃で、しかも叔父と姪がひとつの学校に通っているともなれば、その事情を探りたくもなるだろう。ひとつ屋根の下で暮らしていることだけは隠し通して、なんとか誤魔化すことに成功した。
しかし、男子まで聞きに来るというのはどういうことなのか。
一人目。頬を赤く染めた野球部員が「狭間さんって、す……好きなタイプの人っていますかね?」とのたまってきた。
知らん、と答えておいた。
二人目。眼鏡でうつむき加減の男子が、もじもじしながら「は、狭間さんってゲームとかって興味ありますか?」と聞いてくる。
これも知らん、と答えておいた。
三人目——髪を染めた背の高い、ケガとも病気ともメンタル面な悩みとも無縁そうな男子が、「カノジョはさぁ、なんていうかぁ、オレの感性にビビッとキたんですよ。というわけで先生、もしよかったらカノジョとのデートの許可を……」と髪をかき上げながら言うので、「帰れ」と養護教諭にあるまじき言葉と態度で追い払った。
どうやら夢月は、男女共に好感を得やすい容貌らしい。
午前の終わり頃にやってきた生徒からは、「控えめで、偉ぶったところがなくて、人見知りっぽくて、そこが逆にそそられるというか……」と少し危ない証言を得た。
どうやら夢月はうまく、この学校に馴染めているらしい。そのことにどことなく安堵した自分がいて——「アホか」と内心でつぶやいた。
午前にやるはずだったポスター作製は、ちっとも進まなかった。
休憩時間を返上してでもやるか、それとも食堂に行くか、弁当か。
少し迷った末、弁当を買いに行くことにした。朝とは異なる種類の疲れを感じながら扉を開けると——またしても疲労の種を育てる場面に遭遇した。
夢月と黒乃とが、扉の前で睨み合っていたのである。
お互い、手には弁当箱。黒乃はお手製の、夢月は購入したと思しきものを。
それで光一は察した。この二人は、どちらが光一と食事するかを張り合っていると。
ただ、睨み合っているというにはやや語弊があるかもしれない。
夢月は烈火の如き
一体いつから、そうしていたのか。
いや、間違いなく午前の授業が終わってからのタイミングだろう。
「あ、先生。これからお昼ですか? よかったら一緒に——」
「ちょ、ちょっと待って! おじさんはわたしと一緒に食べるんだもん!」
「そんな約束をしていたのかしら? ねぇ、先生?」
「いや、していない」
「ひどッ! そこは嘘でも、『ああ、しているよ』って微笑みかけるところでしょ!?」
「君は俺……いや、僕のキャラをなんだと思ってるんだ」
吐息と共に首を振り、二人の前を素通りしていった。当然というべきか、さながらカルガモの子のごとく、二人がくっついてくる。
たまらず振り返り、「あのなぁ」
「なんでわざわざ僕とお昼を食べたいんだ? 教室でも食堂でも、一緒に食べる相手はいるだろうに」
「私、友達がいませんもの」
「わたし、この学校に来たばっかりだよ。知らない人とご飯食べるの、なんか怖い」
光一は目頭をきつく揉んだ。黒乃の返答は予想していたが、夢月が人見知りする性格であるとはあまり考えていなかったのだ。
光一は再び吐息をつき——「わかった」
「保健室で待っててなさい。すぐに弁当を買ってくるから」
「その心配は及びませんわ」
そう言って、黒乃が三角巾に包まれた弁当箱を二人分、掲げてみせる。
光一は目を丸くした。夢月に至っては、「ぐぬ」と、女子らしからぬ声を発した。
ふっ、と黒乃が勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
しかし、憮然としていた光一に、怪訝そうな顔をした。
「あら、先生。私の手作りお弁当は嫌ですか?」
「いや、そういうわけじゃないんだ」
「では、何か?」
「なんていうのか……タイミングがいいなと思っただけだ」
普段は手作りの弁当で食費を浮かしているのだが、昨日の騒ぎでそれどころではなかった。手作り弁当を習慣としているのは保健室に入り浸りの黒乃も知っているはずだが、ピンポイントで、弁当のない日に、二人分の弁当を作ってきたというのが解せないのだ。
光一はかぶりを振り、「いや、考えすぎだな」
「先生?」
「おじさん?」
「なんでもない。じゃあ、黒乃……そのお弁当、食べてもいいのかな?」
黒乃はにっこりと微笑み――「もちろんです」
「それでは早速、二人で——」
「ちょ、ちょっと待って! なんでわたしをハブくの!?」
「あら、あなたも同席するのでして?」
「当たり前だよ!」
にわかに言い争いを始めた二人を前に、光一がうんざりしていると——
「狭間先生、今、大丈夫ですか?」
振り返ると、タートルネックの女性がちょうど階段から下りてくるところだった。長身で、黒髪を肩の高さまで切り揃えている。手には教科書などを抱えていた。
光一はほとんど反射的に顔を引き締めた。
「どうかしましたか、流先生?」
「ええ、この間の教職員向けのお知らせについて、少々気になるところがありまして」
「というと?」
夢月と黒乃に目を配らせる。どうやらあまり、生徒には聞かれたくない話らしい。
「ここではなんですから、職員室の方までご足労願えませんか?」
「はい、大丈夫です」
「ああ、でも、先約があるように見えますが……」
夢月と黒乃はあからさまに不満げだった。
しかし、光一はこれを好機と見た。
「いえ、問題ありません。昼食をどうするか、程度の話でしたので」
「そうなんですか?」
「ええ。……どのくらい時間を取りそうですか?」
「十、二十分もあれば」
となれば夢月と黒乃とゆっくり昼食を、というわけにもいかないだろう。二人には悪いが、諦めてもらうことにしよう。
「わかりました」とうなずく。
そして二人に振り返り、「そういうわけだ」
「悪いけれど、今日は諦めてくれ。またいずれな」
「いずれって、いつよー……」
「仕方ありませんわね。お弁当は先生のデスクに置いておきますから」
「ああ、頼む」
そう言い残して、光一は流と共に職員室に向かった。
保健室には鍵をかけてあったのだが、光一はそのことをすっかり失念していた。
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