第9話「狭間夢月と黒乃すみか」

 電車に乗り、学校の最寄り駅まで。


 二人で改札口を出た時——ちょっとした出来事が起こった。


「おはようございます、先生」


 案内表示の柱の前で、黒乃がそっと本を閉じ――小さく頭を下げてきた。こんなところで出くわすとは思わず、光一は面食らっていた。


「……あら? そちらの方はどなたですか?」


 肩越しに振り返ると、夢月が背中にくっついて、明らかに警戒心をあらわにしている。「むぅう」などと声を出して、光一の服を引っ張っている。まるでお気に入りのおもちゃを取られまいとする子供のようだ。


 だが、黒乃は気に介した風もなく――「見慣れない顔ですね」


「同じ色のリボン……転校生かしら?」

「あー、まぁ、そんなところだ」


 光一は他の客の邪魔にならないよう、黒乃の近くまで歩いていった。「むぅううう」と唸るような声は続いている。


「そうなんですか。お名前は?」


 訊かれ、光一は完全に失念していた。名字が同じだとわかれば、余計な詮索をされかねない。


 だが、夢月は光一の背中から顔を出して、はっきりと告げた。


狭間はざま夢月むづきです」

「……狭間?」

「おじさんの、姪ですっ」


 服を掴む力が強くなる。しわになるから止めてほしい。


 だが、それよりも——黒乃の怪しむような視線が痛かった。


「おじさん? 先生の姪御さんですか?」

「……まぁ、そんなところだ」

「改札口から一緒に出てきましたよね? まさかとは思いますが……」


 黒乃の次の言葉は簡単に予想がついた。


 曰く、「一緒に住んでいるのか否か」だ。「たまたまだ」と苦しい言い訳しか思いつかない。


 そう、逆方向の電車から出てきて、たまたま遭遇したとでも言えば——


「うん、一緒に暮らしてるよ」


 光一は天を仰いだ。


 この子には、後でたっぷり説教してやる必要がある。


 黒乃の目がすぅっと細くなる。非難を込めた目だ。いや、軽蔑の眼差しかもしれない。


「……とりあえず、歩きながら話しましょうか」


 平淡な口調が、逆に光一には恐ろしかった。


 学校まで歩く傍ら、三人はしばし無言だった。


 見慣れた角を曲がって、校舎が見えてきたところで——「そういえば」と黒乃が不意を突くように切り出してきた。


「私、まだ自己紹介してなかったわね」

「うん? あ、あー……そうだったな」


 夢月のことを指して言っているのだろう。彼女はといえば相変わらず、光一の陰に隠れている。歩きづらいことこの上ない。


 黒乃は夢月に半身を向け、「私は黒乃すみか。あなたと同じ、二年生ね」


「……おじさんと、どういう関係?」


 浮気関係かどうかを疑う口ぶりである。そもそも、恋人さえいないというのに。


 夢月の問いを予想していたのか、黒乃は余裕げに微笑んだ。


「ただの生徒と、先生よ。あなたが思っているようなことは何もないから、安心して」


 逆に何かありそうな文句としか思えない。


 夢月はようやく光一の服から手を離し、微妙な距離を保ちながら、黒乃と歩調を合わせた。歩きやすくなったのはいいが、まだ背後から不穏な空気を感じる。


「二年生ってことは、わたしと同い年ぐらいだよね?」

「ええ、そうね。私は十七。あなたは?」

「十六。もうちょっとで十七」

「ふぅん。……それで?」

「別に」


 すると黒乃がにやにやと、口の両端を持ち上げた。


「結婚ができる年齢かどうか、確かめてるのかしら?」

「そっ、そんなことないもん!」

「安心して。在学中は手を出すつもりはないから。……在学中は」


 なぜ、二回言う。


 二人の間でぴりっ、と火花じみたものが発生したのは気のせいではない。


 耐えきれず、光一は口を開いた。


「二人とも、そこら辺にしときなさい。……黒乃、この子をからかうのは勘弁してくれ」

「からかってませんよ? 絡んでいるんです」

「なおさら余計に止めなさい。保健室に来ても、相手にしないぞ」

「それは困りますね」


 光一の言葉が功を奏したらしく、黒乃はこれ以上夢月に絡もうとはしなかった。それでも夢月は黒乃への警戒心を解かなかったが、彼女はその視線をさっと受け流していた。


(黒乃って、こんなキャラだったか……?)


 疑問に思いつつも、三人は学校へと辿り着いた。保健室は教室とは別方角にあるので、玄関で別れることとなる。


「じゃあ、先生。また後で会いましょう」

「わ、わたしも行くから!」

「……保健室は休憩室ではないんだが」


 どっと疲れを感じつつ、光一は自分の職場へと向かった。

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