▼21「卒業」

 教室の中はいつも以上に騒がしかった。

 一歩入る前から同級生たちの賑わいが耳に入ってきていて、着飾った格好を披露したり、思い出話に花を咲かせたりしている。

 対して僕は平時と変わらない。

 出で立ちも登校時間も、あえて通常を意識して今日を迎えた。

 それは、この日を特別にしないように。

 昨日は散々話してしまったから。これ以上後ろ髪をひかれてしまわないよう、僕たちはあくまでも日常を過ごそうと決めたのだ。

 それでも、教室に入って真っ先に彼女の声を探してしまう。


『——らって張り切り過ぎよ。……あ、三戸くんの声』


 友達と談笑中だったらしい彼女が、僕に気づいて名前をこぼした。もう随分と聞き慣れた声に心は反射的に弾んで、


 その時、バシッと背中を叩かれた。


「創、お前いつも通りじゃん! もっとオシャレしろよ!?」


 振り向くと、髪をワックスで固めた中野くんがいた。その表情は周囲の誰にも負けないようなハイテンションで僕は思わず気後れする。


「お、おはよ中野くん。まあいつも通りで良いかなって思ってさ」

「最後なんだから決めようぜー!?」


 過剰な音量と力で叩かれる。そうしてそのまま、中野くんは僕に向けて弾丸トークを始めていった。

 僕は相槌を打ちながらも、必死に頭の中へと意識を向ける。


『ああ、うん聞いてたわよっ』


 でも、彼女も友人に話しかけられているようで、僕らの会話の隙は訪れない。


『三戸くん、またにしましょう』


 ……そう、だね。

 僅かな言葉で切り替えて、とりあえずはと目の前へ向く。

 中野くんの大仰な口調に苦笑していれば、すぐに山本くんもやって来た。


「二人とも早いねー」

「おう! なんだよお前も普通じゃん!」

「中野は気合入れすぎ。後輩から告白とか狙ってるんでしょ?」

「ち、ちちちちげぇよ! それより! 式終わったらカラオケいかね!?」

「あー、俺途中で抜けるかもだけどそれでもいいなら」

「あーん? 彼女かぁ? まーしゃーねぇな。創は大丈夫か?」

「え? あっ、うんっ」


 何の問いかけかも分からず肯定をすると、中野くんは嬉しそうに笑った。その感情を共有出来ない申し訳なさを抱きながらも、僕はまた上の空になる。

 どうしても頭の中が気になって、でも安立さんも会話中だから声はかけられない。だからと言って、誰にも邪魔をされないよう移動しようとしても、教室の中に隠れられる場所なんてない。

 教室を出れば、もう声は聞こえないのだ。

 焦りが、鼓動をはやらせる。それを諦めがどんどんと覆っていく。

 そうして、あっという間に時間は来てしまった。


「おーい、体育館行くから並べー。出席番号順なー」


 スーツを着た担任教師が、チラリと顔を出して生徒を廊下へと呼び寄せる。ゾロゾロと指示に従う流れに僕は思わず強張ったけれど、中野くんに背中を押されて教室を出てしまう。


『あ、三戸く——』


 結局、まともな言葉を交わせないままに声は途切れた。


「じゃあ、列乱さないまま体育館行くぞー」


 教室に戻れるのは式が終わってから。荷物は置いているから、まだ教室に入ることは出来るはずだ。

 その時には、ちゃんとお別れを。

 そう決心したところで、ふと一人の同級生が目に入った。


 北川さん。

 安立さんの話に度々出て来る彼女の友人だ。


 北川さんは写真を持っていた。一抱えぐらいある額縁の中にどんな瞬間が収められているのかは背中に隠されて見えなかったけれど、彼女の肩は震えている。


「かずみ……っ」


 鼻をすする音。前の女子が少しだけ顔を振り向かせて、目元を拭った。

 その様子を見て痛感させられる。

 やっぱり、彼女はここにいないのだと。


 ◇


 3年前はもっと心を打たれていた気がするのに、今日はなんだか退屈しか感じられなかった。

 体育館へ入ると、席を埋める保護者や在学生たちに拍手で迎え入れられる。前を行く同級生と一定の距離を保ちつつ、指定された席へと行進。席の前に立っても卒業生全員の入場が終わるまでは着席出来ず、やっと座れたと思ったらすぐに立たされて、また座らされてを繰り返す。

 そんな式の進行の一つ一つが億劫だった。

 様々な人からの祝いの言葉はどれも頭に残らない。誰の話にも安立さんが出てこないことだけを把握して、それでこの場に興味を失った。

 唯一、彼女の名前は呼ばれた。

 僕のクラスの最初。出席番号1番の安立香澄の点呼に返事は当然なかった。しんと静まり返った体育館に数名のすすり泣く声だけが響いて、すぐに2番3番へと移った。

 保護者の中で涙を堪えていたのは彼女の両親だったのだろうか。

 そんなことをどこか他人事に考えていた。

 そこでようやく、僕が好きになったのはこっちにいた彼女ではなかったのだと思い知った。

 僕が会いたいのは、この3か月余りで交流した彼女なのだと。



 退場は少し早足になってしまって、僕と前の人の間隔だけ他より狭かった。

 体育館を出ると緊張感が一気に弛緩して、卒業生たちは表情を綻ばせながら、もしくは涙を流しながら卒業の実感を共有し合っている。

 その集団を横目にすり抜ける。その間際、北川さんが抱える写真が視界に入った。

 僕の知らない安立さんの笑顔。それは少し荒い画像で、でも彼女が本心から頬を緩めているのが伝わる。


 けれどそれが、あの日見た横顔を上書きすることはなかった。


 僕は立ち止まることなく、3年2組の教室へと向かう。

 人気がなくなるとすぐに大きく腕を振った。すると妙に息が上がった。疲れではない何かが、僕の鼓動を速めていく。


「安立さんっ!」


 3年生フロアには誰もいなくて、だから僕は教室に入るなり彼女の名前を叫んだ。


 でも、返答はなかった。


「安立、さん……? 聞こえてる?」


 教室に足を踏み入れれば、嫌でも頭の中に流れ込んできた声。それはどこにも存在しなくて、本当に妄想だったと言い張るように、僕の記憶だけに押し留められている。


 きっと僕は、それを予感していた。

 教室を出る直前に。

 ここまで急ぐ道のりに。


 中途半端な言葉が最後になった後悔が、僕の心臓を緩く締め付けていた。

 鼓動は、ゆっくりと元のペースに戻る。

 自分が生きているという事実が、どんどんと彼女との距離を遠ざけているようで、軽く頭痛がした。

 少し覚束ない足取りで自分の席に座る。そこから、何度も眺めた彼女の席を見つめて、窓の外に視線を移す。

 もちろん、そんなところに彼女はいない。

 それでも教室中を見渡して。姿を、声を探して。何も見つからなくて。

 まだ、向こうの彼女が教室に戻っていないだけだと考えようとして、やめた。これ以上はもう無意味だとなんとなく理解していた。

 僕は机に突っ伏す。泣いてはいない。現実に対する不満もなかった。

 膨らんだ感情は、諦めが既に覆いつくしている。


 分かっていたことだから。


 時間の流れも忘れて、僕は意味もなく視界を閉じる。

 しばらくして騒がしさが鼓膜を叩いた。教室に同級生たちが戻って来たのだ。

 僕はそれでのっそりと体を起こして、賑やかな皆をぼーっと眺める。すると、僕を見つけた山本くんが集団の中から歩み寄って来た。

 彼は僕の顔を見て、不思議そうに眉をひそめたけれど特に言及はしなかった。


「三戸、写真撮るって」

「……うん」


 呼ばれて席を立つ。戻ることはないだろうからと荷物は持って、教室を出た。

 振り返りはしない。そこには誰もいないから。

 いくつも撮った写真に写る僕は、ちゃんと笑えていた。そのことが何だか奇妙に思えて、でもそれが正しいのだと自分を少し褒める。

 そうして僕は、中学校を卒業した。


 ◇


「あっのーぬぅくもぉりがー何度も聞ぃーたこぉえがぁ君がぁぃたこぉとがー宝石ぃーになぁった日ぃ」


 卒業式が終わって、中野くんと山本くんと僕の三人でカラオケにやって来ていた。

 お金は中野くんのお父さんが卒業祝いとして出してくれて、遠慮なく割高なフードメニューでお腹を満たさせてもらい、すぐさまカロリー消費を行っている。

 最初の方は僕と山本くんも歌っていたのだが、すぐにレパートリーが尽きて、中野くんがずっとマイクを握っていた。

 中野くんの歌声に、どこかで聞いたことあるようなと記憶を探りながら体を揺らしていると、隣に座っていた山本くんが腰を浮かせた。


「俺、そろそろ出るよ。中野、お父さんにありがと言っといて」

「もうかよー」


 山本くんはこれから用事があるらしく途中退場。中野くんは早めの別れに文句を垂れながらも引き止めはしなかった。


「じゃ。次いつ会えるか分かんないけど」


 出入り口の扉に手をかけて山本くんが告げる。

 僕たちはそれぞれ別の学校に進学する。中学では長い時間を過ごした仲だけれど、高校は見事にバラバラになった。

 だから、この別れが最後になることだってあり得る。

 そう考えるとちょっと寂しさを感じて、でも中野くんが快活に片手を上げたから僕は思い出す前に意識を切り替えられた。


「おうまたな! 彼女とイチャつき過ぎんなよ!」

「それは人の勝手でしょ」


 中野くんの相変わらずな口ぶりに山本くんが苦笑する。そのやり取りを見て、僕も乗っかるようにからかってみる。


「砂川さんを大切にするんだよ」


 とその言葉を放った途端、山本くんが目を丸くした。


「え、なんで知ってんの……?」


 その頭に浮かぶ疑問符を見て、そう言えば今僕が口にした情報は彼が頑なに隠していることだったと思い出す。

 それと共に、その秘密を教えてくれた人の顔も。

 僕は慌てて取り繕う。


「あっえっと、風の噂で聞いちゃってね」

「砂川……ってあの1組のか!? マジかよ! 彼女って砂川だったのかよ!?」

「あーあーそうそう」


 ずっと教えてもらえなかった中野くんが興奮して肩に手を置くものだから、山本くんの相槌は酷く面倒くさそうだった。

 けれどもハッキリと肯定していて、そのことに僕の胸の内もなんだか動いていた。


 ……あの声は、妄想じゃない。


 その証明が、後ろ髪を引っ張る。

 それから山本くんは再度別れを言ってから部屋を出た。ガラス越しに手を振って、彼は去っていく。


「ってああ!? 曲終わってる!?」


 見送ってから、モニターが採点画面になっていることに気づいた中野くんが声を上げた。それで、もう一回と同じ曲を入れて彼は熱唱を再開する。

 それを僕は、ぼんやりと聞き続けた。


 ◇


 山本くんが途中退場してから1時間ほどして僕と山本くんも店を出た。

 入り口前の駐車場で二言三言交わし、最後は感情的になった中野くんに抱き着かれて、苦笑しながらの別れとなった。

 そうして一人になると、途端に頭の中に余白が生まれる。

 あの場所ではもう一人の声。そうではない時はそのもう一人のことを考えて。

 そんな風に埋まっていた箇所が空いているから、風が吹くと寒さすら感じた。

 帰宅までの道は何も考えないように意識した。そのせいで何度も躓きかけて、足を止めるたびに彼女の顔がチラつく。

 噴き出る後悔はどうにか見ないフリをして、僕は自宅へと急いだ。

 今日は母がいるはずだ。平日だけれど、卒業式に出席するため有給休暇を取ったらしいから、式が終わってからは家に戻ったはず。

 誰かと話していれば、きっと思考も少しは埋まる。そう思っている間に気づけば玄関扉が目の前にあった。


「ただいまー」

「おかえりー」


 心持ち大きめの声で帰りを伝えると、耳慣れた声が返ってくる。そのことに安心感を覚えて靴を脱いでいると、わざわざ母が玄関までやって来た。


「創、改めて卒業おめでとう」

「うん」


 なんて返せばいいか分からず、照れ隠しのように頷きだけ返す。いつもとは違う言葉をかけられたことで、ハッキリと時の流れを感じた。

 母はエプロンを付けていて、晩御飯の準備をしているようだった。そのことを知ると途端に、鼻が良い匂いを察知した。

 匂いに釣られてキッチンへ向かおうとすると、ふと母が微笑みながら尋ねてくる。


「ちゃんと、皆にはさよなら言えた?」


 うん、と頷こうとして、だけど僕は動きを止めた。

 中野くんに山本くんとはちゃんと別れを言い合って再会も誓った。クラスメイトで他に話したことのある人も同様で、先生方には今までの感謝を伝えて回った。

 あの学校で関わりがあった人には、全てさよならは言えた。

 それでもやっぱり、僕の中には心残りがあった。


 あの学校には、いない人だ。


「……言えて、ないかも」

「そう」


 母は相槌だけ返すとキッチンに戻っていく。僕はその場で立ち尽くして、どうすればいいのか分からなくなっていた。

 この心残りを解消するべきなのか。でも、今更戻ったところでもう間に合わない。

 どうしたって、あれは妄想のままにしておくべきなんだ。

 そう、結論付けようとした時、キッチンの方から声が飛んできた。


「ご飯出来るまで、まだ時間あるからねー」


 それはなんて事のない連絡事項で。

 でも僕はその言葉で背中を押された気がした。


 トン、と。


 軽く、押し出される。驚いてずっと止めていた足を踏み出していて。

 きっと母にも、僕の思考が筒抜けだったのだ。


「……ちょっと、出て来るっ!」


 一度前に出てしまった体は、もう止めることは出来ない。

 僕は何も持たず、脱いだ靴をまた履いた。


 ◇


 日は沈んで、空はすっかり橙色に染まっている。

 日差しで充分に暖かくなった気温の中、走るとすぐに体中に汗をかいた。それはベットリと不快感をまとわせるけれど、構わず足を動かす。


 僕は、中学校に戻ってきていた。


 見えてくる校舎。そのてっぺん近くに備えられている時計は、まだ最終下校時刻を回っていない。校門も閉まっていなくて、数人、在校生の姿も見えた。

 式が終わってそのままカラオケに行ったから、服装は制服のまま。だから校門を走って通り抜けても、誰かに何かを言われることもなかった。

 ただ、下駄箱には僕の名前はもうなくて、仕方なくそのまま靴を脱ぎ捨て、靴下で廊下を駆け抜けた。

 すれ違う教師や生徒が、僕を不思議な目で見る。卒業生が何でこんなところにとか、なぜ靴下で走っているんだ、などと思われただろうか。でも無視して進んだ。

 そうして僕は、再び訪れた。もう二度と来ることはないと思ったそこに。


 3年2組。


 僕が卒業した教室。

 夕日が差し込んで明暗二分された空間。窓の外には桜の木が立っていて、例年なら咲く頃だろうが、まだ花は閉じている。

 息を切らしながら、僕は教室に入った。一歩踏み入ったところで足を止めて、けれど声は聞こえてこない。

 分かり切っていることだった。けれど今は、すぐ現れた諦めを取っ払って、自分の席だった場所に座る。

 教室を見渡せば、掲示物はほとんど剥がされていて、同級生たちが過ごした名残は消えていた。不意に自席も別のものではないかと不安になったが、見慣れた傷を見つけて少しだけ安心する。

 この場所で、僕は1年間を過ごした。けれどその思い出は、ほとんどが最後の3か月に塗りつぶされている。それほどあの時間はかけがえがなかった。


 僕は、彼女の席を眺めた。

 右に二つ、前に一つ。

 その距離は、夏休み前の席替えからずっと変わらない。

 でも、そこには誰もいない。


 声も、聞こえない。


 可能性としては、ただ彼女とすれ違っているだけということもある。まだ声を交わすことは出来るけれど、あちらの彼女が教室に戻っていなかったから、僕は独りを味わっただけだということも。

 だとしても、今更彼女が教室に戻ってくることなんてあるのだろうか。

 式が終わってからは大分経つ。そろそろ最終下校時刻だし、それを過ぎれば見回りがあるだろう。そんな中、確信もないのに居座り続けるとは思えない。

 それでも僕は、必死に頭の中に語りかけていた。


 ……安立さん、きみと最後に話がしたい。


 何度も何度もその願いを思い浮かべて。

 でも応答はなくて。

 少しずつ、差し込む光もなくなり、辺りが暗闇に落ちていった。

 やっぱりダメなのかな、と僕は諦めに負けて体を伏せる。

 腕を枕にして、彼女の席を眺めながら。


 疲れ切った体は、気づけば瞼を下ろしていた。


 ◇


 それはきっと夢だった。

 ぼんやりとした白い空間に、見慣れた配置で机と椅子が並んでいる。

 壁はないのに窓があって、床はないのに影がある。

 更には周囲に桜の花びらが舞っていた。

 ユラユラと落ちる花弁の軌道は残像を残していて、より幻想を演出する。

 そして何より。


 視線の先には、彼女の姿があった。


 右に二つ、前に一つの席。

 彼女は、机に突っ伏して寝ているようだった。


「安立、さん?」

「……ん?」


 名前を呼び掛けると、彼女は身じろぎした。それからゆっくりと体を起こして、その瞬間、横顔が見えた。

 数か月ぶりの、もう二度と見ることはないと思っていた顔。

 それが目に留まった瞬間、急に視界が歪んで僕は顔を俯けた。すると机にいくつもの水滴が落ちてくる。


「三戸、くん?」

「……うん、僕だよ。ここ、夢かな?」


 彼女は僕の方を向いているのだろうか。でも僕は彼女を見ることは出来なかった。

 この涙は何だろう。

 喜びか、悲しみか分からない。


「夢、かしらね。あたし、教室で寝ちゃってたのよね」

「そっか、僕もたぶん寝ちゃったんだよね」


 この夢での会話は、ちゃんと口と耳で行われていた。

 もう、思考が筒抜けということはないらしい。それが寂しくもあり、嬉しくもあった。


「僕、ちゃんと最後に安立さんと話がしたくて、戻って来たんだ」

「あたしも同じよ。あんな最後は、やっぱり嫌だったもの」


 中途半端に途切れた言葉。僕もあれが最後なのは嫌だった。

 もっと言うなら、≪最後≫がそもそも……。


「三戸くん、えっと、その」


 安立さんは何かを言いよどむ。頭の中はもう覗けないけれど、なんとなくその口調で、彼女は早速さよならを告げようとしているのだと分かった。

 でも僕は、まだこの時間を続けたかった。


「ねえ、僕たち、今までどんな話をしてきたっけ」


 だから、そうやって引き延ばす。


「え? えっと……最初は、自己紹介をしたわよね」


 安立さんは疑問に思いながらも問いに応えてくれる。


「うん、僕たちに共通点が結構見つかったんだよね」

「そうね。それから、あのやり取りがどんな仕組みなのかって考えて」


 安立さんの声で、これまでのことを思い出していく。

 次第に彼女の口調も流ちょうになっていって。きっと彼女も僕が時間を引き延ばそうとしていることを理解していたのだろう。

 だからか、以前のように笑みすら交えて会話をしてくれる。


「テストで協力しようと思ったけど、なぜか勝負になったんだよね」

「三戸くんの直感がズルいのよっ。適当にやって正解なんておかしいわっ」

「このまま高校で通じると良いけどなぁ」

「絶対に通じないわ。ちゃんと勉強しなさい」

「さすがに全くしないってことはないよ。ちゃんと将来も考えてるから」

「あれ、考えていないんじゃなかったの?」

「そう言えば、そういう話もしたね。……うん、やっぱり考えてなかったよ」

「三戸くんらしいわね。……っ」


 不意に、安立さんが声を詰まらせた。それに反応して、僕もこみあげて来るものがあって、必死に押し留める。

 でも、無理だった。


「バレンタインで、本命チョコを作ったのはっ、三戸くんが初めてよっ」

「そっかぁっ。僕はっ、そもそもチョコを作ったことがっ、初めてだったよっ」


 お互いに声は震えていて。合間合間に鼻水すらすすって。

 もう笑えていないなんて分かり切ったことなのに、それでも無理に口角を上げた。

 嫌だ。終わってほしくない。

 でも、伝えずに終わるのはもっと嫌で。


「ねえ、三戸くんっ。あたしっ、あなたと話せて幸せだったわ……っ」


 歯を食いしばった。僕も伝えないと。どうにか口を開こうとして、でも意味の違う音ばかりが零れてくる。

 必死に抑えて、それで勢いに任せた。


「ぼ、僕もっ! 幸ぜだった……! まだっ、ずっと話していだいよっ!」


 駄々をこねるようだった。それを情けないとは思えなかった。

 どうしようもなく、本心だったから。

 ただそれで、安立さんの嗚咽は少し収まったようで。


「……あたしも、話していたいわ。でも、無理、なのよね」


 僕はそこで初めて顔を上げた。

 彼女は僕を見ていて、落ち着いた声音の癖に、まるで鏡合わせのように涙を流している。

 眉間には皺が寄って、頬には幾筋もの線が出来ていて、それでも彼女は僕を見て笑った。


「あら、三戸くん、酷い顔ね」

「そっちこそ、ぐしゃぐしゃだよ」


 視線が合う。

 その瞬間、視界が異様にブレた。

 ゆっくり降下していた花弁が突然舞い上がる。それと共に周囲の椅子や机、窓なんかも桜になって散り始め、この空間が小さくなっていく。


 もう、終わってしまうのだ。


 それを理解した時には、僕は椅子を蹴っ飛ばしていた。


「安立さんっ!」「三戸くんっ!」


 最後に。最後にだけ。


 声でしかやり取りが出来なかったから。

 想いは十分に届け合ったから。


 一度だけでも、触れ合いたい。


 世界が散っていく。

 その中で僕は必死に手を伸ばした。

 すると彼女も同じように僕を求めてくれて。

 けれどその幸せは、届かない。



「僕っ、安立さんのことっ、絶対に忘れないからッ!」

「あ、あたしもっ、三戸くんのことを忘れないわっ!」



 僅かに指だけが重なった気がして。

 でも結局温もりは得られないまま。


 呆気なく、夢は終わった。


 ◇


 ——ンカーンコーン


 聞き慣れたチャイムの音で目を覚ますと、僕は真っ暗な教室にいた。

 黒板の上に飾られる時計の針は最終下校時刻を回っていて、僕はそっと席を立つ。


「……帰らないと」


 濡れている目元を拭うと、拭った手の中から何かがひらりと落ちた。

 それは、一枚の桜の花びらだった。


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