▼14「あの日見た横顔」

 安立香澄。3年2組出席番号1番。

 彼女は今から5か月ほど前——8月を目前にした日に事故で亡くなった。

 僕はそうなるとも知らず、その日、彼女の横顔を眺めていた。

 それからずっと、小さな後悔があった。


 ◇


 僕の両親は共働きで、急に仕事場から呼ばれては、突如僕に留守を任せることも多かった。

 中学3年生の夏休み。

 その日、両親は町内会のボランティア活動に参加する予定だったのだけれど、早朝にけたたましく電話が鳴り響いて、慌てた様子で家を飛び出していった。

 僕はそれを寝ぼけ眼で送り出したのだが、その玄関先で、代わりに町内会に断りを入れておいてくれと頼まれた。

 スケジュール帳が真っ白だった僕は、言われるがままにボランティアの集合場所へ。既にそこには数人が集まっていた。

 そこで、何度か話したことのある近所のおじさん——米田さんを見つけ、親のドタキャンを説明すると、それなら人手が足りないから参加してくれないかと頭を下げられた。

 宿題は残っていたけれど、まだ急ぐ時分ではない。それ以外に夏休みにやることなんてなかったから、人助けは悪い事じゃないだろうと思って頷いた。


 僕の住む街は海沿いで、いくつかの海水浴場がある。そこは地域の人たちの活動によって綺麗に保たれていた。

 その活動の一つが今回のボランティア活動、ゴミ拾いだ。

 夏になれば海辺には毎日のように人がいる。と言っても寂れた街なのでそこまで人口密度は高くなくて、見かけるのは大体が学校で見たことある顔ぶれ。

 はしゃぐ同年代のグループを少し羨ましく思いながら、一人一セット用意されていた火ばさみとゴミ袋を手に海岸清掃を行っていく。頭には熱中症対策にと麦わら帽子まで乗せてもらっていた。

 けれど夏の日差しは信じられないぐらいに強い。

 一歩歩くたびに汗が流れ落ちて、次第にこの無償奉仕を引き受けたことを心の内で嘆いたりもした。とは言え小心者な僕が投げ出すようなことを出来るわけもなく、淡々と袋にゴミを突っ込んでいく。

 そうして砂浜の端、岩がせり出してそれ以上は進めない場所までやってきた僕は、彼女を見つけたのだ。


「あ。安立さんだ……」


 僕とそう変わらない背丈。肩甲骨辺りで海風にさらわれる後ろ髪。水着を着ているのだろうが、上着を羽織って上半身は隠されている。

 クラスメイト。話したことはない。その程度の関係。

 だからこの時、僕は彼女の苗字を口にしたけれど、そこから続くファーストネームまでは把握していなかった。

 彼女は一人だった。

 なんだか物憂げに、岩礁の上でじっと海を眺めている。何をしているのかはよく分からない。けれどなんとなく、一人でいたい雰囲気を漂わせているような気がした。

 ただ、彼女が立つ岩場には波が打ち寄せている。一部分は浸かって濡れている箇所もあり、かなり滑りやすそうだ。

 それでふと、町内会の人にあの岩場は危ないから気を付けろ、なんて忠告を受けたことを思い出した。事故は未だないけれど、岩のすぐ手前が深くなっていて危険なのだとか。飛び込んで遊ぶ人が多いから、近々封鎖するという話も出ているらしかった。

 安立さんは、遊んでいる雰囲気ではない。何もせず、遠くを眺めているだけ。

 それでも危険はある。大きな波が来れば、足を取られてしまうかもしれない。

 注意を投げるべきだった。

 でも僕は、どう伝えればいいのか分からなかった。

 眺めるだけ眺めて、結局足を踏み出せなかった。

 それはどうしてだったのだろうか。

 後になって、そのことを度々考えた。

 関わりがなかったからか。彼女が一人にして欲しそうだったからか。異性を相手に緊張していたからか。

 たぶんどれもが正解で、なんだかんだ言い訳をして、行動することを面倒臭がったのだ。


「創くーん! ちょっと休憩にしよーやーっ!」


 後ろから野太い声がかけられる。それが、言い訳を更に増やして僕をその場から引きずった。


「あ、はーいっ!」


 振り向けば、米田さんが手を振って僕を呼んでいた。すぐに僕はその下へと駆けて行く。

 その間際、チラリともう一度だけ安立さんを見た。

 彼女は未だ岩礁で佇んでいて、水平線を眺めている。少し前と変わりはない。

 それを僕は、見なかったことにした。


 米田さんに呼ばれて何事かと思えば、急な代役のお礼にジュースを買うように言われた。お金を受け取って、道路を挟んだ休憩所のような場所で冷えたスポーツドリンクを買う。

 道中、制限速度を無視した車に轢かれそうになって度肝を抜かれた。その時にはすっかり、安立さんの横顔は記憶に埋もれてしまっていた。

 それからすぐにボランティアは中断された。あまりの暑さに二人も倒れてしまったらしい。帰り際には近くのコンビニでアイスを買って、暑さに文句を言いながら僕は帰宅した。


 その日、あの場所で。

 彼女が亡くなったのを知ったのは、2学期に入ってからだった。


 ◇


 特に遊び歩くわけもなく、なのに最終日になって宿題が終わり、夏休みが明けた。

 久しぶりに登校すると、友人たちは日焼けをしていてそのことを発端に会話を弾ませる。

 朝礼前の雑多な時間。その中で、一部の生徒が暗い面持ちをしていることには気付かなかった。

 担任の先生がやって来て、生徒が着席する。するとふと、ぽっかり空いている席が目に付いた。


 右に二つ、前に一つ離れた席。

 安立さんの席だった。


 その瞬間、僕は岩場で彼女を見かけた記憶を呼び起こした。かと言って何か関連性を見出したわけではない。

 夏風邪か何かで欠席なのだろう、と思ったくらいだ。

 けれどその直後、真実を知った。


「大変残念なことだが、安立香澄さんが、事故で亡くなられました」


 担任教師が重々しい声で告げる。そこで初めて、教室内に鼻をすする音がしていることに気がついた。一部の親しい友人はもちろん知っていたのだろう。

 それから、簡単ではあるけれど先生が事情を語った。

 思い浮かべていた日付と場所が一致する。

 そして、岩場で波に足を取られて溺れたという結末も、僕は想定していないわけじゃなかった。

 その思い当たりに、なんだか現実から遠ざけられていくような感覚に陥る。

 もしあの時、僕が声をかけていれば、彼女は今もこの教室に通っていたのだろうか。

 そう考えて。けれどどうしようもないものだというのは分かっていた。

 生き返るわけじゃないし、僕が助けられた保証もない。

 それでも、何かは出来たんじゃないか。

 気にするべきか、忘れるべきか。

 思考がグルグル回って。でも、友人にいつものような雑談を振られて一旦脇に置かれた。

 僕に彼女と関わりなんてなかったし、周りも僕が彼女と関わりを持っていないと思っている。だからわざわざ話題にする友人なんていなくて。

 教室内はしばらく暗かったけれど、割と平然に動いていった。僕はそれに釣られるように日常に戻されていく。

 ただ、席替えは行われないでいた。まるで彼女がいた証拠を遺すかのように、頑なに空白の位置は変わらないままだった。

 でも時間が経つにつれて、あの時の横顔を思い出す頻度は減っていく。

 後悔も小さくなっていく。

 次第に、教室の中で空席を見た時だけ、不意に思う程度のものにまで薄れていった。


 それでも、視線を少し動かせばどうしても目に入る。

 そうすれば、嫌でもまた考える。

 安立さんのこと。


 やっぱり僕は、声をかけるべきだったのだろうか。

 あの時、彼女は何を思っていたのだろうか。

 何を、見つめていたのだろうか。


 もし、彼女と話せたなら、その答えを知ることが出来るのだろう。

 そんな考えが、妄想と混じり合った。

 だからあの声はきっと、僕が生んだのだ。

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