宛先のない手紙、行く先のない冒険者1

「え? 早上がり、ですか?」

「そう。今日は十三時までだったと思うんだけど、十二時になったら、ね。なんだか、色々トラブってるみたいでさ。午前はもうトラック来ないみたいだから」

「あぁー……わかりました」

 正午。就業先である大手通販会社の運営する物流倉庫の持ち場にて。作業開始前にアルトリーネはそこの正社員である立場の男性から、唐突に早上がりを命じられた。確かに、本日の業務はいつもよりもずっと楽で、暇ではあったのだけれども、アルトリーネを含めた派遣スタッフたちにはいささか急な話だった。が、彼女たちには従う以外の選択肢はない。

(ただでさえ、八時開始で十三時終了の時短シフトなのに……)

 都内で時給千百円。それでたった五時間のみの労働で帰宅の途につくとなれば、あまり美味しいとは言えない稼ぎだ。せめてもの救いは、八時開始で十八時終了の通常シフトと違い、時短シフトの場合は一時間の休憩時間がないことなのではあるのだが――。

(あれを買うためには、余計に倹約しないと……)

 とある買い物に備えて貯金していたアルトリーネにとって、早上がりのお達しは他人が思う以上に頭を抱えたくなるような事態だった。そういった思考が顔に出ていたのか、それとも男性がアルトリーネの心中を上手く察したのか、申しわけなさそうな声色で「ごめんね」とだけ残し、その場を去って行ってしまった。

 どんなトラブルが発生したのか、あえて詳しく聞かなかったし、その責任の所在は先ほどの男性にないことは明白だ。だから、アルトリーネはそれについて彼を責めるつもりはさらさらない。ないのだけれども。やはり、決して多くはない稼ぎが減ってしまうという事実に、溜息を漏らさざるをえなかった。

 その直後、ボーッという船の汽笛のようなブザー音が鳴り響き、近くのベルトコンベアーが規則的な機械音を立てて稼働し始める。時短にはなったかもしれないけれど、仕事自体がなくなったわけではないのだ。

「さてと」

 両側に壁のように設置された縦四、横八に区切られた特製のメタルラックと、それぞれの区画にすっぽりと収められた巨大なバッグ群を眺めながら、アルトリーネは作業用ゴム手袋をはめた両手の指を絡めるようにして腕と背筋を伸ばした。そして、マスクのズレを直すと、今から始まる地味な作業――ベルトコンベアーで運ばれてきた荷物を拾い上げる役の人からそれを受け取り、スマホのような端末で荷物に貼り付けられたQRコードを読み取ってから所定の場所へとひたすら収めていくという作業に備えるべく、微妙に落ち込んだ気持ちを深呼吸ひとつで切り替えた。

 とにかく、働かなければ暮してはいけない。それはどこに居ても同じだ。こちらでも、あちらでも。変わったことと言えば、その方向性と命の危険の有無。冒険者として活動していた頃であれば、モンスターの討伐やありとあらゆるアイテムの収集、未踏領域の調査などを行っており、日常的に死が隣にあった。

(別にこっちの仕事もケガなんかの心配がないわけではないけど……薬草取ってこいってお使いクエスト中にボスクラスのモンスターが襲ってきて、あっという間に殺されかける、なんてことはないからね……)

 それなのにしっかり働けば、それに応じて報酬が出るのだから、こちらでの仕事は精神的にはずいぶんと楽なものだった。もちろん、こちらの世界の方が圧倒的に物価は上で、努力して獲得した報酬も風に吹かれて散る花のように飛ばされていく。

(これがってやつか……)

 荷物の受け渡しをする台の向こう側から雑に置かれた段ボールに、アルトリーネは手に持った端末の、レーザー光の照射口を向けた。そして、赤い光がQRコードを捉えるとピロンという電子音が鳴り、端末の画面に22―4Gという英数字が表示された。

 それを確認するや否や、アルトリーネは指定された場所にそれを収めるべく、片手で持つには少し重い荷物に手を伸ばすのだった。


 † † †


 典型的な花冷えを迎えたとは言え、さすがに正午を回る頃には寒さが落ち着き、アルトリーネが職場から町田駅前まで戻って来ると、辺りはすっかり春めいた暖かさに包まれていた。しかし、まだまだ風は冷たさを孕んでおり、春を享受できるのは日向に限った話であるため、寒さ対策に着込んだ上着を脱いでいる人間はそれほど多くなかった。風の勢いがそれほどでもないことが救いだろう。

 そして、アルトリーネも例に漏れなかった。冷えて余計に白くなり、青さすら感じさせる両手をMA―1のポケットに突っ込みながら、雑踏の中を慣れた様子でするすると歩いていた。向かう先は橋本駅北口へ向かうバスを待つ停留所――ではなく、小田急線町田駅西口から直結、JR横浜線からだと大きなデッキで繋がっている共同店舗型のショッピングモールだった。普段であれば、駅周辺であったとしても出歩く用事など滅多にないので直帰一択なのではあるのだけれども、今日はその滅多にないはずの用事がひとつあり、十四時から人と会う約束をしていたのだ。加えて、ただでさえ短い労働時間を削られたのだ。アルトリーネはそれで沈んだ気分を持ち直すための気晴らしを必要として、約束前に寄り道――ウィンドウショッピングを楽しむという選択をしたのだった。

(約束まで一時間……だったら、今日は見るだけじゃなくて……)

 目当ての物に触ってみてもいいかもしれないと、アルトリーネは少しだけ心を躍らせながら、コロナ対策として開始されてから久しいアルコール消毒を済ませ、ショッピングモールの入口を潜った。

 ここには服や化粧品、生活雑貨、書籍など多種多様なものが売っているわけなのだけれど、彼女がウィンドウショッピングの舞台として選んだのは、ショッピングモール七階に存在する楽器専門店だった。


(いつ見ても壮観ね……)

 店頭に並べられているギターは、この世界の他の楽器店でも珍しくない数だ。ここよりも店舗のスペースが広く、置いている楽器の数も種類も多い店だってある。しかし、アルトリーネにとって、それでも生まれ育った世界と比べれば、これほど楽器が並んでいる状況は尋常ではなかった。この世界に険呑けんのんとした空気感や事柄がないわけではない。先鋭化する戦争やたちの悪い流行り病など憂うつに想うことは多くある。しかし、やはり魔王という存在が居ないというだけでも、こういった物を量産できるくらいには平和な地域が多いのだと感じられるような光景だった。

(それは良いこと、とは一概には言えないけど……まぁ、すべての秩序が崩壊しかかってた世界と比べれば、幾分かはマシよね……)

 アルトリーネはそんなことを考えながらも店内へと歩を進めると、先ほどとは打って変わって他の楽器には目もくれず、一切迷うこともなく、いつの間にかその一角に辿り着いていた。ここが今日の目的地。そして、ここにアルトリーネが決して多くはない報酬を節約し、貯金してまで買おうとしている代物がある場所だった。

「…………」

 彼女が他の人から見れば睨むようにも見えるほど真剣な表情で見据えているのは、いわゆるエレキギターと呼ばれる物――その値段だった。

(色々と調べたり、店員さんに話を聞いたり、懐事情と相談した結果、予算は十万円になったわけだけど……この辺りのギターが手頃よね……だとすると、あと三、四カ月近くは貯金しないと……)

 エレキともなれば、アコースティックやクラシックよりも必要な物は増える。だから、それも含めた予算設定が必要となるのだが、何分、彼女はビギナーだ。似たような弦楽器こそ、故郷の里や冒険者として立ち寄った町でも見かけたり、触ってみたりしたことはあったのだけれど、エレキはおろか、ギターという概念の楽器は存在しなかった。

 そういった理由もあり、日本にやって来た頃の彼女にはギターに関しての知識はほとんどなく、偶然、とあるロックバンドの楽曲を街角で聴かなければ、自分の手にエレキギターを収めたい、という気持ちにはならなかっただろう。

 さらにそこに至るまでの道のりも当然あったわけで、数ヶ月で一文無しから、値段は限定的ではあるけれど、どのエレキギターを買うかどうかまで悩める段階まで来たのだと、感慨深くなっていると――。


「あれ? アルトリーネじゃん」


 不意に、かつ明確に、背後からアルトリーネへとかけられた声が響き、その思考は一気に現実へと引き戻されてしまった。そして、彼女はその声に覚えがあった。

 アルトリーネが困ったような表情を浮かべながら振り返ると、そこには長い黒髪に、ピンクのインナーカラーが派手なイメージを誘う少女がぽつんと立っていた。声だけではない。黒いマスクに隠されはしているけれど、アルトリーネは彼女が一般的に美形の多いエルフでも驚くような美形であることも知っていた。気だるげな目元に若干のくまを浮かべているのがご愛敬、といった感じだろう。

「……約束まで、まだまだ時間はあると思うんだけど?」

 アルトリーネがそう答えると、少女は「ははっ」と軽く笑ってから前髪を掻き上げた。

「いやぁ、一ヶ月ぶりに会うしさ、遅れるのもなんだかなぁと思って。ほら、小田急ってさ……ちょいちょい遅れんじゃん? で、時間潰そうと思って」

 少女はそこまで言うと、両手の人差し指で床をさした。

 言わんとすることを察したアルトリーネは短く「そう」と答えると、ゆっくりと少女へと近寄り、そのまま横を通り過ぎていく。すると、少女は不思議そうに首を傾げてから声を上げた。

「ギター、見てたんじゃないの?」

「見てたけど、会う約束してた相手が現れたからね」

 アルトリーネが素っ気なく答えるも、少女は気を悪くした様子は微塵みじんも見せずに続けて質問を飛ばした。

「買わないの?」

「……お金が貯まったなら、ね。って、こっちの財力ぐらい想像できるでしょ」

 何せ、アルトリーネたちが日本で暮らしていくために、色々と面倒を見てくれた人物のひとりなのだから。どこでどう働いているのかという連絡はしているし、不測の事態がないように、どれくらいの収入があるのかというのも包み隠さず話している。ちなみに、今回の約束も日本の生活にどれくらい適応しているのか、その経過報告をするためになされたものだった。

「ははっ。もしかしたら、ギャンブルで一山当ててる可能性もあるじゃん」

「だったら、値札と睨めっこなんかしないわよ……」

 アルトリーネは大袈裟おおげさ嘆息たんそくしてみせた。

 言い換えれば、持ってる財布は相も変わらず薄っぺら、ということなのだから、自分で口にするのは情けないことなのだから。そして、そんな状況を冗談めかせるほど慣れつつあるのが悲しいところであった。しかし、アルトリーネが言ったように、相手側が察することのできるほどの情報を握っていることを考えれば、ここで強がる意味はない。そして、深刻な雰囲気で話をして心配をかけたくもない。となれば、やはり先ほどのようにわざとらしい態度を見せることで、暗に大丈夫であると示すことが、アルトリーネにはより良い解答であるように思えたのだった。

「……ま、一時期よりかは元気そうではあるよね。それは良かったかも」

 少女は背後から右横に追いつくと、アルトリーネの顔を覗きこんで、目元を優しく、柔らかく緩ませて見せた。そして、アルトリーネはその眩しさと「一時期は」という言葉に、少々の居心地の悪さを感じてしまい、思わず目を逸らしてしまった。が、やはり、少女は気を悪くした様子は少しも見せなかった。

「ね、お昼は?」

「節約してるから昼は抜いてるの」

 何だったら、休日以外は朝も抜いているので、今日はまだ食事をしていないということになるのだけれど、少女はそれを聞くや否や、何故か嬉しそうに「うんうん」と頷いて見せた。そして、その左腕でアルトリーネの右腕を取った。

「ちょ……い、いきなり何?」

「お昼! 一緒に食べようよ! 気になってたお店があるんだよ~。奢るからさ~」

 奢る側がお願いをしてどうする、と思いつつ、アルトリーネはそこまで世話になれないと「それは」と首を横に振る。しかし、少女はどうにも諦めないらしく、その黒い瞳でアルトリーネの目を見つめたまま。

「一般冒険者が様の言うことが聞けないのか~?」

「…………」

 閉口するしかなかった。まさか、ここでその権力を振りかざしてくるとは思いもしなかったからだ。

 そう、彼女は魔王討伐の切り札として呼ばれた三人の、魔王に瀕死の重傷を負わされた勇者とはまた別の、勇者候補の内のひとりで、四魂の大封印の犠牲となったひとりでもあったのだ。そして、彼女の台詞通り、その権力は正式な勇者にはなれなかった候補止まりとは言え、一般冒険者と比べたら天と地ほどの差があった。そんな彼女に逆らうなど、まったくもってありえない話だ。

 しかし、それはこの世界での話ではない。だから、アルトリーネはその立場に順ずる必要はなかったのだが――。

「はいはい……わかりましたよ、センジュ様」

 アルトリーネはあえてそれに従うことにした。

 このセンジュ――城戸口千寿きどぐちせんじゅが、四魂の大封印の際に頑として犠牲になることを譲らなかったことや、日本へとやって来た後の世話の焼き方を考えれば、軽そうな喋り方とは裏腹に優しく、意外と強情な人間であるということをわかっていたからだ。

 そして、彼女が最後まで勇者ではなく、勇者候補であったということも、アルトリーネを首肯させる要因となっていた。

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