第4話 ラベンダー
「城元くんってバイトない時何してるの?」
「帰ってご飯食べて寝てる」
「生きてるだけじゃん」
エアコンの効きが悪い教室で春原は単語帳をめくりながら言った。
夏服の袖口から細く白い腕がのびて、すらりとした指先へと辿り着く。その指で鳴らされたピアノはさぞや繊細な音を奏でるのだろう。
「生きてるだけで立派なことです」
「いやまあそうだけどさ、なんかもっとこう個性とかないの?」
「個性ねえ」
呟きながらストローを咥える。パックの表面に付いた水滴で指先が濡れた。
「まあその時やりたいことやってる感じかな。将棋したりプラモデル組み立てたり手から鳩出したり」
「最後すごくない?」
「でも何もやりたいことが無いときはすぐ寝てる。明日やりたいことが見つかったら全力出したいし」
パックの表面に印刷された牛のイラストを何の気なしに眺めていると「すごいなあ」と彼女の声が聞こえた。
単語帳を見ていたはずの彼女の目はいつの間にかこちらを向いている。花屋で出会ったときと同じように、光を湛えたその瞳は綺麗だ。
「欲望のままに生きてるだけだよ」
「それがすごいの。やりたいことをやるのは勇気がいるから」
「そうかな。僕には目標に向かって毎日勉強して練習してる春原のほうがすごいと思うけど」
叶えたい夢があって、それを叶えるために目の前の小さな努力を地道に積み重ねる。
それは誰にでもできることじゃない。もっと胸を張っていいはずなのに。
「そんなにすごいことじゃないよ。やらなきゃいけないからやってるだけ」
自分をそんな風に表現する彼女は、なんだか少し窮屈そうに見えた。
「春原はさ」
「うん」
「ピアノの他にやりたいことってないの?」
僕がそう訊くと。
彼女は考えるというより、口にするかを悩むように少しの間沈黙して。
「――あるよ」
小さく零すようにそう答えた。
それから春原は僕の手元に目を落として「あ」と口を開ける。
「ねえ、水たまりできてるよ」
「おっと」
パックから落ちた水滴が天板に四角い水たまりを作っていた。「仕方ないなあ」と彼女は苦笑しながら、ハンカチを取り出して拭く。
そのハンカチから、ふわりとラベンダーの香りがした。
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