夏 八月二十四日
「じゃあ、今日はこれで」
ナナシマさんは俺にノートを返却した。まだまだ日差しは強いが猛暑というほどではないような、夏の死が近づいている今日この頃。蝉の声は次第にまばらになって、鈴虫の鳴き声が耳に触れると、なんだか寂しくなってくる。それでもまだまだ気温は高く、相変わらずうなだれていた。
ナナシマさんは、毎週のように俺の描いた漫画を読んでいた。物静かにノートを見つめる姿から、俺の漫画や絵に対して何を感じているのかはやっぱり分からなかったけれど、この時間を確実に大切に感じていた。そしてナナシマさんのその様子を手元にひっそりと描き留めようとして、その繊細な瞳をシャーペンで描こうとしても、どうしてか上手く描けないものだった。ナナシマさんに、きっと迷い線は似合わないのだ。
ナナシマさんは立ち上がり、机の脇に掛けていたスクールバッグを手に取って肩に掛ける。スカートを軽く払って、教室後ろの扉へ向かった。
「ナナシマさん、ありがとね」
「うん。また明日……あ」
ナナシマさんは扉に手を掛けたまま、俺の方に体を向き直した。そうして思い出したようにスクールバッグの中身を覗いて、文庫本を一冊取り出す。借りたものなのか、文庫本にカバーはついていなくて、つるつるとしている。
「どうかした?」
「今日って何日?」
「ええっと、二十四日だね」
「返却日だ」
ナナシマさんは文庫本を開き、中にある栞サイズの紙を手に取った。立ち上がってナナシマさんの方に行き、それを覗き込む。栞の下部には、「静北高校図書室」の擦れた黒印字の判が押されてあった。
「借りてたんだ」
「そう、先週借りたの。ところでヒイラギくん」
「うん?」
「今日、まだ暇?」
これ、返しに行きたいんだけど。ナナシマさんはそう言って、文庫本を持った左手をゆらゆらと顔近くで揺らした。それをしばらく見てから、時計の針を眺める。まだ、十五時を少し過ぎたほどだった。窓の外の日差しは相変わらず強く、昼間との違いが分からない。夕焼けには少し早いようだった。
「いいよ。暇だし」
「ありがとう」
ナナシマさんはそう言って、片手に文庫本を持ったまま教室の扉を開けた。先に進むナナシマさんの後ろを追いかけながら、階段を下りる。図書室は新校舎一階の角にあった。ナナシマさんが階段を踏みつけるたびにスカートがふわりと揺れ、髪の毛が揺れる一連の動作が涼しげだった。無言でそれを眺めているのはなんだか罪なような気がして、俺はナナシマさんに質問を投げかける。
「何借りたの?」
「夢十夜」
「ええと、夏目漱石か」
「読んだことあるの?」
「いや、文学史で出たから」
「ふうん」
俺の回答に、ナナシマさんはあまり関心が無さそうだった。昇降口を通り抜けた先に保健室があり、そのすぐ横に図書室がある。図書室前に併設された青色の返却ボックスに、ナナシマさんは持っていた文庫本を入れた。
「よし、これでいいね」
「ヒイラギくん、新しいものを借りたいのだけど」
「あ、いいよ。寄って行こうか」
俺の返事を待つ前に、ナナシマさんは図書室の扉を開けた。エアコンが効いていない空間の、独特な香りと蒸し暑さが俺たちを襲い掛かる。日焼けした薄緑色のカーテンは、もはや日除けとして役に立たず、強い光線をそのまま本に直撃していた。これじゃあ本たちも日焼けしてしまうだろうに、管理する人はいないのだろうか。そうして視線を彷徨わせても、図書委員とか司書の先生は誰一人とおらず、学生も俺とナナシマさん以外は誰も居なかった。
「誰も居ないね」
「夏休みはいつもこんな感じだよ」
「え、それじゃあ借りられないじゃん」
「そこに貸し出しボードがある」
ナナシマさんはそう言って、司書カウンターを顎で指した。ナナシマさんは奥の方の、文庫本コーナーに足を進めていってしまう。ナナシマさんが示した司書カウンターを眺めると、確かにそこには夏休中の貸し出し者リストが記載されている。
『水・木は司書不在のため、借りた本と名前、日にちを記載してから持ち出すこと!』
そんな注意書きに従って、リストにはナナシマさんの名前だけが綴られていた。皆が律義にルールを守らないのか、ナナシマさんしか借りていく人が居ないのかは分からなかったが、ナナシマさんの字が美しいことは分かった。
「ヒイラギくん」
「あ、はい」
奥からナナシマさんが俺を呼ぶ声が聞こえる。急ぎ足でそちらの方へ向かうと、ナナシマさんは一冊の本を指さしていた。
「これ、届かなくて。取ってほしいんだけど」
「……げ」
俺とナナシマさんに、あまり身長差はない。ナナシマさんが女子の平均よりも少し背が高いことと、俺が男子の平均より背が低いことが相まって、ナナシマさんと俺はせいぜい消しゴム一個分くらいしか視界が変わらなかった。俺に、届くかな。一抹の不安を抱えつつも、ナナシマさんに情けない姿を見せるのはどうしても避けたくて、俺は背伸びをしてみた。腕をめいっぱい伸ばし、ナナシマさんが指さした文庫に手を掛ける。あと少し、背を伸ばせば……。
「よし! やった!」
バレリーナのごとくつま先を尖らした。すると僅かに届かなかった文庫本に指を掛けることに成功して、それを引き抜こうとする。つま先を元に戻そうとした途端、当然のように身体のバランスを崩した。後ろに持っていかれそうな上半身を、目の前の本にしがみついて堪える。
その拍子、床にいくつかの本が散らばった。やってしまったと思ったと同時、ナナシマさんは本が床に落ちるのを防ごうとして、落としていった本を自分の身体で止めようとした。足元に落ちてくる本に気付かず、ナナシマさんは俺のようにバランスを崩す。
「わ!」
ナナシマさんが仰向けに転ぶ寸前、床に頭をぶつけないように、先手を打ってナナシマさんが落ちる床に腕を差し込んだ。その衝撃で打ち付けた膝が、ジンジンと痛むのを感じる。一連の流れがスローモーションのように長く思えた。
「ごめん! ナナシマさん大丈夫?」
「大丈夫」
腕に僅かな重みが乗って、背中に文庫が落ちるのを感じる。瞬間、自分が高校生の男女が校内でするにはとんでもない体制を取っていることに気付き、慌てて腕を差し抜いて、上半身を起こす。どうしようもなく気まずい空気が流れている気がして、落ちた文庫たちに目を寄せた。
「ヒイラギくん、ありがとう」
「え」
「これ。取ってくれて」
ナナシマさんは胸元に文庫本を広げて、微笑んだ。どういたしましてと告げるほど、格好いいことをしたわけでも親切なことをしたわけでもない。ただ情けない姿を見せまいとして、より情けない姿を晒しただけだった。そんな後悔をじわじわと感じながら、ナナシマさんの胸元にある、文庫本のタイトルを眺めた。そこにはナナシマさんが先ほどまで借りていて、返却ボックスに投函したはずの「夢十夜」だった。
「あれ、それって……」
「ヒイラギくん、拾うの手伝って」
「あ、うん。それは勿論」
ナナシマさんはすっと起き上がり、床に散らばる文庫本たちを拾い始めた。俺もそれに倣って一冊ずつ手に取る。作家名は夢野久作、川端康成、夏目漱石……と、なんだか俺にはよく分からないような、文学史で見たことがあるような名前ばかりが並んでいた。どこに戻せばいいのかも分からず本棚の前でおどおどとしていると、ナナシマさんが俺の手から文庫本を取り、正しい場所へ戻していった。それからは、俺が本を拾って、ナナシマさんに手渡すようにした。
「次は何を借りるの?」
興味本位でそう聞くと、ナナシマさんは少し考えこんだ。それからたった今手渡した文庫本を棚に戻し、新たな文庫本を白い指で手にする。ナナシマさんはそれを胸に抱いて微笑んだ。カーテンの隙間から差し込む夕焼けが、文庫本のタイトルを照らす。そこには、「夢十夜」の文字があった。
「あれ? さっき返したんじゃ」
「……百年間待ったから」
「……え? それってどういう……」
瞬間、風もないのにナナシマさんの髪の毛がふわっと揺れた。真夏に似合わない真っ白な肌が、まるで百合の花のように美しい。夢でも見ているのだろうかという気にさせられる。エアコンの効いていない図書室が、身体が、一気に冷やされるような感覚に陥る。
「冗談。倒れて内容忘れたから、もう一度読もうと思っただけ」
「え?! そんなに重症ならやっぱり病院とか行くべきだよ、救急車……救急車呼ばないと!!」
慌てふためいていると、くすくす、と品の良い笑い声が目の前から聞こえてくる。ナナシマさんの表情に現実に引き戻されて、背中にじゅわっと汗が滲み出すのを感じる。
「それも冗談。ただ好きなだけ」
「そんなに面白かったんだね」
「運慶の話が特に」
「……ごめん、読んでないから分かんないや」
「そう」
ナナシマさんは無表情に戻った。そうして司書カウンターに向かい、リストに記載をし始めたのを、俺は何となく黙って見つめていた。
「じゃあヒイラギくん、またね」
図書室を出た俺たちは、再び教室に戻った。スクールバッグをリュックサックのように背負い、エアコンの電源を落とす。二人で一緒に昇降口へ向かって、そのままそんな簡単な挨拶をした。
「うん、また来週」
「ああ、ごめん、そうじゃなくて」
ナナシマさんは右耳に髪をかけて、俺と背後の夕日を見た。ナナシマさんはいつも通り凛とした表情で、俺に向かって言い放った。
「私、夏休み中はもう教室には来ないの」
「……え、どうして」
それが突然の別れのように思えて、少し動揺した。夏休みの間の話をしているはずなのに、何故か「せっかく友達になれたのに」という気になってくる。どこか遠くへ行ってしまうような、そんな心地がしてくる。八月中何度か約束を果たしただけだったのに。
「ヒイラギくん、夏休みは短いよ」
「ああ……俺たち、受験生だもんね……」
「うん。だから、また夏休み明けに」
ナナシマさんはそうしてあっさりと、裏門から去って行ってしまった。
受験生、夏休み。耳に残り続ける言葉が憂鬱で、残暑の夕焼けが俺を焦がし続けている。それでも俺は、ずっとその場に留まっていた。
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