夏 八月十日
約束の日が来た。
とはいえナナシマさんに対して、あの時「来週の何曜日」とも「何時に」とも言わなかった。しまった、と思ってもナナシマさんと連絡を取る手段が無い。仕方が無いので、七日後の同じ時間、同じ教室の同じ席に座って、同じようにイヤホンを耳にはめ込みながらシャーペンをノートに走らせていた。同じ曲まで聴いているし、同じような空模様だから、今日は先週と殆ど変わりない一日だった。
ナナシマさんが来なかったらどうしようとか、そもそもこの教室が講義に使われていたらどうしようとか、ナナシマさんの席に勝手に座ってまた怒らせたりしないだろうかとか、不安の種はいくつでもあった。クラスメイトの女子と待ち合わせをしたから緊張している訳ではないとは言えないが、そんなことよりも俺の漫画を読みたいなどと奇妙なことを言うナナシマさんに緊張していた。自分の描いているものを、自分以外が気にするなんてことが今までになかったのだ。何度考えても、やっぱりナナシマさんが俺の漫画を読みたい理由は見つからなかった。
やけに喉が渇いて、机の上に置きっぱなしにしていてぬるくなったペットボトルの水を飲み干す。空になった透明なそれを日差しに透かしてみたところで、当然日陰にもならなかった。今日も入道雲はどんどんと勢力を増している。夕立が来なければいいなと思った。
三年六組の教室、つまり今俺の居る教室はエアコンがずいぶんと古い。他の教室は新しいものへと入れ替えを行っているが、この教室だけが未だに入れ替え工事を行っていない。二十八度、風力弱。エアコンの設定は、くだらないことに校則で定められていた。
先週までは勝手に設定を弄ったけれど、優等生のナナシマさんと会う以上、校則を守らないといけないような気がしてそれをせず、ただひたすらに耐えていた。
それでもやっぱり暑いものは暑い。申し訳程度にワイシャツの下に身につけたTシャツを仰いでも、入り込む風はちっとも涼しくなかった。
「ほっとけ俺の人生だ」
聞き覚えのある透明な声が降り注ぐ。ナナシマさんはちょうど一週間前と同じように、俺の左耳のイヤホンをもぎりとって、反抗期の中学生のようなことを言った。でもそんなことより、自分で日にちを指定しておいて、ナナシマさんが姿を現したことに驚いた。約束らしい約束なんて、していなかったのに。覚えていたのは俺だけではなかったのか。あの時間は夢じゃなかったんだ。
「……来たんですね」
「約束したでしょ」
「そりゃ、そうだけど……俺時間とかちゃんと伝えてないし、忘れてたかと思って」
「ほっとけ俺の人生だ」
「え?」
だってほら。ナナシマさんは俺の胸元を指差した。その先を目で追うと、ナナシマさんは汗でへばりついた俺のシャツを示していた。確かにそこには「ほっとけ俺の人生だ」と書かれている。これは去年、修学旅行で沖縄へ行ったとき、他校の友人へお土産として買ったものだった。お前の方が似合うから着ろよと言われて受取拒否されてから、すっかり部屋着として大活躍しているものである。
俺は慌てふためいた。やばい、文字入りシャツって校則違反だったっけ。しかも滅茶苦茶文面反抗的だし。頭の中はそうした焦りと、ナナシマさんへどう弁解するかでいっぱいになっていた。「ナナシマさんに怒られないための対策会議」を脳内で開催していると、ナナシマさんの方から「気持ち悪い動き方をしているね」と指摘された。それ以上、言及もされなかった。
「暑くない? この教室」
「えっと、俺らの教室って古いじゃん、エアコン」
「そういえばそうだけど。……にしたって全然暑いよ」
「……ほら、二十八度設定にしなきゃいけないから」
「なにそれ。そんなの下げちゃえばいいのに」
ナナシマさんは当然のようにそう言って、どうしてそうしなかったのかが気になると言うように、小首を傾げて俺の顔を見つめる。それを聞いて当然のように回答を述べた。
「校則で二十八度以下にはするなって……」
「皆下げてるじゃん。熱中症になった方が大変だよ」
ナナシマさんは相変わらずの無表情で、俺に向けた顔をくるりとエアコンのパネルに向ける。立ち上がりそちらの方に歩いて行って、容赦なく温度を下げに行った。なんだよ、ナナシマさんが良いと言うのが分かっていたら、俺だってすぐに下げたのに。情けない不満を心の中で垂れる。なんというかナナシマさんにはそういう力が凄くある。ナナシマさんの前では不誠実であることが許されない、みたいな雰囲気を感じるのだ。
教室用のでかいエアコンはすぐさま俺たちの箱を冷やしにかかる。消しゴムのカスを床に払うと、後で掃除しないとナナシマさんに怒られるかなと頭をよぎった。
休み前の騒がしかった教室が噓のように空っぽの教室の中に、俺とナナシマさんの二人だけが居る。
欅を見ながらツクツクボウシの合唱を聞いていると、今日が八月であることを意識せざるを得ない。他の教室で講習を受けている奴らのことを考えると、頭が痛くなった。時間が止まってしまえばいいのにと、心の底から思う。置いていかないで欲しいとか、ずっと遊んでいたいとか、そういうことじゃなくて、ただただ何も起こらないこの時間が平穏だったからだ。
席へ戻ってきたナナシマさんがこの前と同じように前の席に座るのを見計らって、ナナシマさんが求めるより先にノートを差し出した。この教室に居るのは、校則を破って受験勉強を放棄している、俺とナナシマさんだけだ。
「じゃあ、これ」
「ありがとう」
ノートを受け取ったナナシマさんは、窓を背にして椅子に腰かけ、それを読み始めた。絵になる、というのはこの人の行動全てを言うのだろう。やっぱり少しだけ眉間にしわを寄せながら、それでも無表情なナナシマさんは、西洋の画家が描いた貴婦人の油絵のように美しい。古い木の窓枠がナナシマさんの背後にあって、ナナシマさんが祈るように俺の漫画を読み続けている。それがまるで、十字架の前で祈る聖母のように見えるのだから、ナナシマさんはやっぱり特別だ。
「ねえ、服装いつ変わったの」
夢見心地でナナシマさんを見つめていると、ナナシマさんの声色が一気に現実へ引き戻す。ナナシマさんの方を見ると、ナナシマさんはいつも通りの無表情だった。
「服装? ……あ、やっぱりこのシャツやばいかな? 反抗しすぎだよね流石に……。ごめん、でも俺ほんとこんなのしか持ってなくて」
「何の話?」
「えっ……? ……じゃあ、えっと……何の話?」
「ほら、ここ」
ナナシマさんは身を乗り出して机の上にノートを広げ、中に存在するキャラクターを指さす。ナナシマさんの下ろしっぱなしの髪の毛が、素麺のように一本一本がとても細く繊細であることが分かって、ノートのことなんてどうでもよくなってしまう。ナナシマさんという人の美しさに心を奪われそうになりながら、どれどれとノートを覗き込んだ。
「主人公のパーカー、紐がなくなって……って、聞いてる?」
ナナシマさんに魅入って呆けていたのは本人に気づかれていたらしい。ナナシマさんの声色は不機嫌に聞こえた。慌てて目線をナナシマさんに合わせると、表情も少し強張っているような気がした。
「うわごめん! なになに、服?」
「真剣に聞かないと、怒るよ私」
ナナシマさんが今度は誰にでも分かるように「怒っている顔」をした。俺の漫画を読んでいる時よりも更に眉間に皺を寄せて、氷のように冷たい目を俺に向ける。良くも悪くも喜怒哀楽が見えにくいナナシマさんであるのにもかかわらず、冷ややかな視線を向けられていることがよく分かる。ナナシマさん、ちゃんと表情でも怒る人なんだ。
「ごめんなさい。ぼうっとしてました」
「自分で生み出した登場人物なのに、自分が一番愛さないでどうするの」
「……おっしゃる通りです。ごめんなさい。……どこだっけ」
「ほら、ここ。パーカーの紐」
ナナシマさんが指さした主人公の服装は、確かに描き漏れがあった。そのままそれを伝えると、納得したようにナナシマさんは再び姿勢を戻す。ああ、やっぱり美しいな。かぐや姫のように人間の世界とは違うところから来たような、美しい女子高生だ。窓枠の前で俺の漫画を祈るように読むナナシマさんのあの姿が、脳裏に焼き付いて消えない。この姿を手元に残して、宝物のように大切にしたい。
今すぐにでも、このナナシマさんの姿を描きたい。
俺の専攻は風景画や漫画だから、まともな人物画なんて一度も描いたことはない。モデルがいる絵画なんて、それこそ予備校のデッサンぐらいでしか経験が無い。けれど、どうしてかナナシマさんのことなら描けるという確信を持っていた。ナナシマさんを描くことが出来れば、きっと全てが達成できるような気がした。
「ねえナナシマさん」
「何?」
「これからもさ、俺の漫画、……読む?」
「読むよ」
「……じゃあさ、その代わりっていうか……俺、ナナシマさんのこと描いていい?」
ナナシマさんの漫画を読む手がぴたりと止まり、顔を俺のほうに向ける。ナナシマさんの表情から感情を読み取ることは、やっぱり難しいなと考えた。同時にナナシマさんは天井を見て、考えるような仕草をしている。
「描くって、私をモデルにしてってこと?」
「うん。漫画ではなくて、油絵とか、そういう……」
「……お代はサイダーね」
「え」
「これだけ暑いとのど乾くから」
「そんなんでいいの?」
「いいよ」
ナナシマさんはそう言って笑った。無表情か怒った顔しか見たことが無かったから、花が綻んだように美しい笑顔を見て、この人はやっぱり特別な人だと改めて思った。ナナシマさんは立ち上がって、いつのまにか机にかけていたスクールバッグの中から何かを取り出した。
「今日は私があげる」
ピタ、と頬にひんやりとした感覚が走る。一瞬びくりと震えて頬に触れたものへ目を向けると、ナナシマさんが持っていたのはスポーツドリンクだった。左手と右手に、それぞれ一本ずつ持っている。ペットボトルを受け取り、ありがとうと言った。キャップを開けて口に含めると、夏が広がった。暑いのばかりでなく、涼しいのだって夏らしさだ。
ナナシマさんは立ち上がったまま、帰る支度をしている。ノートを受け取ったけど、ナナシマさんはやっぱり感想を言わなかったし、何となく聞く気にもなれなかった。
「夏休みの間は、毎週ここに居ればいい?」
「うん。この時間に、この席で。毎週じゃなくても、学校に居る時は同じ時間に行く」
「うん、分かった。……約束、だね」
「そう、約束」
ナナシマさんが細く長い髪の毛を、腕につけていた黒いゴムで一括りにしている様を見つめる。この姿を独り占めしているのになんだか罪悪感を抱いて、目を逸らした。今日感想が聞けなくても、また来週聞いていけばいいや。これで最後というわけではないのだから。
こうして夏休みの教室で、ナナシマさんと俺は出会った。
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