ヒイラギくんとナナシマさん

無花果りんご

夏 八月三日

 女性の髪は長ければ長いほど美しいとされていた時代に、「夏は夜がいい」とかの有名な歌人が言った。

 千年も前の夏に想いを馳せても当時の夜を肌で感じることは出来ないが、「昼間だって悪くないな」と思いながらあくびを一つする。新校舎棟のすぐそばにそびえ立つ欅が日に照らされ、葉の隙間から漏れる光が机に反射し、キラキラと波のように紋様を浮かべている。窓の方へ顔を向けると、欅の葉が風で揺れた。

「あっ」

 あくびをした途端、無意識のうちに回していた銀色のシャーペンが指から離れ、カタカタと床へ転がり落ちてしまった。はあ、と、夏の暑さを加速させる二酸化炭素を吐き出す。エアコンの冷風と夏の痛々しい日差しを受けた俺の身体は重たく、そう簡単には腰を上げることが出来なかった。

 残りの命を全うしようと精一杯吠えるミンミンゼミの鳴き声よりも、五分進みの早い古びた時計の針に気が取られる。要するに、集中力も体力も余っていなかった。

「どっこいしょ、っと」

 体勢を崩して腕を伸ばすと、どうにか落ちたシャーペンに手が届く。床に落ちたシャーペンを拾うだけでなんだか満身創痍で、体勢を戻した途端に余っていた最後の力を全て奪われたような気がした。

 シャーペンを拾った右手の甲が、なんだかくすぐったい。左手で触れてみるとそこには消しゴムのカスが付着していた。床に散らばった消しゴムのカスを眺めながら舌打ちを一つして、自らの頬を両手で叩く。机の上に広がる薄汚れたノートに、新しい線は引かれていなかった。

「けりには詠嘆と過去、二種類の用法がある。これは難関私大レベルだと解けて当たり前だから——」

 隣の教室から男性教員の声が聞こえてくる。あの熱の籠った暑苦しい声色は、古典の松永先生だろうか。受験勉強の気配を察して、一気に高校三年生の夏休みという現実に引き戻される。嫌気がさし、青色のウォークマンから伸びるグルグル巻きになったイヤホンを耳に差し込んだ。


 八月三日月曜日、晴れ。


 夏季休暇の真っ只中、三年生を対象とした夏期講習が各教室で行われていた。

 静北高校は進学校というほどでもないが、大学への進学を志す生徒が七割弱程度いる、ありふれた高校だった。高校生活三年目である俺も例に漏れず、受験生という肩書を背負って日々を送っている。だが俺は、受験勉強という現実と向き合っていなかった。

 学校はどうにも息苦しく感じる。受験生という名の訓練兵たちが、模試の結果に一喜一憂しながら己の全ての時間を勉強に費やして、大学受験という一つの敵に立ち向かっていく。それは人生を賭けた、苛烈を極める戦争だ。無能な兵である俺は戦線から離脱して、講習の一コマごとに空き教室を探す流浪の民になりながら、一人漫画のようなものを描いていた。

 進路希望調査の第一志望には、一年生の頃から美術大学の名前を書いていた。どうせ大学に行くなら普通の勉強ではなくて、絵や漫画を描きたいから美大にしようという、漠然とした理由にもならない理由だった。美大受験の難易度とか、その先の将来とか、そういうことを直視したことはない。

 漫画を描いていれば受験対策にもなり得るのではないか。そんな言い訳を今日までし続けて、受験戦争から逃亡し続けている。母さんが「目指すならしっかりやりなさい」と言って高三の春に入学させた美大予備校も、もう二週間も足を運んでいない。ただただ毎日漠然と漫画を描いて、夏の暑さにうなだれている。将来のことを直視したくなかったのだ。

 進路決定が憂鬱だった。いずれやってくる将来という現実から、逃げられるだけ逃げたかったのだ。

「……暑」

 次のコマの構図に行き詰まって止まる手を、こんがりと焼けてしまいそうな日差しのせいにする。重たい身体に鞭を打って、伸びをして立ち上がる。そのまま教室前方にある薄汚れたエアコンの方へ向かい、パネルを開いて温度を下げたり、風を強めたりした。

 イヤホンからは無音が流れていて、頭の中は漫画の構図のこと、将来のこと、受験勉強のことが浮かんでは消えてゆく。そして結局その全てが嫌になって、何も考えまいとぼうっとすることを繰り返していた。

 夏はわろし。セミの声はさらなり、暑さもなほわろし。有名な歌人が聞いて呆れる一節を作って鼻で笑うと、ウォークマンをいじくって何語かも分からないヒップホップを再生した。流暢な早口が、おそらく強烈なメッセージを畳みかけている。教室が冷やされようと、手は止まったままだ。くるくる、シャーペンを回して、薄汚れたノートを凝視する。構図はともかく、このコマの絵は完成させないと。再びシャーペンを握りしめた。

 先ほどまで描いていたコマの、主人公の輪郭をより太くする。複数の線を引いていくうちに、正しい線が見えてくる。迷い線と言われるものだ。俺の絵や漫画は、迷い線を沢山引いて、やがて浮き上がってくる正しい線を濃くしていくことで出来上がっていた。今はまだ、迷い線を沢山引かなければならない。無心になってがりがりと、ノートの上に線を引いた。

 

 ぶちん。

 

 突然、左耳に衝撃が走った。男性ボーカルの高らかに歌うサビが途絶える。耳がじんわりと痛み、何か大切なものを奪われたような感覚がする。

「なにを描いているの?」

 謎の衝撃の正体は、左耳のイヤホンが何者かによって奪われたものだった。そうして奪われたイヤホンのコードを、目の前にいる女子高生が握りしめている。

 透き通るように指通りの良い長い髪が、透き通るように白い肌を彩っていた。薄く整った唇から発せられる声はビー玉のように透明で、キラキラと響いている。どこからどう見ても、真夏の日に見るプールのように透明で、美しい女子高生。

「……えっと、ナナシマ、さん」

「そこ、私の席」

 女子高生の正体は、同じクラスのナナシマフミコさん。廊下側、前から三番目の席に座る俺は、窓側一番後ろに座るナナシマさんのことを、クラスメイトであるという以上に何か思ったことはない。俺とは違い授業を真面目に受けているようなのは、彼女の成績が基本的に上位であるということから分かっていた。特に生物ではどの試験も必ず一桁台であるということを、試験結果を記載したプリントが教えてくれた。

 それ以外のナナシマさんの印象は、正直あまり記憶に残っていなかった。そもそも、会話をしたこともない……というより、ナナシマさんが誰かと会話をしている姿を見たことがないし、クラスという箱の淵に腰掛けている、遠い存在のような印象があった。

 だからナナシマさんを改めて見た今、ちょっとした驚きがあった。ナナシマさんって、こんなに美人だったのか。そして何でもないようにクラスメイトに声を掛けてくるのか。

「うわ、ごめん。今すぐどきます」

「なにを描いているの、って聞いたの」

「いや温度は下げたけど、それは……ほら、俺の体が暑さに弱いからだし、制服はちゃんと着て帰るし……」

「……漫画?」

 ナナシマさんが机の上に広がるノートを見つめていることに気づき、見当違いな言い訳をしてしまったことに気づいた。ナナシマさんの言葉や姿勢があまりにも直接的だから、なんだか後ろめたい気持ちになってしまって、だからあんな言い訳まがいな回答をしてしまったのだ。

 そんな俺の姿にナナシマさんは全く興味を持たないようで、俺のノートだけをじっと覗き込んでいた。立ったままナナシマさんは俺の指先を見つめるから、なんだか居心地が悪い。

「ああ、うん、ごめん。なんか……まあ、漫画みたいなもの描いてた……っていうか……」

「何?」

「え」

「私別に怒ってもいないし、先生に言いつけようともしてないけど」

「そうなの、ですか?」

「変な言葉遣いだね」

「う……すんません……」

 ナナシマさんの言葉は淡々としていて、怒っていないはずなのにきつく聞こえる。表情が気になって顔を恐る恐る覗き込むと、左右対称の大きな瞳が美しかった。

 ナナシマさんはいつも無表情で言葉数が少なくて、何を考えているか分からない。ナナシマさんのことをあまり気にしていなかったから分からなかったが、多分ナナシマさんと一度でも関わったことのあるクラスメイトは、きっとそう思っていることだろうと思う。そういえば、クラス内の何人かの女子なんて、「ナナシマさんは幽霊みたい」と話していたのを、どこかで聞いたことがある。ナナシマさんのことをよく知らなかった当時は「失礼なことを言うもんだなあ」と思ったが、実際彼女らの言葉は間違っていないのかもしれない。ナナシマさんは他の普通の女子高生と同じようには思えなくて、確かにどこか浮世離れしているというか、とにかく接しにくいということを、今、身をもって体感している。

 ナナシマさんは前の席の椅子を引いて、俺の方に向きながら座る。目線は未だノートの上にあった。そして少し黙り込んだ後、こちらを見て小さな口を開く。

「……たい」

「え?」

「それ、読みたいんだけど。いい?」

「……えっと、いいの? ……いや、いいよ、はい」

 断るのも何だか申し訳ないし、何よりナナシマさんからの申し出を断れる気がしなくて、素直にノートを渡した。

 ナナシマさんのまつ毛は長くて、鳥が羽を羽ばたかせるように揺れているから、まばたきする度にばさりという効果音をつけたくなる。ノートを捲る指の上に乗る爪は、桜貝のようにツヤツヤと美しい。その指がノートを捲る度に胸騒ぎがして、イヤホンをはめ直した。

 ナナシマさんから目を背けようと窓の外を見ると、水色の空に絵で描いたような入道雲がもくもくと姿を現していた。眩しいくらいの日差しに目を細め、目線を再びナナシマさんへ戻すと、ナナシマさんの髪色が光を受けて萌葱色にきらめいている。ナナシマさんの表情をそっと伺うと、わずかに眉間を寄せているようだった。心臓を鷲掴みされたような心地になる。なにかまずいものでも描いていただろうか。

 意識を逸らそうと先ほど聴いていた曲を再生して音量を上げたが、消音になっているんじゃあないかってくらい、耳に何も入ってこなかった。そんなことより、やっぱりナナシマさんの挙動を気にしてしまう。

 隙の無い美人というのは、こういう人のことを言うのだと思う。いや、隙があったとしてもそれすら美しさへ還元してしまうような存在。見ていれば見ているほどに、ナナシマさんはただの女子高生どころか、一般的な人間としての枠組みへ収めるにはもったいないなあと感じた。女子高生どころか人間のこともあまり分かっていない十八歳の俺が、そんなことを当たり前のように感じるのだから、ナナシマさんの魅力は本物だった。

 そうしてしばらくナナシマさんに見入っていると、ナナシマさんは最後のページにたどり着いたのか、ゆっくりとノートを閉じた。ウォークマンの停止ボタンを押し、イヤホンを外す。ナナシマさんの言葉を待った。

「……これ、続く?」

「え? ……続く、んじゃないかな、多分」

「作者のくせに分からないの?」

「ご、ごめんなさい」

「……また読ませて、ヒイラギくん」

 ナナシマさんはそう言って、俺にノートを差し出した。

 読ませて、って。続きを? と疑問を抱きつつ、てっきり何か言われたりダメ出しされたりするのかと思っていたが、そんなことよりもナナシマさんが俺の名を呼んだことに驚いた。ナナシマさんは、俺の名前を覚えていたのか。そりゃあ一応はクラスメイトだけど、俺なんてただのクラスメイトAなのに。

 ナナシマさんは目線を窓の方に向け、椅子を引いて立ち上がった。そうしたただの一連の挙動にすら、目を奪われる。口を開いて呆然としていると、「ヒイラギくん?」とナナシマさんが再び尋ねてくる。はっとして、そうして少しだけ勇気を出して言葉を発した。

「えっと、よければ読んでもらいたいです」

「いつになりそう?」

「えっ……と、じゃあまあ来週、とか」

「じゃあ来週、またここで」

 ナナシマさんはそう言って、教室から何事も無く出て行った。風のように去っていった姿が脳裏に焼き付いて消えないまま、頭に疑問符を浮かべる。ナナシマさんはどうして俺の漫画を読みたいのだろう、という疑問と、俺の漫画を読んでいるナナシマさんが、眉間を寄せた理由はなんだったのだろうという疑問があった。俺の漫画を読んで、ナナシマさんは一体どんな感想を抱いたのだろう。

 ともかくその疑問を晴らすためには、来週までに漫画を描き進めなければならない。

 ナナシマさんとの締め切りを間に合わすために、シャーペンを再び握った。

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