第16話 虚数の国
素肌が触れあっていた。
おれは戦闘前に上衣の左袖を剥がしていた。そこにワンピースを纏った唯由が腕を絡めてきている。歩調も合わせてゆっくりと北御堂の住宅街を歩いていた。
太陽は中天にあり、頭頂が炙られるように暑かった。
少し汗ばんでいるのは、彼女の肌に触れているからだった。 汗をかいているのに、怖気で肌が粟立っているのは、彼女が時折胸を押し当ててくるからだった。
「・・・わたしが恐いの?」とまた胸に二の腕をかき抱いていった。おれは顎を引いて沈黙の答えとした。
「ふふ、この身体の時期もあったクセに。このおっぱいだって見慣れているでしょ。臆病ね」と笑った。
「安心してよ。むしろわたしたちは貴方の味方なのよ。PCに閉じこもってる貴方の母体、那由多とは違うわ」
「味方だって。だったら」
「ははあ、真弓のこと言いたいのね。あのビッチは別。貴方はわたしの記憶を見たでしょう。アレがわたしに何をしたのかも。あの位の仕返しは当然よ」
唯由はおれの腕を解放して、すたすたと先に歩き不意に振り返った。
「そうね。少しレクチャーしてあげるわ。わたしたちを信じて欲しいからね」 軽く右手を握り、可愛いあごに親指を当てて、大学教授のような面映えで語り出した。
「千晃、わたしがあなたと同期していたから、あなたの知識で知り得ている言葉を使った方がいいわね。例えばあなたは高校生の時に、アニオタだったわよねえ。初恋が2次元だって笑えるわね、我がことながら」
グッと粘いものを呑み込んだ。我がことであろうが語るのは他人の唇だ。
「2次元でも立体的に描画はできるわ。そしてこの世界が3次元という空間よね。じゃあ4次元ってどんな空間なの、x軸、y軸、z軸の他にどんな要素があるの?」
「時間だと言われているけど」
「それって曖昧よね。時間がどうなるの」
「わからない」
「ふふ、これが3次元の中で4次元を体現するってことよ」
右手をぱちんと鳴らして小首を傾けた。唇が半開きになって笑みを作りかけて輝いている。
その唯由の背後に、そう地平の向こうまで彼女の姿が、一列の集団となって並び尽くしている。しかもその彼女の悪戯っぽい姿が僅かに差異があり、遠くの彼女は明らかに違う動きをして、一斉に同じ瞳が覗いてくる。高細密度のアニメのセル動画が実体を持っている。
「後ろも見てよ」
そこにはおれの驚く顔が地平の彼方側まで並んでいて、一斉に背後を振り返るがその動作タイミングが微妙にずれて動いている。
「視覚を操作しているんじゃないわよ。ちゃんとそこにいるのよ。まあ同位体みたいなものね」と彼女がもう一度指を鳴らすと、霧散してしまった。
「ど・・同位体?」
「そうね。ドッペルゲンガーって興味あったわよね。同じ現象なのよ。entanglement、日本語では量子もつれね。それこそ銀河系の両端であっても、物質の同位体は両極で必ず存在する。それを自由にどの時空にも現出させることができる、それが4次元よ」
「信じられない」
「そうね。かつてアインシュタインもそう言ったわ。けれど量子もつれはもう撮影もされているのよ。戦争直前の2019年、英国のグラスゴー大学の研究チームによってね。まだまだ稚拙な検証だったけど」
彼女はまた側に来て、当たり前のように腕を絡めてきた。「デートしているみたいね。光栄でしょ」
「あの力はキミのものなのか」
「まさか。今は演算力を日巫女さまにお借りしているの。貴方だってわたしのバイオチップの能力は知ってるでしょ」
おれは気がついた。あの神社でおれたちを襲撃した、あのクローン小隊。あれは同位体の集団だったのか。視覚を奪われてスキャン機能も知覚操作されているとばかり思っていた。同位体であれば、おれの網膜どころか静脈網まで同一になってるはずだ。「気がついたようね。そう。あれも同位体よ」
「なぜそれが存在して自発行動ができる?質量保存の法則はどうなった?」
「貴方もこの世界になって、電子体を普通に使っているわよね。磁場を動くこともできるわよね。空中の電子体に量子液体を流し込んで肉体に結実するのよ。はいここで質問です。生物の含有している水分は?そう人間の肉体の何%が水分?」
「およそ70%弱だ」
「そうよね。つまり水のある惑星ならどんな時間、どんな空間でもあろうと。量子液体による同位体の肉体は無数に呼び寄せられるのよ」
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