第4話 虚数の国

 覚醒したのは痛みの喪失と同時だった。

 磁空領域より意識が肉体に上書きされて、まず私は口のなかへ指を入れて確認した。大丈夫だ、奥歯は存在している。固いものも噛めるように歯は重要な器官だ。ほっとした、電子体が知覚したのは激痛だけだ。

 それまでに自らのスキャンは実行している。SRAMにも悪性ファイルの侵入の痕跡はなかった。しかし私の耐性被膜を中和して貫いてきたのは事実であり、もっと高位相からの攻撃であれば、自分の演算能力では無力に等しい。

 もし対抗することができるのであれば、頃合いのいい素体が必要だ。

 私はベッドから身を起こして、水だけのシャワーを浴びた。

 この肉体が鏡に映っているが、痩せて肋骨が浮いてきている。しかも痘痕がカビのように皮膚に張り付いている。

 身体を拭きながらタブレットPCとwifi接続して、ソファに倒れ込んだ。プログラミングのオーダーが数件来ていたので、思考のなかで構築設計して返信する。これで暫く活動できるクレジット残高は確保したはずだ。

 キッチンの食糧庫から交換に値するものを探した。錆のついたコンビーフの缶詰を見つけ出した。後は家庭菜園からトマトをもいで一緒に袋に入れた。

 最近はエレベーターが動くのを見たことがない。階段で降りて、今日の朝市に向かった。マスク越しでも何か酸っぱい臭いがする。死臭は常に風に乗っていた。お隣の邸宅の庭からしていた。きっとその土は豊穣なので、陽が沈んだ後で作付け用に盗もうと思った。

 その邸宅の前に少女が立っていた。

 高校の制服も汚れていたが、乱れはなかった。しかし虚ろな目は何も見てはいなかった。僅かに身体が揺れていて、前髪が額を奥に隠していた。

「電源は」

「・・・電源は・・」

「どうしたの。こんな所で」

「わたし、もうひとりっきりになってしまいました」

 あの死臭はそういうことか。私は紙袋を開けて、肥えたトマトを見せた。そしてコンビーフの缶を添えた。

「それって・・・?」

「きみのものと交換して欲しい。みんなあげるよ」

 邸宅への門扉は斜めに傾ぎ、抵抗して開けづらかった。強引に押し開けて、少女を誘った。畏れの表情があるが、蛋白質の誘惑には勝てなかったようだ。

 見知らぬ場所に入ってくるように、自宅の門扉を恐る恐る潜ってきた。その肩を私は裏の煉瓦塀に押し付けた。細腕が一度は抵抗を試みようとしたが、直ぐに諦めたようだ。だらりと腕を下げて、肩がすぼまった。

 ゆっくりと彼女のマスクを外してあげる。下着を剥ぐような背徳感が、あのウィルスのせいで習慣化している。

 眼が諦念に染まっていた。私は彼女の顎に手を添えて上を向かせた。そして唇を寄せていった。

 しかしキスではない。キスで済ませるはずもない。

 お互いの舌を絡めあった。そこだけが別の生き物のように官能的に蠢いた。

 なぜキスをするのか、それは唾液の交換をして、女性は相手のDNAを見分けるらしい。そして優良種を授けてくれる相手を探すのだという。

 そんな行為がしたいのではない。私の舌先からバイオセンサーのケーブルが侵入していく。彼女の舌から脊髄を通過して、そして脳幹に侵入する。探っているのはバイオチップの所在だ。この邸宅を見れば、搭載されたスペックも窺える。

 少女は激しく律動して、暴れている。失禁もしたようだ。


 ふ、ふふ。喉の奥で鈴が鳴るようにわたしは嗤った。

 これで新しい素体を手に入れたわ。わたしは体重をかけてきている、冴えない中年男を振り払った。改めてその素体を見た。もうこの肉体に意志はない。わたしのバックアップメモリだわ。

 口笛を吹くと、それはまた階段を上って古びたマンションに戻っていく。

 さて、と。わたしは下着を替えて、シャワーでも浴びないと。

 そしてお祝いにトマトとコンビーフでシチューを作ろう。

 そういえばあいつ、と思い出したけど。

『私の電子体の奥歯』をどうしたかしら。もう捨てたでしょうね。まさか解凍して呑み込むほど世間知らずではないでしょ。あいつの演算能力では、ね。でももう遅いのよう。

 あの瞬間、歯には『私』が、♯の刻印を押していたの。ホント、ギリで間に合ったわ。一度でも歯に触れたら♯はいつまでも残るし、それをわたしは見逃さない。

 そう、キスマークを付けられたようなものよ。自分では見つけらない恥ずかしい位置にねえ。 

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