第3話 虚数の国
それは日記のようなログだった。
私はその背後でひっそりと息を潜めた。
女性の器を持っていたようだが、肉体はもう死滅しており腐敗から分解に進んでいる。うつ伏せになった部屋着のスゥエットから白い骨が覗いている。部屋着には血痕のような滲みが至るところにある。長い黒髪だけが艶々と骨張った背を覆い、その髪だけは生命力の残滓が見える。その部屋の惨状などは多くは語るまい。それを磁空領域から呆けたように眺めている姿を見つけた。
はらはらと泪が溢れてはいるが、水分が出ているわけではない。
女性の容姿が、電子の塊として見えている。
私は背後からそっと眺めているが、磁空領域の位相に存在を置いているので、相手にはわからない。バイオセンサーの触手を伸ばして、その姿のデータを同期しようと思った。今回は検分だけに止めるつもりだったが、気が変わった。その一見不合理に見える選択肢を選ぶ曖昧さが、私が肉体の器を捨てない理由だ。この気まぐれの着想で、どれだけ仕事が捗ってきたか。
ああ、あたしの身体が溶けていく。
ああ、あたしの髪をすいてあげたい。
ああ、こんな姿を他人に晒すなんて、死んでしまいたい。
ああ、せめてもっと可愛いのを着ていたらよかった。
ああ、どうしてあんな・・・
それはウィルスのせいで、あれが始まった。
あたしはあの部屋を世界の全てにしてしまった。
仕事はリモートになり、部屋から出て満員電車に乗ることもなく、痴漢に会うこともなく、仕事もさして辛いわけでもなく。
ずっと部屋にいて楽しかったわ。
食べ物も飲み物も、嗜好品もネットがあれば玄関先に届いている。感染を防ぐためにサインをすることもなく。魔法のように望むものはドアを開けばそこにあったわ。世界はドア一枚に隔たれているだけだった。
それが一変したのは世界大戦だった。
地球の反対側で戦術核兵器が使われて、ネットが不通になることもあった。それから電力費と食材がものすごく高騰してきた。
あたしはそれまでスルーしていた、副業に手を出した。
「誰でも簡単に収益化」「ネットで毎日稼げる」というキャッチでネットが、メールや動画配信で副業を囁いてくる。
そこからが奈落だった。
口座の貯金が尽きるとネット通貨のクレジットのみ。
そのクレジットは日々の値動きが激しかった。副業が本業に移り変わっていく。もう眠ることすら恐怖でしかない。相談できるような大事なひとの、顔も名前も思いだすことも叶わなかった。
ああ、あのひとの温もりが恋しい。
ああ、あたしのストロガノフをよく食べるひとだった。
ああ、あれが冷蔵庫に残っていたら。
ああ、そういえば最後に何を食べていたかな。
ああ、わたしは飼っていた小鳥を・・・
そして悲嘆に暮れた声が恨みがましく交錯していた。
これ以上の詮索は無意味だ。食べ物への執着が循環関数になっている。こちらまで妙な回線が開いてしまいそうだ。
脳も微弱な電流で身体を制御している。言わば脳から脊髄がメインフレームと言っていい。この電流を拾うのがバイオチップだ。
目前にある彼女は、バイオチップが磁空領域に産んだ、微弱電流の霊体であった。あの腐敗していく肉体の酸性がイオンを生み、バイオチップに電流を流しているのだろう。完全に白骨化した時に、彼女の意識は旅立てるのだと思う。
ぞくり、と背筋に氷柱のような悪寒が走った。
その瞬間に何かに私の意識が絡め取られた。それがもっと位相の空間からのバイオセンサーの触手だと分かった。その即座にフレーム計算のアップデートを行い、自らの電子体を耐性被膜で覆おうとした。
しかしその数積を嘲笑うかのように、メスのような鋭い関数が上書きを試みている。
まずい。
顎を奪われた。
私は味覚を、敵性と非適性の尺度にしている。
奥歯をその敵性が支配した。ぐりぐりと捻くり回されている。絶叫は湧かない。肉体がないからだ。しかし私のプログラムでは、味覚を感じている器官には疑似の生命感覚が残っている。
めりめりと両顎骨から奥歯が4本とも抉り取られていく激痛が、位相の脊髄を真っ赤に染めた。しかも麻酔もなしに。
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