Ⅸ(承前)

「同じ制服を着て歩けるの、あと半年なんだって」

 まるで自分とは関係のないことのようにももえが言うので、つぐはどう応えたらいいか分からずに黙っていた。

 十月、第五中学校では衣替えがおこなわれた。カレンダーの最初の日は火曜日で、つぐとももえは出したばかりの綺麗な冬服を着て学校までの道を歩いていた。

「聞いてる?」と、ももえが言った。

「分かってるよ。卒業まであと半年ってことでしょ」

 つぐの声には、二人だけでいる時に特有の距離の近さがあった。

 ももえは少し頬を膨らませて、つぐの横顔を睨むように見た。

 白いワイシャツに青みの強い紺色のブレザー、消炭色のチェックのスカート。靴下は黒で、首元にはえんじ色に濃い緑色のラインが入ったリボン。もっと寒い時期には、ブレザーの中にベストかカーディガンを着ることができる。それが冬服の組み合わせだった。

 二人は肩を寄せ合い、つぐの左手をももえが右手で握って歩いていた。掌がしっかりと合わさるくらい、二人は深く手をつないでいた。制服の袖口の銀色のボタンが時々ぶつかりあって、乾いたような小さい音を立てた。

「つぐは平気なんでしょ?卒業するのが寂しくないんだ」

 住宅街を歩いていると左側に子供たちが洋館と呼ぶ大きな古い家が現れ、緩やかな下り坂が始まる。ももえはどこか駄々をこねるような口調で言った。

「いや、平気っていうかさ…」

 つぐは憮然とした表情になった。

「仕方がないじゃん。卒業は最初から決まっていることなんだから」

 つぐは当たり前のことを言ったつもりだったのだが、ももえはむずかるような、不満そうな顔のままだった。

「でも、わたしがももえと同じ高校に入れば、また一緒に行き帰りはできるね」

 つぐはももえのことは気にならない様子で、言葉を続けた。つぐはその言葉を深い考え無しに言ったようだった。ももえは、つぐが気付かないくらいの短い瞬間、嬉しそうに微笑んだ。

「まあ、つぐが受験勉強をすごく頑張れば、それも可能かもね」

 ももえは意地悪そうに、わざとらしく顔をそむけた。ももえの機嫌は直ったようだった。

「変なの」

 つぐは少し呆れたように、笑いながら言った。

 

 その日、学校で進路についての面談があった。

 午後の時間に学習室や家庭科室を使って、三年生の四クラスの生徒全員がそれぞれの担任と一対一で面談をする。短い時間ではあったが、どんな高校を目指すのか、進路をどんなふうに考えているのかを先生に相談できる機会だった。

 呼ばれるのは出席番号の順で、つぐはクラスの中で二番目だった。先生と二人になり、「何か決めている事はある?」と訊かれて、つぐはそれまで進路についてしっかりと考えた事がほとんどなかったことに気が付いた。つぐは夏休みも受験のことを考えながら、出された課題以外にも自己学習をしていた。勉強をしていなかったというわけではなかった。ただ、自分の行く先を自分で決めるということに対してなかなか実感を持つことができなかった。つぐは、自分は進路について積極的に考えることを無意識のうちに遠ざけてきたのかも知れない、と思った。

「焦る事はないけれど、二月までの時間をどう使うか今からしっかりと考えようか」

 はっきりしたことを何も答えられなかったつぐに、先生は優しく言った。

 帰りの会が終わった後、つぐ、ももえ、そよは教室に残っていた。その週の木曜日と金曜日は二学期の中間テストだったので、ダンスの練習はテストが終わるまでは休みということになっていた。

「わたしも練習を我慢して勉強するから」日曜日、かのは三人にそう言った。

 火曜日はかのとみこがダンススクールの為に練習に来られなかったが、つぐ、ももえ、そよは三人とも塾や家庭教師がなかったから、ここ一ヶ月ほどは放課後にもさくらベースで顔を合わせるのが毎週の恒例になっていた。

「練習がないと、なんだか落ち着かない気分だね」

 つぐは左ひじを机について頬杖をしながら言った。つぐとそよは自分の席に座り、ももえがつぐの後ろの席に座って、三人はおしゃべりをしていた。

「でも、かのちゃんがああ言ってくれたんだから、ちゃんと勉強しないと」

 ももえはつぐに言い聞かせるような口調で言った。

「二人ともどうだった?面談」

 つぐは少しもじもじしながら二人に尋ねた。ももえとそよは目を見合わせた。

「わたしは二年生の頃から、行きたい学校が決まってるから」と、ももえは言った。

「そよは?」

「うーん…」

 そよは、つぐの問いかけに困り顔のような微笑みを浮かべた。

「まだ、しっかりとは決めてない。こういう学校に行きたい、っていうのはあるけれど」

 そよの言葉ははっきりとしたものではなかったが、口ぶりには迷いがなく、何か心に決めていることがあるようにも感じさせた。

 つぐは、そよが学校に戻って来てからのことを考えていた。つぐが見ている限り、話し方や勉強に対する姿勢、友達への接し方など、学校を休む前と戻って来た後で、そよの何かが大きく変わったということは無かった。

 一つだけはっきりと違ったのは、そよが学校に眼鏡をかけて来なくなったことだった。その外見の変化は、当然、つぐのそよに対するイメージを変えた。真面目で温和な性格はそのままだったが、時折そよが見せる表情から、つぐは、そよがこんなに女の子っぽく可愛らしい姿を見せるのかと驚くこともあった。

 そよは学校では特に何事も無かったかのように自然に振舞っていて、結局、そよが学校を休んでいた理由も戻って来たきっかけも、つぐには良く分からないままだった。二人でそういう話をするようなことはこの一ヶ月の間にはなかったし、つぐは無理にそれを知りたいとは思わなかった。

「じゃあ、帰ってテスト勉強にしようか」

 そよを見つめていたつぐに向かってももえが声をかけ、立ち上がった。

 そよはももえを見て、そうだね、とうなずいた。

 つぐは慌てて鞄を肩にかけて立ち上がったが、まだ少し何かを話していたいような気分だった。


   §


 十月に入ったばかりの頃は晴れて気温も高く、冬服では暑いほどの陽気が続いた。

 ダンスの全体練習は十月の最初の土曜日に再開されたが、その日の午前中には、さくらベースの近くの田んぼで稲刈りがあった。

 駅から走ってくるバスがベースの敷地の前を通って行くその道沿いには、どこか整然と配置されたように見える四角い田んぼと、季節ごとに異なった色や姿を見せる畑がずっと広がっている。ベースからしばらく歩いた場所にある大きな田んぼの隅の一畝分を使って、子どもたちは毎年のように田植えと稲刈りを体験させてもらっていた。


 土曜日の稲刈りには、ももえとつぐを除く十人が参加した。みんなは長袖のTシャツや薄手のスウェットシャツ、ジャージの長ズボン、スニーカーという格好で、それぞれ軍手を持ちタオルを首に巻いたりして、一列で歩いて田んぼに向かった。前日までと比べると、薄曇りで涼しい、外で身体を動かすにはちょうど良さそうな天気だった。田んぼに着くと農家の人が待っていて、十人は元気よく挨拶をして五人ずつに分かれた。

 三日月のような刃が付いた草刈鎌を渡された五人は、稲を刈る役目だった。

 田んぼはベースの子どもたちが田植えに参加した五月の頃には泥のプールのようだったが、今はすっかり稲穂のじゅうたんを敷いたようになっていた。稲は草丈が六十センチを超えて、夏の鮮やかな濃い緑色から少し黄緑色になった葉が茂り、稈の先には爆ぜるような籾が窮屈そうに集まって実っている。籾は一粒一粒が秋の陽射しを浴びて光を蓄え、田んぼ全体が文字通り黄金色に美しく輝いていた。

 生っているのはもち米だった。以前はうるち米だったのだが、最近は十二月の終わりにさくらベースでおこなわれる餅つきで使うために、もち米を刈らせてもらっていた。

 五人は手ほどきを受けながら、しゃがみこんで地面に近い稲の基の部分を鎌で刈っていった。刈り取られた稲は残りの五人に手渡される。受け取った子は、稲を二株ほどずつ基の部分を藁で束ねて、あぜ道の側に立ててある稲架に干す役割だった。

「はざかけと言うんだ」と、稲刈りを教えてくれる農家の人が言った。

 刈ったばかりの稲は水分を多く含んでいるので、しばらくの期間、干すことが必要になる。機械で刈り取ることがほとんどになった現在では乾燥も機械でおこなわれるのが普通なのだが、手で刈り取った分は天日で乾燥をさせているのだという。初め、はざかけは身長の高い子が、刈り取りは小さな子が担当していたが、途中で役割を入れ替えたりしながら、午前中いっぱいを使って、十人は稲刈りをした。

「充分に乾いたら、脱穀して袋に詰める。そうしたら、また取りにおいで」

 午前中の作業が終わると、農家の人は日焼けの色が残る顔で、笑いながら言った。

 みんなは、きれいに刈り取られ八の字に稲架に吊るされた稲穂を見ながら、心地よく疲れて満足そうだった。

 練習は午後の少し遅い時間からということになっていた。稲刈りに参加した十人は農家の人たちが作ってくれたおにぎりを食べ、全員でお礼を言ってからベースへと戻った。練習が始まるまでは休憩の時間となっていたので、みんなが本を読んだり練習のノートを開いたりしている傍らで、ゆめとさきあは勉強部屋の隅に座布団を敷いて寝そべり、タオルケットにくるまりながら昼寝をしていた。


 午後二時前に、ももえとつぐがやって来た。

 わずか五日ぶりではあったが、久しぶりに集まって練習ができることは、特にベースの子どもたちにとって嬉しいことであるようだったし、その気持ちはいつも以上に真剣な空気となって遊技場を満たしていた。

 かのが教えてくれるダンスの練習は、どちらかと言えば同じことを淡々と繰り返す時間が長く、地味な印象のものだったが、みんなは飽きた様子を見せることもなく、楽しみながらそれに打ち込んでいた。その我慢強い反復の成果が、練習を始めて一ヶ月ほどが過ぎて徐々に表れてきたように見えた。九月の中頃には複雑な立ち位置の移動に考え込んでしまう子が多く、また、そういう時にかのは無理やり先へ進もうとはしなかったので、練習が途切れ途切れになってしまうことがしばしばあった。その頃と比べれば、今はみんなが移動のタイミングと場所を覚えて、全く淀みないとまではいかないが、曲の流れが滑らかに感じられるようになってきていた。

 それは別々に練習していた断片的な場面が繋がり、十二人のダンスが一つの流れとして躍動し始めたことを示しているようだった。


 全体にはうまく進んでいるように思えた土曜日の練習だったが、そよには、かのの様子に少し引っかかるものがあるように感じられた。

 かのは相変わらず粘り強くしっかりと、みんなに教えるべき事を教え、笑顔を絶やさないでいたが、時々、何かを我慢しているようなもどかしい表情や、苦しそうな表情を浮かべる瞬間があった。それはいずれもほんの一瞬のことであって、他のみんなは気付かないようだった。常にかのから目を離さないように意識をしていたそよは、かののそんな様子が幾度か目に入り、なんとなく気になっていた。

 日曜日も練習は順調に進み、遊技場の中は活気にあふれているように見えた。

 踊ることができる曲は一つだけだが、少しずつ、だが確かに、彼女たちは十二人のチームになって来ているように思えた。けれども、そよはやっぱり、かのがふとした時に見せる、曇ったような辛そうな表情が気になっていた。


   §


 日曜日から週が明けて数日間は、空気が少し冷たく澄んでからりと晴れた日が続いたが、木曜日には空に重たそうな雲が現れ、金曜日の夜に雨が降り出した。テレビの天気予報で、気象予報士がしばらく秋雨が続くということを伝えていた。

 さくらベースでは、田んぼに干した稲のことが心配された。

 波子さんが農家の人に電話をしたところ、天日で干していた稲は、その日の夕方に穀物倉庫にしまわれ、乾き足りない分は乾燥機にかけてもらえるという返事だった。子どもたちはそれを聞いて安堵したようだった。


 十月、第二週の土曜日。練習は午後から遊技場でおこなわれた。

 前日の夜から降り出した雨は決して強くはなかったが、一時も途切れることなく空から落ち続け、かえっていつまでも続きそうな容赦のない感じを思わせた。

 その日、かのの様子は明らかにいつもと違っていた。

 いつものように準備運動をして、ノートを開き、これから取り掛かる内容をみんなと確認をしてから練習は始まったが、かのはどこか身が入らないようなぼんやりとした様子を見せたり、息がつまっているような表情をすることがたびたびあった。それは、そよだけでなく他のみんなも簡単に気付くほど、隠しきれずに表に出てきてしまっていた。なんとなく重苦しい、今までになかったような空気の中で練習は進み、一時間半ほどで休憩になった。

 遊技場にいる誰もが、いつもと異なる雰囲気を感じ取っている様子だった。車座になったみんなの表情は、沈んでいるというよりは何かを探るような、張り詰めた糸を切らないように気を付けておどおどしているようなものだった。それは落ち込んでいる姿よりもっと頼りなく哀れに思えたし、母屋から運ばれたおやつが配られても、いつもの賑やかな歓声が遊技場を包むことは無かった。

 波子さんが作ってくれた柿のタルトは、紙の皿の上で居心地が悪そうに見えた。


 ぽつぽつとおしゃべりの声が小さく聞こえる十二人の輪の中で、かのは黙ってうつむき、考え込むような表情をしていた。何か憂いごとがあるのは明らかであったが、誰も、かのにどう話しかけていいのか分からなかった。

 その時、ももえがわざと少し大きな声で言った。

「かのちゃん、どうしたの」

 かのは虚を突かれたような顔をしてももえを見た。

「えっ?うん、大丈夫。何でもない」

「何でもないわけないじゃない。ずっと変だよ。三日間ごはん食べてないような顔してる」

 ももえはいたって真面目な様子だったが、その言葉を聞いてみんなは微笑み、空気が少し柔らかくなったような気がした。

「ああ、そっか。うん、ごめん。ごめんね」

「ごめんねじゃなくて、どうしたの、って聞いてるの」

 かのは答えなかった。目を伏せてうつむいたかのの顔に、そよが見た、何かを我慢しているような、苦しそうな表情が浮かんだ。

 みんなが口をつぐんだまま、しんとした遊技場に、ももえの声がまた響いた。

「わたしたちのこと信じてくれないの?」

 かのは、びくっとして顔を上げた。

「ももえ、ちょっと…」そよが慌てて困ったような声で言った。

「言葉がきつかったらごめん。でもかのちゃんが思ってること、ちゃんと話してほしいの」

 ももえは眉をしかめ、刺すような強いまなざしで真っ直ぐにかのを見た。かのもまた困っている様子だった。かのは肉付きの良い下唇の端の方を噛んで、ももえから目をそらした。

「わかった。じゃあ」と、ももえが言った。

「あの子たちのダンス、また見せて」

 そう言ってももえは立ち上がり、姿見鏡の横の壁側に寄せてあったテレビ台を少し前へと引っ張って移動させた。


 母屋の二階の書斎で、かのがそよに見せた少女たちの映像は、この遊技場でダンスの練習が始まる最初のきっかけだった。その映像は全体の流れや振り付けの細部を確認するために、みんなで何度も繰り返し観たし、床に置かれたCDプレイヤーにはアルバムのディスクがずっと入ったままになっていて、練習前や休憩の時に大きな音で少女たちの歌が流れていることもあった。みんなは映像の中の少女たちのお気に入りの仕草などを話し合ったり、アルバムのいくつかの曲を覚えて自然と口ずさんだりしていた。

 気が付けば、十二人の少女たちは確かに、子どもたちにとって身近で深い親しみを感じる存在になっていた。画面の中でいつもきらきらと輝くような魅力を放つ彼女たちはいつしかみんなの憧れの的となり、みんなはこの子たちみたいになりたい、この子たちみたいに踊りたい、と強く思うようになっていた。それは、かのが保ってきた真摯で粘り強い練習への姿勢とともに、間違いなく、みんなが毎日の練習を飽きることなく続けられた理由の一つであった。

 ももえは「お願い」と言って、かのにリモコンを手渡した。

かのはまだ戸惑いをしていたが、ももえの声は決して高圧的ではないのにどこか抗いがたいような強さを持っており、みんなは輪を解いてテレビの前に集まって来た。それで、かのは、仕方なさそうにテレビにいちばん近いところに座った。かのが身体を斜めにしてテレビの画面を観ながら、同時に、テレビに正対して座っているみんなに視線を送る。彼女たちの踊りを観る時には、いつもそうしていた。

 映像が終わると、ももえはかのの目を見つめながら言った。

「かのちゃんは、どこまで行きたいと思ってるの?」

「どういうこと?」

 かのは、ももえの言っている意味がよく分からずに聞き返した。

「この子たちのダンスにできるだけ近づきたいと思ってるんだよね?そりゃあ彼女たちはプロだから、わたしたちがこれをそのまま真似できるわけないよ。でも、かのちゃんが目指してるゴールをわたしたちに教えてよ。それから、今、わたしたちに何が足りていないのかも」

 ももえの目は真剣なままだった。

「かのちゃんは、それをわたしたちに言わなきゃいけないと思う。だって、これはあなたが始めたことなんだから」

「でも、それは…」

かのは、やっぱり苦しそうな顔をしていた。

「これ以上みんなにわがままを言えないよ。みんなにはもう充分に協力してもらって、実際、ダンスもすごく上達しているし…。これ以上は、楽しくなくなっちゃう」

 みんなが楽しいと感じるようにする、というのは、初めて十二人が揃って顔を合わせた時にかのが決めた三つのルールのうちの一つだった。

「でも、じゃあ、かのちゃんは本当に楽しいの?」

 ももえは、かのの様子を見て業を煮やしたようだった。

「だって、かのちゃん、もう、一つ、あきらめてるじゃない」

「えっ?」

「本当は歌いたかったんでしょ?歌も」

 かのは目を見開き、あっ、というような顔をした。

 初めておもちゃのマイクを持って練習をした日、かのは「みんなで歌えたらいいんだけどねえ」と、力なく笑いながら呟くように言った。そよも他の皆も、それは本気ではないと思っていた。だが、ももえはそうは思わなかったようだった。

「わたし、運動は苦手でダンスなんて全然できないと思ってたし、今でもみんなの足を引っ張っちゃってるんじゃないか、って、いつも考えながら練習してる。でもかのちゃんは最初から一生懸命だったし、すごく前のめりで、そういうの、いいなあと思って、わたしも本気でやらなきゃって、苦手だけど、がんばって付いてきたの。だから、あなたがやりたいと思ってることを、ちゃんとやってほしいの」

 ももえは、頬を紅潮させながら、少し早口で言った。

「せっかくやるって決めたんだから、もう諦めてほしくないの。それに、同じように思っている子、きっと他にもいる」

 ももえは、テレビに向かって三列で座っているみんなの方を肩越しに見た。


「わたしも」

 後ろの列の端に座っていたみくが口を開いた。

「ももえちゃんの言ってること、よく分かる。かのちゃんはいつもさくらベースに来て、わたしたちの為に色々してくれて、わたしたちはお世話になりっぱなしだから、恩返しって言うわけじゃないけど、わたしはかのちゃんがやりたいって思ってることに協力したい」

 みくは少し目を伏せながら、心地よく低い、落ち着きを感じさせる声で言った。

「わたし身体も硬いし、いつも遊びの時間にかのちゃんが教えてくれる簡単なダンスでもうまくいかないことが多かったけれど」みくは、恥ずかしそうに言葉を続けた。

「でも、十二人で踊るの楽しいよ。かのちゃんが少しくらい無理を言っても、きっと楽しいのは変わらないと思う」

 みくの言葉に異議は出なかった。

 みんなはそれぞれに小さくうなずきながら、かのを見ていた。

 かのはみんなとは目を合わさず、少し嬉しそうに笑い、「ありがとう」と言った。

「ほんと言うとね」

 かのは、座ったまま身体をみんなの方に向けて話し始めた。

「うまく言葉にできないんだ。うん、みんなに何かが足りないっていうわけじゃない。わたしが思っていた以上にみんなは頑張ってくれていて、でも、だから、もっとできるかも知れないって思ったりもして…」

 かのは頭の中にあることを言葉にしようと必死な様子だった。

「わたし、この子たちのダンスを観ると元気になるの。自然と笑顔になる。振り付けを覚えて、みんなで〝正しく〟踊ることは、このまま練習を続けていけばできるようになると思う。でも、そこから少し欲張って、わたしがこの子たちから感じるようなことを、バザーの日に、見てもらった人にほんのちょっとでも感じてもらえないかな?って、その為にはどうしたらいいのかな?って…。ここのところ、ずっと考えてた」

 かのは苦笑いしながら続けた。

「それで、わたし、言葉にするのが苦手だから…。何て言うんだろう。もっと、みんなが、ぎゅっと…?ダンスの先生には、心を揃える、っていう言葉を教えてもらったことがあるんだけど、そういう、一つになる感じを、どうやったらできるか、そうなりたいっていうことを、どうやってみんなに伝えたらいいか、ずっと考えてた」

 かのはそこまで話すと、息をついて、みんなの顔を見た。

「みんなで考えたらいいと思う」

 かのの言葉が途切れた間に短く言葉を継いだのは、みこだった。

「ちゃんとダンスを習っているのは、かのちゃんとわたしだけ。でも、二人じゃなくて十二人で踊るんだから、みんなの言葉で考えたらいい。一つになるのって簡単じゃないけど、みんなだったら…わたしたちだったらできると思うよ」

 みこは踊りの技術やコツについてみんなに色々なことを教えてくれたが、踊りの全体について何かを言ったことは、今までほとんどなかった。それは、かのへの尊敬の思いと同時に、少なからず遠慮もあったのかも知れなかった。

「あのね」

 それまで、じっと何かを考えている様子だったここながすっと手を挙げた。

「初めに、かのちゃんが、この曲はどんなイメージって聞いたでしょ?それで、みんなで話し合って。あの時はまだ始めたばかりで何も分からなかったけれど。わたし、あんなのがいいと思う」と、ここなは言った。

「わたし、ダンスの難しいことは分からないから、身近なものに置き換えて考えたりすることがあるのね。それで、サビの敬礼のところ、目線をどこに向けるかっていうのを、さなとみきと相談した時に、つぐちゃんが言った〝ヒコーキ〟っていうのを思い出して、空に飛行機が飛んでいるって想像しながら斜め上を見てみたら、首の角度がうまくいったの」

 ここなは身ぶり手ぶりを付け加えながら続けた。

「わたしたちがやってたら、ねおも真似してくれたよね。そうやって、みんなに分かりやすいものに例えたりすれば、かのちゃんも、ゆめも、さきあも、同じことを頭に思い浮かべながら踊れるでしょ?どうかな」

 ここなの声は、ころころと鳴る土鈴のように可憐でありながら朗々として響き、もしかするとうまく行くかも知れないと、みんなに思わせるような奇妙な力強さがあった。

 かのは心を決めたようにうなずいた。

「きっと、みこが言ったみたいに、一つになるのは簡単じゃないから、もっとみんなの力を借りることが必要だよね。今よりもうまくできるようにわたしも頑張るから、みんなにも、力を貸してほしい」

 かのの大きな目は、生彩を取り戻したように輝いた。

 その日、残りの練習時間は、そのままみんなで話し合いをすることになった。

「かのちゃんが思っているよりもみんなはしっかりしているし、かのちゃんが思っているほどかのちゃんはしっかりしていないんだよ。だからもっとみんなに頼っていいんだからね」

 ゆめが、話し合いを始める前に、かのに向かってまるで小さな子供を諭すようにそう言った。みんなは一斉に笑い、遊技場に大きな笑い声が響いた。

 遊技場の屋根を、雨がずっと叩いていた。


   §


 話し合いのあと、ダンスの練習は新しい段階に入ったように思われた。

 土曜日、練習の後半は、特徴的な振り付けや動きを揃えるのが難しい部分をどうやってみんなで同じことを連想しながら踊るのかということにについて、長い時間をかけて話し合いがおこなわれた。

 少女たちの映像を何度も観て練習を重ねてきた中で、イメージはそれぞれの頭の中に豊かに膨らんでいたようだった。話し合いを始めると、それがダンスの経験の有無や上手い下手に因ることなく、全員の中で等しく育まれてきたことが分かった。漠然とした、或いは詳細で繊細な言葉として子どもたちの口から飛び出し、空気中を自由に広がっていくようなイメージを掴み取り、年少の子たちにも分かりやすいようにまとめて記録していく作業が続けられた。

 イメージや動きを表す言葉はかなり細かい部分にまで設定されていった。例えば顔に手をかざした時の肘の曲げ方であったり、頭上に掲げた拳の向き、踵立ちになった時のつま先の角度、そういった細かいところまでも、共通の言葉で、みんなの動きが自然と揃うように苦心が重ねられた。

 それと併せて、かのとみこからは、表情の作り方や指先の使い方について幾つかのアドバイスがあった。みんなが持っている立ち位置の冊子やノートには、それまでよりも深く踏み込んだ、表現に関する言葉がいくつも書き加えられていった。

 一方で、ずっと繰り返してきた反復の練習がはっきりと役に立ってきていることも分かった。もちろん個人差はあったが、基本の動作や立ち位置について考える時間が少なく済むようになっていたからこそ、みんなは、イメージや表情で動きを装飾することに意識を向ける余裕ができたようだった。さなは「骨の周りに肉がついていくみたい」と、独特の言い回しで練習が新しい方向に進んでいくのを表現した。みんなは少し気持ち悪そうな顔をしたが、それは不思議と腑に落ちる言い方でもあった。

 天気予報の通りに雨は断続的に降り続いたが、遊技場は練習を始めたばかりの頃のような、新鮮な活気に満ちていた。


 本番であるバザーまで残り十日ほどになると、みんなの中に練習が最後の追い込みに入っているという感覚が生まれてきたようだった。しばらく降り続いていた秋の雨はやんで、朝晩はもう肌寒かったが、太陽が昇っている短い時間は空気が澄んで過ごしやすかった。

 平日の練習は、相変わらず曜日によって参加できる子が入れ替わったが、以前と比べてみても、みんなはそこに居ない子たちのことをよりはっきりと思い浮かべながらステップを踏むことができるようになっていた。

 遊技場の姿見鏡の横の壁には、太く力強い筆致で「心をそろえる」と書かれた懐紙が貼られた。そよが、かのに頼まれて筆と墨で書いたものだった。みんなは共通の合言葉を確かめ合うようにノートに書き込まれたイメージを呟き、そして、心を揃えるという言葉を何かのおまじないのように口にしながら練習を進めた。

 本番前の一週間は、波子さんに許しをもらい、夜八時以降も遊技場を使わせてもらえるようになった。つぐ、ももえ、そよは塾を終えた後にさくらベースを訪れ、それから短い時間ではあったが、十二人で練習できる日を何日か作ることができた。

 ダンスの完成が見えてくるのと重なって、本番に向けての準備が確かに進んでいると思わせるような出来事も幾つかあった。かのがソウヤさんと何事かを相談していたり、町会のバザーを取り仕切る人や、みんなが会ったことのない、ソウヤさんの知り合いらしい人がベースを訪ねて来たりした。そして、かのがみんなの身長と足のサイズを測り、メモを取ったりもしていたが、その理由はみんなには知らされなかった。

 そういった一つ一つが、さくらベースの日常では慣れない出来事であり、みんなは自然と心がそわそわして、確かに本番が近づいて来ているのだ、と、改めて実感したのだった。

 十月の最後の一週間は、そうやって慌ただしく過ぎていった。


   §


 十一月三日。バザーの当日は快晴だった。

 朝の六時半に音だけの花火が打ち上げられ、号砲が三度鳴った。

 みんなは午前十時頃にさくらベースに集まって、バザーの会場である近隣住民センターの敷地へ歩いて向かった。体育館の舞台での出し物は午後二時から始まる予定だったが、午前中は会場の準備や出店を手伝い、お昼ごはんを食べて出番を待つということになっていた。

 住民センターは、ベースから歩いて十五分ほどの場所にあった。みんなはそれぞれの格好で、リュックサックや肩掛けカバンにたくさんの荷物を詰めて出発した。十二個の水色のおもちゃのマイクは、大きな手提げの紙袋に入れて、かのが持った。敷地を出て右側の石塀と竹林の間の路地を二列になって歩き、ベースの裏手から雑木林沿いに緩やかな坂を上った。途中、視界が開けた場所に出ると、眼下に深緑色の畑や、すっかり稲刈りが終わり薄茶色に平べったくなった田んぼが見えた。一ヶ月前には黄緑と金色が混じってさわさわと揺れていた田んぼも今はどこか荒涼として見えたが、そよは、秋から冬は地中の養分を作る大切な土づくりの時期なのだと、農家の人が教えてくれたのを思い出していた。

 

 住宅街を少し歩くとまたビニールハウスの畑や空き地が多く目に入る景色になり、舗装された道を更に進むと左手に古い石造りの鳥居が見えた。その先はこんもりとした小さな森になっていて、その森がはちまんさまと呼ばれる神社であった。

 近隣住民センターは、四十年ほど前にはちまんさまの森に隣接する一角の空き地を整備して建てられたもので、アルミ格子のフェンスに囲まれた広い敷地には、アスファルト敷きの駐車場と、センターの本館と体育館の二つの建物があった。本館は鉄筋コンクリート造の白くて平たい箱を重ねたようなあまり味気のない外観の建物だが、中には市立図書館の分館や小さなホール、貸会議室などがあり、近所の子供たちがよく遊びに来たりしていた。体育館はもちろん学校にあるものよりは小さいが、バドミントンのコートが二面に卓球台が四台ほど同時に設置できるくらいの広さはあったし、雀色の切妻型の屋根も堂々としていて、こちらも休日ごとに汗を流す人たちの姿が見られた。

 バザーはその近隣住民センターの敷地でおこなわれ、加えて、はちまんさまの広い空き地には、空気を入れてふくらましたトランポリンや滑り台、綿菓子やポップコーンの機械、輪投げや様々なゲームなどの、ごく小さな移動式の遊園地のようなものがやって来るので、その日は地域の人たちのほとんどがこの周辺に集まるというのが恒例だった。


 十二人が住民センターに着くと、舗装された駐車場には色とりどりの敷物がパッチワークのように敷かれ、バザーの準備が始まっていた。古い家具やおもちゃ、本、雑誌、手作りのアクセサリー、小さな鉢植えや盆栽、古着や手編みのマフラーなどが、空き地の仮設駐車場に停めた車の荷台から次々に運び込まれ、敷物の上に並べられていった。

 本館と体育館を繋ぐ外通路の前あたりには、町会の青と白のテントが二つ連なって建てられ、長机の上にガス台付き鉄板と焼きそばの材料、串打ちされた鶏肉、山盛りのおでんが入ったしゅう酸鍋を乗せたコンロ、手作りのおこわやおはぎ、様々な焼き菓子や果物などが隙間なく身を寄せ合うようにして乗せられていたし、敷地の入口から見て奥側のテントの脇には、たっぷりと水が張られた黄色のビニールプールにきらきらと光るスーパーボールが無数に浮かび、それを薄紙の掬い網ですくうゲームの用意がしてあった。

 二つのテントの前を通り過ぎて体育館の裏手に回ると、そこにはもう一つ白くて大きなテントが建ててあり、地面には青いポリエチレンのシートが敷かれていた。そこは舞台で出し物をする人たちの待機所だった。みんなはテントの下に荷物を置き、二手に分かれて体育館の舞台の準備とバザーや出店の手伝いをすることになった。


 かのとみこ、さな、ここな、それにそよとももえの六人が、持参した上履きに履き替えて体育館に入ると、貸舞台の業者と地域の人たちがいて、もう舞台の設置は終わりかけていた。舞台は間口が十五メートル、奥行きは七、八メートルほどもありそうで、高さ八十センチほどの頑丈そうな金属の脚の上に天板が乗せられ、目の詰まった灰色のパンチカーペットが敷かれている。舞台の左右それぞれの床には、黒い大きなスピーカーが立てられていた。

 舞台の近くにいた男性が、かのを見つけて声をかけた。それは、十月の終わり頃にさくらベースに来ていた町会の係の人だった。六人で男性に挨拶をしたあと、かのは舞台横に取り付けられた階段から天板に登り、足を踏み込むようにして感触を確かめた。

「テープ、先に貼ってもいいですか?」

 かのが尋ね、許可をもらうと、さなとここなは舞台に上がって、遊技場でやるのと同じように足下に緑色のビニールテープを貼り始めた。他には、舞台の脚の部分に目隠しの暗幕を張る作業、舞台の背に装飾品を取り付ける作業、そして、体育館の床にパイプ椅子を並べていく作業などがあり、みんなは手分けして準備を進めて行った。


 みく、みき、ねお、ゆめ、さきあ、そしてつぐの六人は、外の駐車場でおこなわれているバザーの手伝いをした。

 スーパーボールすくいの代金を受け取って三本の掬い網を渡したり、焼きそばをパックに詰めて輪ゴムを掛けたり、白い発泡スチロールの容器におでんをよそったり、地域の人たちと一緒にリサイクル品を売る手伝いをしたりした。

 特に、年少の子たちが敷物の上に座り、小さな家具や古いおもちゃ、古着などを売っているのは、見に来た人の興味を引くようだった。さきあやゆめが品物を眺めている人に「これは良いものですよ。使い込んでいますけど、大きな傷はありません。お買い得だと思います」などとしかつめらしく言うと、なぜかあっさりと商談がまとまり、出品しているお年寄りに褒められたりするのだった。

 午前中の時間はそうやって過ぎて行き、一時少し前に再び十二人で集まってお昼ごはんを摂ることになった。舞台に出場する人たちはまだ集まって来ていなかったので、みんなで体育館の裏手の白いテントの下に靴を脱いで座り、出店でもらってきた焼きそばや栗の入ったおこわ、かんぴょうの海苔巻き、こんにゃくや大根のおでん、それにクッキーとパウンドケーキ、バナナやみかんなどを広げ、輪になって食べた。

 かのは、出し物の出演順が書かれた紙をもらっていた。

 最初の四十分ほどはカラオケを使ったのど自慢大会で、その後にアカペラ歌唱、手品、地域に伝わる伝統の太鼓などを披露する人たちなどが続き、出演順のいちばん端、三時五十分~の所に、『ダンス/さくら寮の子供と仲間たち』と書き記されていた。

「これ、最後ってこと?」

 紙を覗き込んでいたつぐが、びっくりしたような声を出した。

 かのが「うん」と言ってうなずくと、みんなは一斉に緊張したような表情になった。

「心配しなくても大丈夫」と、かのは笑った。


 二時。

 体育館の舞台ではのど自慢が始まった。

 白いテントに近い体育館の出入り口の引き戸が半分ほど開けられ、出場する人は係に案内されてそこから体育館に入り、舞台横の階段を使って舞台に登ることになっていた。みきが出入り口から中を覗いてみると、床に置かれた百五十脚ほどのパイプ椅子の半分くらいに観客が座っていた。

「ねえ、意外とたくさん人がいるよ?」

 みきはびっくりしたような顔でみんなに報告をした。


 二時十分。

 ソウヤさんが、さくらベースの軽トラックに乗って会場にやって来た。トラックを待機所に近いフェンスの外側の道路に停め、ソウヤさんは荷台から大きなスポーツバッグを降ろしてみんなの所に持って来た。

「かのちゃん、遅くなっちゃった。ごめんね」

 フード付きの象牙色のパーカーに色の落ちたジーンズで、黒い毛糸の帽子をかぶったソウヤさんは、そう言いながらバッグの口を開けた。 

 そこに入っていたのは、十二人分のお揃いの衣装だった。

 画面の中に見た彼女たちのようなきっちりとした制服ではなかったが、胸にピンク色の文字でSAKURAと印刷された真っ白いTシャツ、紺地に赤と白の細いチェックのスカート、濃紺のスクールソックスが、ひと揃えになって入っていた。

 みんなは興奮したようだった。

「Tシャツは駅前にあるユニフォームショップで作ってもらったの。靴下も同じお店。スカートは貸衣装屋さんに頼んだ。どっちも、お店の人はソウヤさんの知り合い。今度みんなでお礼を言いに行かないとね。…あれ、靴は?」と、かのが言った。

「靴は箱に入って荷台に乗っているよ。持って来るのを手伝っておくれ」

 ソウヤさんは軽トラックを指さした。

 そこで、かの、そよ、みく、みきの四人が、ソウヤさんと一緒にフェンスの途切れ目から外に出て、軽トラックの荷台から幾つもの厚紙の箱を運んで来た。

 靴はぴかぴかと輝く黒い革のローファーだった。

「靴も貸衣装屋さんから借りた。ゆめとさきあには少し大きいかも知れないけれど、中敷きがあるから大丈夫だと思う」

 衣装を手にした十二人は、三人ずつ本館のトイレに行って着替えをした。かのがベースでみんなの背丈を測ったり、足のサイズを調べたりした理由が分かり、みんなは納得したのと同時に、嬉しさを隠せない様子だった。靴は屋内用なのでその場ですぐに履き替えることはできなかったが、初めて全員でお揃いの衣装を着たことは、それまでにないほどみんなの気持ちを昂らせた。

 出番まではまだ時間があったので、着替えた後はTシャツの上にそれぞれ上着をはおり、それから、さながみんなの髪をきれいに整えてくれた。さなはヘアブラシと櫛、それにたくさんのヘアピンや髪留めを鞄に入れて持って来ていて、一人一人の髪の毛をとかしたり、手際よく編み込みを作ったりして、可愛らしい星の形のピンで前髪を留めたり、赤い花のブローチのような装飾のゴムで髪を結わいてくれた。


 三時十五分。

 着替えとみんなの身仕舞が終わった頃には、出番まであと三十分ほどになっていた。

 かのはみんなを集めて、最後の確認をする、と言った。それで、十二人は駐車場からはちまんさまの空き地へ移動して、少し広い場所で踊りと立ち位置の確認をした。

 舞台は充分な広さがあるけれど、奥行きに限りがあるし、あまり前に出過ぎると舞台から落ちてしまう。縦の位置は練習の時よりも少し詰めてテープを貼ってあるから、気を付けて、と、かのはみんなに説明した。それからみんなでざっくりと立ち位置を想像した場所に立ち、髪型が乱れないように、ゆっくりと、少しだけ動きを合わせて、待機所に戻った。


 三時三十分。

 更に出番の時間が近づくと、みんなの顔には、はっきりと分かるような緊張の色が見えるようになってきた。つぐは、それほど緊張はしなかったが、なんとなく落ち着かなくて、みきがやっていたように出入り口まで行って体育館の中を覗いてみた。二時頃に半分ほどが埋まっていたパイプ椅子の客席は、もうほとんど満席に近くなっていて、幾つか空いた椅子にも上着や荷物が置いてあり、後ろの方には立って舞台を観ている人たちも何人かいた。

 舞台の上では二本のフォークギター、小さな電子ピアノ、ヴァイオリンという楽器を携えた四人の初老の男性が、心地よいメロディの曲を演奏していた。つぐが客席に目を凝らすと、真ん中あたりに波子さんが座っているのが見えた。その三列ほど後ろの左側にはみきの母親が、更に後ろの方にそよの両親、そしてその斜め前に、ももえの家族の顔も見えた。つぐが顔を知らない、さなやここなの家族も来ているはずだったが、つぐはどうしても恥ずかしい気がして、家族が来るのを断っていた。

「わたしも呼べばよかったのかな」

 つぐは周りに聞こえないほどの小さな声で呟いた。

 不思議な心細さを覚えながらもう一度体育館を見渡したつぐの目に、最後方のほとんど壁際に立っている少女の姿が映った。

 それは、まりんだった。

 まりんは一人ではなかった。右隣にまりんよりも少し背が高い、肩の下あたりまでの髪の、目尻が下がった優しそうな微笑みの少女が立っていて、更に二人の後ろからもう少し髪の短い、気弱そうな可愛らしい少女が、ちょっとおずおずとした様子で舞台を覗き込むようにして見ていた。

 あれは前にまりんちゃんが話していたお友達だな、と、つぐはすぐに思った。まりんには、一週間ほど前に、バザーでダンスを踊ることを話していたのだった。

 つぐは急にほっとしたような気持ちになり、その場を離れて、みんながいる場所に戻っていった。


 三時四十分。

 斜めから射す濃いオレンジ色の陽射しは強く、上着を脱いでTシャツ姿で輪になっているみんなを照らしていた。

 かのはみんなの顔を見つめて言った。

「これはテストじゃない。今日は、正しく踊ろうと考えなくてもいいよ。練習は嘘をつかないから、みんなは思い切り楽しく踊っていい。笑顔でいること。お互いの目を見ること。それだけ、忘れないで」

 話しているうちに、かのの目には、どんどんと力が漲ってくるようだった。

「みんな、一つになれる?」

 その言葉にぎこちなくうなずいたみんなを見て、かのは顔いっぱいに笑った。

「かのちゃん」

 ゆめが言った。

「ぎゅっ、てして」

 小さく叫ぶなり、ゆめは両手を広げてかのの胸に飛びついて行った。かのはゆめの軀(からだ)をしっかりと受け止め、ぽんぽんと背中を軽く叩いた。

 それを見て、さきあが、わたしもと言って続き、みく、ねお、さな、ここなが続いた。みきとみこも同じようにかのと抱き合い、つぐとももえは、戸惑い、恥ずかしがりながらも、みんなに倣った。

 子どもたちは、それでほっとするようだった。

 そよが最後だった。

 そよは、少し躊躇いながら、静かにかのの軀に手を伸ばした。

 肩と肩、胸と胸が触れ、かのの、ゆるやかに波打つ豊かな黒い髪が、そよの左の耳をそっと撫でた。花のような微かな香りを鼻腔に感じながら、そよは、かのの背中に回した両手に、少し力を入れた。

 かのの軀は熱かった。

 その温度はそよに刻まれて、かのが離れたあとも、いつまでも残るように思われた。

 体育館の中から、ありがとうございました、という声と、大きな拍手が聞こえた。

「よし、行こう」

 かのは、静かに言った。

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