二月

 長方形の頑丈そうなアルミの窓枠に囲まれたガラス窓から、西に傾いだ太陽の強い光が射しこみ、教室中に拡がって空気を心地よく温めていた。

 五時間目の教科は国語で、男性の国語の教師が教科書を開き、朗読をしていた。大昔の中国で勉学の才能を持ちながら詩人になる事を望んで出奔をする若者のことを描いた物語だったが、古めかしい文体は少し難しく感じられ、しかも、教師が落ち着いた低い声で規則正しく淡々と言葉を読み上げるので、そよはまどろみそうになるのを堪えて、時々教科書から目を上げ、左を見て窓の外を眺めたりしていた。


 十二月。近隣住民センターとはちまんさまの空き地で地域のバザーが開かれてから一ヶ月が経とうとしていた。住民センターの体育館の舞台で、さくらベースの子どもたちとその仲間の十二人は、ダンスを踊った。踊ったのはたった一曲であったが、二カ月近くの時間をかけて一つの曲を練習し、披露したのだった。

 そよは今でもよくその時のことを思い出すのだが、正直に言えば、舞台の上で踊っている時の記憶はあまりはっきりしていなかった。

 舞台に呼び込まれる前に、かのが一人一人の身体を抱きしめてくれた。それから、係の人に呼ばれ、みんなは裏手の出入り口を通って体育館の中に入った。みんなが踊る曲はアルバムには収められていなかったから、練習に使っていた映像のディスクを舞台袖のテレビに繋いだプレイヤーで再生して、音だけをスピーカーから流すという事になっていた。

 駅前のユニフォームショップで作ってもらったTシャツと貸衣装屋が用意してくれたお揃いのスカートを身に付け、艶やかに光る黒い革製のローファーを履いて、十二人は舞台に上がり、パイプ椅子を並べた客席に背中を向けて、それぞれの立ち位置に着いた。それは、かのとそよが作った冊子の一枚目に描かれた、十二色の円が示すそれぞれの始まりの位置だった。数秒か数十秒か分からないが、少しの時間が経って、聞き慣れた前奏の効果音がスピーカーから大きな音で流れ始めた。

 それから後のことを、そよは、ほとんどぼんやりとしか覚えていない。

 正しく踊るよりも楽しく踊ろう。そう強く思っていたことは確かだ。

 それは本番の直前にかのがみんなにかけてくれた言葉だった。だから、そよは振り付けの正確さや立ち位置について、練習の時のように色々と考え過ぎることなく、思い切って身体を動かすことができた。舞台の上での記憶があいまいなのは、それが理由なのかも知れなかった。

 自分が上手く踊れていたのかどうかも、そよにはよく分からなかった。

 踊っている時には誰ともぶつからなかったし、視界に入ってくる他の子たちの位置や角度は練習の時と変わらなかったようだから、きっと失敗はしなかったのだと思う。それほどのおぼつかない実感しか、そよは持っていなかった。

 はっきりと覚えていたのは、視線を上に向けた時に見えた体育館の殺風景な天井と薄ぼやけた蛍光灯の光り。立ち位置を移動する時に横を通り過ぎた子の髪の毛の匂い。それから、みんなでステップを踏む時に硬いゴムの靴底が舞台の床を打つ音。

 そういった断片的な瞬間の記憶は、その時のことを思い出そうとすると、まるで今ここでそれを体験しているかのように生々しく蘇ってきた。

 中でもそよの心にいちばん鮮やかに焼き付いていたのは、曲が終わりに近づいた頃、少し離れた場所にいたそよとかのの目が合った時に、かのがあのぎゅっと力を込めたような弾けるような笑い顔を見せてくれたことだった。


「それじゃあ、今度は皆さんに読んでもらいますね」

 国語の教師が、それまで朗読していたのとは違うしゃっきりとした大きな声で言ったので、そよは我に返った。男子生徒の一人が指名され、立ち上がり、教科書を顔の辺りに持ち上げてたどたどしく物語を読み上げ始めた。

 そよは静かに息を吐いて、また、そっと顔を左に向けた。

 左隣に座っているつぐは真剣な顔で教科書を見つめている。そよは、つぐの美しい横顔の向こうに見える窓に視線を移した。窓の外の校庭には乾いた風が吹き、ほとんど葉が落ちて寒そうな姿になったケヤキの木に鳥が何羽か飛んで来るのが見えた。


   §


 中学三年生にとって、十一月は受験に向けて忙しくなる時期だった。第五中学校では十一月の第三週に二学期の期末テストがあり、その後、月末近くには進路について本格的に話をする三者面談があった。かのが通っている第二中学校も、だいたい同じような時期にテストと面談がおこなわれた。

 そよと、つぐ、ももえがさくらベースを訪れることはバザーの前と比べてずっと少なくなったし、かのも、それ以前はテストが近い時にもできる限り顔を出していたのだが、やはり足を運ぶことがなかなか難しくなったようだった。そういうこともあって、十一月のさくらベースはどこか寂しいような閑散とした感じの日々が続いた。


 十一月の下旬、ベースの庭のレモンの木にたくさんの果実が生った。小さいラグビーボールのような形に太ったレモンの実は、はじめは濃い緑色だったが、十二月の最初の週には絵具で塗ったように鮮やかな黄色の果皮を纏い、今にも枝から落ちそうに揺れていた。金曜日の午前中、珍しく昼間からベースにいたソウヤさんが剪定鋏を持ち、脚立に乗って、びっくりするほどたくさんのレモンの実を収穫してくれた。二十キロ近くも獲れたレモンのうち、特に色と形の良い半分は普段お世話になっている農家や商店の人たちにおすそ分けされ、それでもまだ大人の両腕に二抱えほどもの量の果実が残った。そこから、少し小ぶりだったり色の悪いものは波子さんがシロップの材料にするし、まだ緑色が残るものは追熟させて、紅茶に入れたりお菓子作りに使ったりするのだということだった。

 翌日の土曜日に波子さんとベースの子どもたちでレモンのシロップ作りをすることになったので、その夜に、みくがみきの家に電話をかけて、みきを誘った。ダンスの練習が始まったばかりの頃、みくがシロップの仕込みを「一緒にやろう」と、みきに言ったことがあった。その時は口約束に過ぎなかったのだが、バザーの本番が終わってからは大勢で集まる機会がなかったし、みくは新しくできた友達をベースに呼べる理由が欲しかったらしく、あらためてみきを誘ったのだった。

 誘いを受けて、みきは喜んだようだった。

「本当に?ありがとう!みこも連れて行っていいかな」

 受話器の向こうで、みきは弾むような声で嬉しそうに言った。


 土曜日の午後、みきとみこは連れ立ってさくらベースにやって来た。

 二人はダンスの練習の期間には連絡先を交換し合い、バザーが終わった後も何度か連絡を取り合ったりしていた。みこは二つ先の駅から電車でK市まで来て、ターミナルからバスに乗る。みきはいつも使っている停留所からバスに乗り、二人でベースの最寄りのバス停で待ち合わせをして、歩いてきたということだった。

 みくとみき、みこ、それにねお、ゆめ、さきあの六人で台所と食事場のテーブルを使い、果実を一つ一つ手で洗って、皮の茶色い部分を削ったり輪切りにしたり、切ったレモンの果実を熱湯で消毒された大きなガラスの瓶に入れたりした。

「去年作った時よりも大きな瓶に替えたのよ。たくさん作らないと、出来上がったら、あなたたち、あっという間に飲んでしまうでしょう」と、波子さんは言った。

 大きなガラス瓶は二つあり、片方には氷砂糖が、もう片方には茶色い三温糖がレモンの果実が見えなくなるくらいにたっぷりと注がれ、プラスチックの赤い蓋でしっかりと封がされた。


 作業が終わり六人でおやつを食べていると、さなとここなが食事場に現れた。それで、八人はおやつの後に、みんなで遊技場へと向かった。

 ベースの子どもたちは相変わらず自由時間やご飯の後などに遊技場に遊びに行っていたのだが、ダンスの本番が終わり、かのたちが訪れることが少なくなってからは、遊技場はどことなく活気を失ってしまったような感じがしていた。さな、ここな、みく、ねお、ゆめ、さきあの六人は遊技場の入り口で下駄箱に置いてある上履きに履き替え、みきとみこは母屋から持って来たスリッパを履いて遊技場の中に入った。

「あれ、この靴」

 みきが、下駄箱に置いてある黒いスニーカーを見つけて言った。

「うん、かのちゃんの靴。毎日のように来ていたから、もうずっと置きっぱなしにしてあるの」

 ゆめが答えた。

「かのちゃん、最近はあまり来ていないの?」

 みきは少し心配するような顔でゆめを見た。

 ゆめはうなずき、「平日に一日と日曜日に短い時間来るくらいかな」と、不満そうに曇った声で答えた。

「学校が忙しいって言っていたし、土曜日は何か塾に通い始めたみたい。火曜日のダンススクールには毎週来ているよ」みこが、庇うような調子で言った。

「そよちゃんたちもここひと月くらいは学校が忙しいみたいだし、仕方ないよ」

 みくは寂しげな笑顔を浮かべ、自分に言い聞かせるように言った。

 遊技場には、ダンスの練習の為に書斎から持ち込んだテレビが、練習の時と同じように姿見鏡の横の壁際に寄せるようにして置いたままになっていた。下駄箱のスニーカーと壁際に寄せられたテレビは、遊技場が賑やかだった時を思い出させ、余計に寂しさを際立たせるようだった。

「テレビも、ソウヤさんに頼んで書斎に戻してもらわないとね」

 ここなが両手を腰について、ため息を吐き出すように呟いた。


   §


 十二月第二週の土曜日、つぐは久しぶりにさくらベースを訪ねた。

 テストと面談が終わり少し時間に余裕ができていたが、土曜日はももえが母親と一緒に家事をしたり出かけたりすることが多くなり、その日もつぐは一人だった。

 朝からよく晴れ、小さく千切れて高いところに漂う雲の間から鮮やかな青色の空が顔をのぞかせるような日だった。つぐはカーキ色の軽い羽毛のジャケットを着てマフラーを巻き、灰色のウールのズボンに黒い編み上げのスニーカーを履いて外に出た。陽の当たる場所はぽかぽかと暖かいが、時々風が強く吹いて、建物などの陰に入ると急に身体が冷たくなるように感じた。


 午後一時過ぎにさくらベースに着いたが、母屋はしんと静まり返っていたし、庭にも誰も出ていないようだったので、つぐはそのまま遊技場の方へと歩いた。

 遊技場の隣に立っている桜の木のところに、さきあがいた。

 さきあは動物の柄が編まれた白いセーターを着て濃い藍色のジーンズを穿き、つぐの方に背中を向けて、桜の太い枝からぶら下がっている古い手作りのブランコを手で揺すっていた。ブランコはずっと昔に波子さんの父親がロープと木の板で作ったもので、今はもう古くなり、色も黒ずんでしまっているし、座板も小さいので、ベースの子どもたちが乗って遊ぶことはできなかったが、それでも色々な思い出があるのか、取り外されるということもなくずっとそこにぶら下がっていた。

「さきあちゃん、何してるの」

 つぐは桜の木に近づき、さきあに声をかけた。

「あっ、つぐちゃん」

 さきあは、驚いたように振り返って言った。

「どうしたの?みんなは?」

「ゆめちゃんはお買い物。ここなちゃんとさなちゃんはセンターの図書館に行った。みくちゃんとねおちゃんは、お勉強をしているから、邪魔したら悪いかなって」

「そうなんだ。それで、一人で遊んでるの?」

 さきあは、こくりとうなずいた。

「つぐちゃん、あのね、わたしね」

 さきあは二歩三歩とつぐが立っている場所に歩み寄り、左手の人差し指を自分のあごに当て、大きな目でつぐを見上げた。

「わたし、退屈してるのよ」

 さきあの表情は、まるで、つぐに真剣な相談ごとをしているようだった。

「退屈してるのか」

 つぐは少し可笑しそうに微笑んで言った。

「じゃあ、一緒に遊ぶ?」

「お散歩に行きたい」さきあはきっぱりとした口調で答えた。

「つぐちゃんが通っている中学校に連れて行って」

「えっ?」つぐは、大きな声を出した。

 中学校までは、そよの家の近くまでバスに乗り、そこから歩いて行けば都合四十分ほどで着くはずだったが、さくらベースの中でもいちばん年少のさきあを連れて歩いて良いものか、つぐには判断がつかなかった。

「それじゃあさ、さきあちゃん、波子さんに聞いてきなよ。それで大丈夫だったら、コートを着て準備をして、戻っておいで」

 つぐが言うと、さきあは「わかった」とうなずき、母屋の方へ走って行った。

 しばらくしてさきあは、中綿が入った黒いナイロンのジャンパーを着て、水色のマフラーを巻き、小さなポシェットを肩から掛けて戻って来た。ポシェットの中にはハンカチとポケットティッシュ、刺繍の入った布製のがま口、そして大切にしているフェルトの雪だるまが入っていた。

「大丈夫だった?」

「うん。波子さん、つぐちゃんが一緒だったら心配いらないでしょう、って」

「そうか。それじゃあ、行こうか」

 つぐはさきあに笑いかけ、二人は歩き出した。


 ベースにいちばん近い停留所で二人は駅に向かう方向のバスに乗り込んだ。

 車内で、さきあはしきりにつぐに話しかけていた。ゆめと一緒にかよっている小学校でのこと。勉強や、友達と休み時間にするボール遊びのこと、クラスで流行っている文房具やゲームのこと、独りでに鳴る音楽室のオルガンや、ずっと開かないトイレの扉の話、それから、好きな給食の献立の話。

 さきあはつぐよりもかなり背が低いので、立っていても座っていても、つぐに対する時は常に上を見上げるような姿勢になる。話している時、さきあの顔つきや仕草はいかにも子供らしい無邪気さに満ちていたが、つぐをじっと見つめる黒い大きな瞳は、思っていることをぜんぶ伝えようという強い意志が溢れ出すように、真っ直ぐに輝くのだった。

 バスは田んぼと畑の風景を縫うように走り、蔵と商家の旧街道に入って、またしばらく田舎道を走った後、広い幹線道路を渡って、住宅街のバス停にたどり着いた。二人はバスを降り、並んで歩き始めた。つぐは足早になり過ぎないように気を付けながら、さきあの手を引いて歩いた。

 ここを曲がると、そよの家。この道をそっちに行くと、ももえの家。

 分かれ道でつぐが説明をするたび、さきあは興味深そうにうなずき、つぐの顔を見上げた。

 バス停から十分ほど歩くと、つぐの住む集合住宅が見えた。

「ここがわたしの家。この公園でももえと待ち合わせして、学校に行ってるんだよ」

 つぐは右手で集合住宅の敷地に隣接する小さな公園の方を指さした。

「つぐちゃんとももえちゃん、仲良しよね」

 さきあは呟いたが、ことさらに気を遣ったりつぐを喜ばせるつもりもない様子で、その口調はそれが決まりきったごく当然のことであるといった風だった。

 つぐはほんの少しの間考えてから、さきあの目を見て言った。

「仲良しなのかな。わたしは仲良しだったらいいなと思っているけど、ももえはどう思っているかな」

 さきあは不思議そうな顔をしてつぐの目を見つめ返していた。


 公園の前を通り過ぎて更に住宅街を歩き、道路の左側にレンガ模様の石壁に囲まれた大きな古い家が現れると、そこから下り坂が始まる。古い家は、中学校の生徒たちが『洋館』と呼ぶいわくつきの家だった。

「怖いうわさがあるんだよ。頭がおかしくなってしまった人が住んでいて、庭の栗の木から実を盗もうとする子がいると、さらって家の中に閉じ込めてしまうんだって」

 つぐはさきあを怖がらせるような低い声で言ったが、それが特に深い理由もなく語られ始め、いつの間にか子どもたちの間に広まってしまった類いの作り話であるということは、もちろん分かっていた。

 洋館は四方を石壁(背が高く、それは塀というよりも壁という表現が相応しかった)に囲まれていて、二人が歩いている歩道からは、庭に生い茂る樹々の枝葉と青い西洋瓦の三角屋根しか見えない。こげ茶とかわらけ色のレンガ模様の石壁はまるで何百年も前からそこにあるような雰囲気だったし、上の部分には所々にねじ曲がった有刺鉄線が張られていて、どこか人を拒むようなその外観が、子どもたちにそんな噂話を作らせたのかも知れなかった。

 さきあは、つぐに手を引かれて歩きながら、斜め上を見上げるように振り返り、挑むような目つきで洋館を見ていた。


 下り坂と平坦な道が繰り返す通学路から広い通りの横断歩道を渡ると、その先の右側に、つぐたちの通う中学校があった。車輪の付いた鉄製の校門は左右に寄せて開かれていて、敷地に入るとコンクリートの平板で舗装された通路が伸び、左は校庭で、野球やサッカーのボールが外に飛んで行くのを防ぐ為のネットが高くまで張られている。右手は駐車場、その先に武道場と体育館が並んで建ち、真っ直ぐ歩いて行くと四階建ての校舎の右端にぶつかって、通路はそのまま校舎に沿って左に折れていた。

 つぐとさきあは校庭の様子を眺めながら通路を歩いた。敷地は自由に歩き回れたが、校舎の中にまで入ることはできないし、校庭では陸上競技や球技の部活動がおこなわれていたから、二人で入って行くことはできそうになく、結局、つぐが昇降口や自分たちの教室の窓の位置、今は寒々しく枯れ葉が浮かぶプールや、砂を混ぜた人工芝のテニスコート、裏手にある錆びた大きな焼却炉などを紹介しながら校舎の外周をぐるりと歩いて回っただけで、二人の探索は終わってしまった。

「つぐちゃん、ありがとう」

 さきあは言ったが、その顔には少し物足りないような表情が浮かんでいた。

 二人は学校の敷地を出て、歩いてすぐの場所にあるコンビニエンスストアに立ち寄り、そこで温かいお茶を二つと、レジの横のスチーマーの中に並んでいる中華まんを一つ買って、店の外のベンチに腰掛けて休憩をした。

「熱いから、やけどしないように気を付けて食べな」

 つぐは中華まんを注意深く半分に割って、包み紙にくるまれた少し大きい方をさきあに差し出した。時刻はまだ午後三時を回った頃だったが、空気は少し湿って冷たくなってきていた。

「寒くなる前に帰ろうか?」

 つぐの言葉にさきあは素直にうなずき、休憩が終わると二人はベンチから立ちあがって、バス停に向かって歩き始めた。


 ついさっき歩いて来た道を戻っていると、洋館の前でさきあが立ち止まった。さきあはレンガ模様の石壁の上に視線をやり、実際には見えない洋館の庭を覗き込もうとするように背伸びをした。

「どうしたの?」と、つぐが尋ねた。

「なにか音が聞こえた」

 さきあは石壁をじっと見ながら言った。

「悪い人がいるんじゃないかしら」

 そして、壁づたいに早足で歩き始めた。

 つぐは慌てた。もちろん、そこには子どもをさらう悪い人などいない。住人の姿を見たことはないが、きっと少し浮世離れした気難しい夫婦などが住んでいるだけに違いないのだ。

 つぐは、さきあを追いかけた。

 二人は石壁に沿って歩き、折れている角を右に曲がって、狭い路地に入った。壁はその先でコの字にへこんでおり、そこが敷地への入り口となっていて、蔦のような装飾で青銅風の塗装が施された格子の門が建っていた。

「誰もいないよ。行こう」

 つぐはなだめるような声で言ったが、さきあは両手で格子を掴み、挑むような目つきで前を見つめて動こうとしなかった。つぐはさきあの後ろに立ち、さきあの肩にそっと手を置いて、同じように格子の間から洋館を見た。

 門からは真っ直ぐに石畳が敷かれ、正面に家の全景が見えていた。漆喰か何かで塗られた白い壁の間から、焦げ茶色のがっしりとした木の柱や梁が見え隠れしていて、青い西洋瓦の三角屋根には煙突が立っている。石畳の先、数段の階段を上ったところに玄関があり、黒い鉄の引手が付いた木製の扉は重そうに閉ざされていた。

 通学路の方に面した壁側には目隠しの庭木が何本も立っていて、そこだけを見ればどことなく鬱蒼とした暗い雰囲気があったが、庭の芝生は綺麗に刈り込まれていたし、手入れの行き届いた花壇やハーブの菜園もあり、絵画的な館の姿も含めて、石壁の内側のその場所には、忌まわしい感じを与えるようなものは何も無かった。


「さきあちゃん、行こう」

 そう言ってつぐがさきあの上着の袖を軽く引っ張った時、さきあの左手に握られていた格子の門が軋むような音を立ててほんの少し開いた。門には閂(かんぬき)が掛けられていないようだった。

 止める暇もなく、さきあは小さな身体を門が開いた隙間に滑り込ませた。つぐは驚いてさきあを追い、門を開けて自分も敷地の中に入った。そして石畳に足をかけてすぐに、右の壁際の大きなニレの木の下で身を屈めている年老いた婦人の姿に気付いた。

 怒られる、と、つぐは思った。

 さきあは身体を強張らせるように肩幅くらいに足を開いて立ち、両手を握りしめながら老婦人のことを見つめていた。婦人もまたこちらに気付き、小さな熊手とちりとりを手に持ったまま、きょとんとしたような顔でつぐとさきあを見ていた。

「ごめんなさい、すぐに出て行きます」

 つぐは頭を下げ、さきあの手を引いてその場を立ち去ろうとした。

「あなたたち」と、婦人は言って、二人に近づいて来た。

 婦人はベージュのカーディガンに長いツイードのスカートで、ラベンダーのような美しい色のショールを肩にかけていた。柔らかそうな毛糸の帽子を頭にちょこんと乗せ、耳の後ろからふわふわとした灰色の髪の毛が首筋を覆うようにはみ出ている。

 婦人は、さきあとつぐの顔を交互に見た。ちょうどつぐの祖母くらいの年齢で、肌にはたくさんの皺が刻まれているが、色白で目鼻立ちが整った上品な顔つきで、優しげな視線を二人に投げかけていた。どうやら婦人は怒ってはいないようだった。

「ちょっと寄っていらっしゃい」

 婦人は柔らかい声で言って、石畳を歩き始めた。

 つぐは戸惑ったが、さきあが躊躇なく婦人の後に付いて行ったので、仕方なく二人と同じように、石畳の上を洋館に向かって歩き始めた。


 二人が招き入れられたのは、玄関の左側、庭に面する広いデッキの上に設けられたガラス張りのソラリウムだった。

 ひっくり返した古い木箱を階段代わりにして側面からデッキに登り、ガラスの折戸を開けて中に入ると、そこにはポインセチアやキンセンカ、サザンカなどの鉢植えが並び、強い西日を水しぶきのように浴びて無数の色がきらきらと輝いているようだった。分厚いガラスが吹いてくる風をしっかりと遮っていたから、内側はコートを脱がなければ汗ばんでしまうほどに暖かかった。

 ウッドデッキの中央には古めかしい姿の青銅色の猫脚のテーブルがあり、天板には白い陶器のティーポットが乗せてあった。婦人は、さきあとつぐを堅牢な木造りの、クッションが乗せられた椅子に座るように促し、カミツレのお茶を淹れ、たくさんのチョコレートやクッキーがはいった菓子鉢を勧めてくれた。

 さきあは婦人から渡されたお手拭きで手をぬぐい、勧められるままに菓子鉢からボンボンチョコレートやイチゴジャムを乗せたクッキー、綿のようなメレンゲ菓子などを手に取り、口に運んだ。婦人は家の中から小さなスツールを持って来て腰を掛け、その様子を少し面食らったように目を丸くして、にこにこと笑いながら見ていた。

 つぐは、まだ戸惑いが消えないまま、青い蘭の花が描かれたティーカップに口を付けてカミツレのお茶を飲んだ。老婦人がなぜ自分たちを家に招き入れ、お茶を出してくれているのか、つぐには分からなかった。

「なぜ、庭を覗いていたの?」

 一生懸命にお菓子を食べているさきあに向かって、老婦人が尋ねた。

「それはですね」

 さきあは食べようとしていたチョコレートを紙に包みなおして、手元に置いた。

「悪い人がいるって、聞いたんです。あの、わたしも、本当の話じゃないと思ったんですけど。通り過ぎる時に、壁の向こうから音がしたので。念のため、ですね」

 つぐは、さきあの無理やりに丁寧な言葉遣いが少し可笑しくて、微笑んだ。

「外から見たら、気味が悪いものねえ」

 婦人もまた、目を糸のように細くして笑っていた。

「こういう古い家に独りで住んでいるとね、自然と噂が立つものなのよ」

 そう言って、婦人はさきあの大きな目を真っ直ぐに見つめた。

「以前は両親と夫が居たけれど、みんな亡くなってしまって、今はわたし独り。でも、この家は四人で住んでいた時のことを覚えているでしょう?そうすると、寂しさが石壁を伝わって外に漏れるの。子どもたちはそれを感じ取るのね」

 不思議な言い回しをする人だと、つぐは思った。

「あなたたちみたいに家の様子を確かめようとする子は、たまにいるのよ。でも、べつだん変わったところがない、ふつうのおばあちゃんが住んでいるだけだと分かると、がっかりして帰って行くの。それで、その子たちはもう噂話はしなくなるし、この家のことは忘れていってしまう」

 婦人は少し寂しそうな表情で言った。

 つぐは、面白半分でさきあに洋館の噂話をしたことを、後ろめたく感じていた。

「あの、わたし」

 さきあが、重ねた両手を胸に当てるような仕草をしながら、大きな声で言った。

「わたしのおばあちゃんのこと、大好きなんです。すごく優しくしてくれるし、お料理が上手だし、お掃除もとっても上手。それから」そう言いながら、さきあはポシェットの口を開けて、フェルトの雪だるまを取り出した。

「ぬいぐるみを作るのも、得意なの。だから、おばあちゃんのことが大好きなんです。でも今は病院に入っちゃっているから、なかなか会えなくて、だから、今日このおうちに遊びに来られて、とても嬉しかったです。ありがとうございました。あと」

 さきあは真剣な顔つきで言葉を継いだ。

「勝手にお庭に入ってしまって、すみませんでした」

 そう言って、さきあはぺこりと頭を下げた。

 婦人とつぐは、その姿を見て、顔を見合わせて笑った。


 それからしばらくお茶をご馳走になって、四時前に二人は帰ることにした。

 帰り際に婦人は、これを持って行ってと、大きなデパートの紙袋をつぐに渡してくれた。紙袋の中には手編みのマフラーや帽子、ミトンの手袋などがたくさん入っていた。

「こんなに、もらえません」

 つぐは困惑したように言った。

「いいのよ」婦人は、紙袋をつぐの胸に押し付けるようにした。

「時間ばかり嫌というほどあるから、どうしても編み物をしてしまうのよ。使ってくれる人がいると嬉しいから、〝みんな〟に持って行ってあげて」

「えっ?」

 婦人はいたずらを隠すように笑い、つぐとさきあの顔を見た。

「バザーで踊っていたでしょう?あなたたち」

 つぐとさきあは驚き、ぽかんとしてしまった。

「わたしの兄があの地区で農業をやっていて、わたしも十一月のバザーに遊びに行ったの。体育館のステージで見た女の子たちの踊りが、とても印象に残っていてね。特に」と、婦人はさきあの方を見た、「あなた。いちばん身体が小さいのに、手足は長いし、踊りがとても力強くて、一目見ただけで忘れられないくらいだったのよ」

 二人は何か詐欺にでもあったような顔をして、婦人の話を聞いていた。

「わたし、踊りのことはよく分からないけれど、あなたたちが舞台の上でにこにこしながら、手をぐるぐる回したり、跳び回ったりしているのを見て、すごく元気が出たの。さっき、庭に立っているあなたたちを見た時には、びっくりしたしとても嬉しかった。偶然だけれど、なんだか示し合わせたような、わたしにとっては久しぶりの幸運だったのね。だからこれはそのお礼。みんなに持って行って。そして」

 大きな紙袋はもう一度念を押すように、つぐの胸に優しく押し付けられた。

「あの踊りがとても素敵だったということを伝えてね。お願い」

 

 婦人はつぐとさきあに向かって、時間があったらまた遊びにいらっしゃい、と言ってくれた。二人はうなずき、別れを告げて洋館の敷地を出た。

 帰りのバスの中で、さきあは紙袋を抱えるように膝の上に乗せ、嬉しそうだった。

「つぐちゃん、わたし、上手に踊れたのかな?」

 さきあはにこにこと笑い、大きな目を少し濡れたように光らせながら、つぐの顔を見上げていた。


   §


 みきとみこは頻繁にさくらベースに顔を出すようになっていた。

 みこは住んでいる場所が遠かったので主に土曜日と日曜日に、みきは週末と習い事がない平日にも何日かベースを訪れ、勉強部屋で宿題を一緒にすることもあったし、ほとんどの場合はみんなで遊技場に行って遊んだ。

 書斎に戻そうと言っていたテレビは結局そのままになっていたし、十二人の少女たちのアルバムと映像のディスクも(かのが家に持って帰ることはなく)遊技場に置いたままだったので、子どもたちは遊技場に行くたびにダンスの映像を観ながら踊って遊んだり、みんなで口々に歌を歌ったりもした。

それは長く続いた練習の時間を懐かしんでいるかのようでもあり、以前までの日課に近いことをどうにかして保とうとしているかのようでもあった。集まる面々は以前とは少し違っていたが、遊技場には以前のとおりの活気と、子どもたちの歓声が戻ってきていた。

 十二月の日々は、そうやって過ぎて行った。


 学校は冬休みに入り、クリスマスが過ぎて、大晦日の前日にさくらベースで餅つきがおこなわれた。近所の農家や商店の人たちを招き、波子さんの弟と母親も加わって庭で賑やかに餅をつくのだが、ずっと以前に波子さんの父親が始めて、今では冬の恒例行事のようになっていた。波子さんの弟と母親は、母親が病を患って以来、ベースから少し離れた弟の家で暮らしていたので、年末の餅つきは、母親がさくらベースを訪れる数少ない機会の一つだった。

 二人は餅つきの前の晩に自動車でやって来た。母親は波子さんの弟に手を引かれて歩いていたが、それでも肌の色はよく、元気そうに見えた。子どもたちの夜ごはんはもう終わった時間で、波子さんと母親は台所で長い時間をかけてあずきを炊いたり、翌日のためにお皿や蒸し器、めん棒などを準備した。もち米は夜のうちに水を吸わせておかなければいけなかったので、あずきの鍋を火にかけている間に波子さんが何回かに分けて研いだ。スーパーマーケットで買ってきたものに加えて、ベースの子どもたちが稲刈りで刈ったもち米も、この餅つきで使われることになっていた。

 みんなが田んぼで刈り取ったもち米は、脱穀され、茶色い丈夫な紙袋に詰め込まれて、十月の終わりにベースに届いた。それからずっと梅干しの瓶や砂糖の袋と並んで食材の棚に収まっていたが、袋を取り出して口を開けると、出番を待ちわびていたかのように黄色がかった乳白色の粒を輝かせていた。

 波子さんの弟とソウヤさんが協力して二階の納戸から二本の杵を階下に降ろし、勝手口の物置から臼を転がして持って来て、玄関のたたきに置いた。臼のへこんだ部分に水をため、杵の頭をそこに浸しておくのだということだった。それから二人は食事場のテーブルについて、お酒を飲みながら色々なことを話し始めた。途中で母親がそこに加わり(お酒は飲まなかったが)、用事が落ち着くと波子さんも椅子に座った。

 母屋に夜遅くまで大人たちの話し声が聞こえるのは珍しいことだった。

 年末だったので、みくとさきあはそれぞれの家に帰っていたが、ねお、ゆめ、それに泊まりに来ていたここなとさなは、勉強部屋でテレビを観ている合間に食事場を覗きに行ったり、お風呂上りにわざと冷たいお茶を取りに行ったりして、家の中に流れるどこか特別な空気に胸をそわそわさせているようだった。

 大人たちのお喋りは、みんなが寝る時間になってもまだ続いていた。


 翌日は朝からどんよりと曇り、空気が湿って冷え込んだ。天気予報で、夕方から天気が崩れて雪になるだろうと伝えられていたので、波子さんとソウヤさんが相談して餅つきは午後三時くらいまでで切り上げようということになった。

 九時頃から、近所の人たちが集まり始めた。庭のレンガを積んだかまどに薪が炊かれ、蒸かし器とたっぷり水を吸わせたもち米が運ばれてきた。十時前にそよ、みき、みこがベースに到着し、十時半頃にかのがやって来た時には、もう最初の餅つきが始まろうとしていた。

 かまどの火で蒸かされたもち米は粘りつくような甘く香ばしい匂いで、一粒ずつが艶やかな光を放ち、溢れ出す水分で一つの丸い大きな塊のようになって、臼のへこみへと移された。波子さんの弟と農家の若い男性がおおまかに粒をならした後、杵を大きく振り上げて、掛け声とともに勢いよく降ろす。ソウヤさんにひっくり返してもらいながら、二人は二本の杵で手際よく餅を搗いていった。

 搗き上がった餅は表面を水で濡らし、大きなまな板に乗せて、すぐに台所へと運ばれた。台所では波子さんと子どもたちが待っていて、運ばれた餅を手で一口大にちぎり、まな板の上に並べ、それから味付けをした。台所の大きな鍋の中には昨日の夜に波子さんと母親が炊いたあずきがたっぷりと入っていたし、ボウルにはしょうゆを絡めた大根おろし、納豆、白砂糖と混ぜ合わせたきな粉がそれぞれ入っていた。小さくなった餅はそのままボウルに投げ入れられ、味付けされて皿に盛られたり、二つ三つずつお椀に入れられて、上から甘く煮たあずきがかけられた。

 配膳盆に乗せられ、広縁に運ばれた餅は、波子さんの母親が、手伝いに来てくれた人たちに振る舞った。もちろん子どもたちも集まってきて、搗きたてで温かく、頼りないほどに柔らかい餅を、あれやこれやと騒ぎ立てながら口に運んだ。

 広い庭に大人と子どもの楽しそうな声が混じり合い、上空へ舞い上がって、重たい灰色の冬空に吸い込まれていくようだった。


 ゆめ、ここな、さなとそよは主に台所で、かの、みきとみこは庭で色々な手伝いをしていたが、その日、ねおは朝から熱を出してしまい、餅つきに参加することができなかった。

 二階の部屋の一つに布団が敷かれ、ねおは薬を飲んでそこに臥せっていた。ねおは翌日の大晦日の午前中に新幹線に乗って家に帰る予定だった。波子さんは、身体の不調が長引かないようにちゃんと休んでいなさい、と、ねおに言った。

「残念だけど、今日はみんなと居るのを我慢して大人しく寝ていなさい。明日、お母さんに元気な顔を見せてあげなくちゃ」

 波子さんは優しい口調でねおを諭した。

 午前中からずっと、波子さんとそよが代わるがわる二階の部屋に足を運んで薬や水分を持って行き、ねおの熱を測ったり氷嚢を取り替えたり、石油ストーブの様子を見たりしていた。

 波子さんとソウヤさんが朝に相談していたとおり、餅つきは午後三時少し前に終わり、残った餅には粉が打たれ、めん棒でのされて、切り餅として農家や商店の人たちにお礼の言葉と共に手渡された。

 四時過ぎにはみき、みこ、かのが家に帰って行った。特に、かのは自転車で帰らなければいけなかったので、天気が悪くなる前に帰る方がいいとみんなから強く言われていた。

 庭はすっかり片付けられ、色々なものが台所に運び込まれて、波子さんとゆめ、ここな、さな、そしてそよが、洗いものをしたり道具をしまったりしていた。

「そよちゃん」

食器棚にお椀を片付けていたそよに、波子さんが言った。

「ねおの様子をまた見て来てもらってもいい?お昼もほとんど食べていないの。わたしは急いでここを片付けてしまうから」

 そよはうなずいた。

 そよは、冷蔵庫の中から林檎を一つ取って、それを半分食べやすい大きさに切って皿に盛り、スポーツドリンクのペットボトルと一緒にお盆に乗せて階段を上った。

 二階の書斎の隣の六畳の部屋に、ねおは寝ていた。襖の前で声をかけたが返事がなかったので、そよはそのまま襖を開けて部屋に入った。

 畳の上に敷かれた布団に埋もれるようにして、ねおの小さな顔が見えた。ねおは深く眠っていたが、熱はまだ残っているようだった。顔はほんのり赤く上気して、時々、呼吸が苦しそうに浮き沈みをした。

 そよは持って来たお盆を傍らの小さな食膳の上に置き、座布団に座った。無理やり起こすのは可哀そうな気がして、そよは両膝を腕で抱えた格好で座りながら、ねおの寝顔を見つめていた。夕方五時を過ぎて弱い雨が降り始めていたが、窓に付いている木の雨戸は閉められていたし、階下で子どもたちが騒ぐ声も遠くに聞こえるようで、煩くはなかった。

 石油ストーブがぼんやりと部屋を暖め、天板に置かれたやかんの内側でお湯が静かに跳ねて、どこか心地よいようなリズムを刻んだ。大きな母屋の建物の中で、その部屋だけが他の場所と時間の流れが違っているように、そよには感じられた。


 昼間の疲れもあり、そよは座ったまましばらくうとうとしていたようだった。

 気が付くとねおが顔をこちらに向けて、薄っすらと目を開いていた。

「そよちゃん」

 ねおは言った。少し鼻にかかった、高い甘やかな声だった。

「疲れたの?大丈夫?」

 そよは、慌てて手を横に振った。

「大丈夫。ごめんね。ねおちゃん具合が悪いのに、心配させるなんてわたし駄目だね」

「そんなことないよ。せっかくのお餅つきだったのに何度もお部屋に来てくれて、こっちこそごめんね。どうだった?みんな楽しそうだった?」

「うん。楽しそうだったし、お餅もたくさん食べてたよ」

 そう言いながらそよは食膳の上にあった体温計を取って、ねおの体温を測った。熱はそれでも昼間に比べればゆるやかに下がって来ているようだった。そよはタオルでねおの身体の汗を拭き、額に冷たい湿布を貼った。

「お昼、ちゃんと食べてないんでしょ?林檎を切って来たから、食べてね」

 そよはねおが寝ている枕元の方に食膳を引き寄せ、林檎を乗せた皿をねおに渡した。

「ありがとう。そよちゃんが切ってくれたの?」

 ねおは嬉しそうに言って、半身を起こした。

 林檎はもう表面が乾いてしまっていたが、ねおはそれをいかにも美味しそうに頬張った。そして、四切れの林檎を食べ終えると、スポーツドリンクを少しずつ飲みながら、そよに餅つきのことをぽつりぽつりと尋ね始めた。そよはそのたびに、子どもたちや近所の人たちの様子を、微笑みながらねおに話して聞かせていた。


 そよの話を聞いていたねおが、急に目をつむって耳を澄ますような仕草をした。

「どうしたの?」

 そよは不思議そうな顔をして、ねおに尋ねた。

「雪になったね」

 ねおは言った。

「えっ、本当に?」

 そよは立ち上がり、窓と雨戸を少しだけ開けて外の様子を確かめた。外はもう真っ暗になっていて、ねおが言ったとおり、いつの間にか雨が雪になっていた。

「どうしてわかったの?」

「だって、雪が降っている音がしたもの」

「嘘。音なんかしないでしょう?」

 からかわれていると思い、そよは少し苦笑いをした。

「そよちゃん、知らないの?」

 ねおは、布団にもぐりこむように横になり、わざと少し意地悪そうな口調で言った。

「雪が降り始めると外の音が毛布でくるまれたみたいに聞こえてくるのよ。それが雪の音」

 ねおはそよの方を見て笑った。睫毛の長い綺麗な瞳の目が繊月のように細くなり、優しそうな顔がさらにほころぶような微笑みだった。

「わたしの生まれたところでは、たくさん雪が降るのよ。山ではないから、湿った重い雪がどさどさ落ちてくるという感じで、たくさん降るの。十二月の終わりの頃には雪で公園のシーソーが埋まってしまうし、わたしがまだ小さかった頃には、すべり台の上の方まで積もっちゃったこともあるくらい。小学校までの通学路は、歩道の端に寄せられた雪をみんなが踏み固めるから、堤防みたいに少し高くなって、みんなそこから落ちないように歩いて、学校まで行くの」

 ねおは布団を肩までかけて、天井を見上げながら楽しそうに話を続けた。

「車が走る道路は真ん中に水が出る穴が開いていて、そこから、公園の水飲み場みたいに、水が吹き出ているの。それで少しくらいの雪なら溶かすことができるけれど、それでも間に合わない時には除雪車がおおきな音を立てて走ることもあるのよ。わたしのおうちの周りは、道路が赤錆みたいな不思議な色をしているから、そよちゃんにもいつか見せてあげたいな」

 そよはうなずきながらねおの話に耳を傾けていた。

「冬は寒いし、雪がたくさん降るけれど、わたしは好き。雪合戦も、かまくらを作るのも楽しいし、夜にお庭に積もった雪にみかんを投げて、次の日の朝にそれを食べると、中が凍っていてとっても美味しいし、ストーブの上で干し芋やするめいかを焼いて食べるのも好き。クリスマスの夜は近くの小さな教会まで歩いて行って、劇を観たり歌を歌ったりして、そのあとお菓子やケーキがたくさん乗っている、長いテーブルについて、みんなでそれを食べるの。そよちゃん、見たことある?クリスマスのケーキには、真っ白なクリームに、銀色の小さい宝石みたいなお砂糖が、たくさんかかってるんだよ」

 ねおは、話しながらまた次の言葉がとめどなく溢れてくる様子だった。冬の好きなことを話し終えると、春、そして夏の好きなことについて、一つ一つ、そよに教えるように話した。雪解け水が勢いよく流れる水路。水が張られた田んぼに現れるおたまじゃくし。公園に段ボールで手作りされたお化け屋敷。屋内プールの帰り道に買うアイスクリーム。井戸水で冷やしたトマトや桃。土手に寝ころびながら見上げた大きな打ち上げ花火…。

 そよは、ふと、不思議に思った。

「ねおちゃん、ふるさとが大好きなんだね」

「うん。それはそうだよ」ねおは、そよの方に顔を向けて言った。

「おうちに帰りたいって思うこと、ない?」

 ねおの表情は、少し硬くなったようだった。

 ねおは束の間沈黙し、それから、心細いような、逡巡するような声で言った。

「そよちゃん。わたしね、名字が変わったの」

 そよは、あっ、と思った。

 自分が軽い気持ちで口にした言葉を、浅はかだった、と思った。

「そよちゃん、わたし…」

「ごめんね、ねおちゃん。いいの」

 ねおが躊躇いながら話そうとするのをそよは遮って言った、「自分のことは話さなくていいよ。わたしはねおちゃんのこと、分かるから。みんなもきっとそうだから」

 そう言いながら、そよは、ずっと前に誰かが自分にかけてくれた言葉を、ねおに向かって言っている、と思っていた。

「ありがとう」とだけ、ねおは言った。ねおは話し疲れたようだった。

「また後で来るから、ゆっくり休んでいてね。明日、ちゃんと元気になって、お母さんに会いに行くんだよ?」

 そよが布団の上から優しくぽんぽんとねおの身体を叩くと、ねおは安心したように何度かうなずいた。

「さくら寮に来てくれてありがとう。そよちゃん」

 聞こえるか聞こえないかの小さな声でそう言って、ねおは目を閉じた。

 その日、夜半まで降り続いた雪は地面に落ちては溶け、積もることはなかった。

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