床に置かれたCDプレイヤーから音楽が鳴り出すと、子どもたちは思い思いにおしゃべりをしたり、遊んだりし始めた。

「そよ」かのは、そよを手で招くような仕草をした。

「ちょっといい?」 

 二人は遊技場を出て母屋へと向かった。

 かのは左手にリュックサックをぶら下げ、右手にはCDのケースを持っていた。ケースの中にはディスクが二枚納められるようになっていて、あの少女たちが踊っている映像のディスクは、今みんなが遊技場で遊びながら聴いているCDアルバムに付属しているものだった。

 並んで歩きながら、かのは手に持っているアルバムのジャケットをそよに見せた。白く泡立つ波と、薄く濁った青灰色の海を背にして砂浜に立つ十二人の少女たちを、少し高い位置から撮った写真だった。彼女たちは力強く、透き通っていながら、わずかに寂しさを感じさせるようなまなざしでこちらを見ていた。

「いい写真だね」と、そよは言った。

 かのはリュックサックの口を開けてケースを中にしまい、それを無造作に左の肩にかけた。


 母屋の玄関で靴を脱いでスリッパを履き、廊下を歩いて二人は勉強部屋に入った。

「みんな大丈夫かな」

 そよが少し不安そうに言った。

「喜んでいた子もいたし、下を向いちゃった子もいたよ?」

 二人は勉強部屋の畳の上に敷かれた座布団を二つ横並びにして座った。座卓にはペンケースや鉛筆削り、ノートやプリントがまだ散らばっていて、午前中にみんなが勉強をした跡が残っていた。

「うん。わたしが提案すれば、あの子たちはいやって言わない。それはわたしが一番よく知ってる。だから初めにそよに話したし、つぐとももえにも先に話した」

 かのは視線を前に向けたまま言った。そよはその言葉を聞きながら、座卓に肘をつき、かのの横顔を見つめていた。

「だから、わたしは、ずるい」

 かのは少し苦笑いするような、自分自身にあきれているというような表情で言った。かのがなぜそんな言葉を使ったのか、そよにはよく分からなかった。

「そよに、もう一つ協力してほしいことがあるの」

 かのは気を取り直すように元気な声で言って、大きなリュックサックの中から筆入れとノートを取り出して、座卓の上にノートを開いた。紙面は薄い線で四角いマス目が印刷された方眼紙になっていた。

「実を言うと、わたしも大きなグループでのダンスはまだほとんど踊ったことがないし、ダンスの経験がある子でも、この人数で踊るのって簡単じゃない。だから」

 かのはノートを横向きにしてボールペンで何かを書き始めた。左利きのかのが右手で紙面を押さえるその上から、そよはノートを覗き込んだ。

 かのは方眼紙のマスのつなぎ目に数字を書き入れていた。それから、かのは勉強部屋のテレビに繋いであるプレイヤーにディスクを入れて、またあの映像を再生した。

「そよも観ていて分かったかも知れないけれど」

 かのは画面を見ながら言った。

「このダンスは、振り付けと同じくらい、一人一人の移動が大切」

 そう言いながら、かのは映像を一時停止して画面を指さした。

「ほら、もうここで、最初にみんなが立っていた場所から動いているでしょ?」

 そよは視線を画面に移して、それからうなずいた。

 かのはまた再生ボタンを押して、画面の少女たちを目で追いながら、口の中で数をかぞえ始め、そして映像が終わるとそよの方を向いて言った。

「十七回。もうちょっと細かい移動も含めると、二十回を超えるかも知れない。それを全員が覚えなきゃいけない」

 かのは、数字が書き込まれた方眼紙をそよに見せながら、ダンスの最中に起きる立ち位置の移動について説明を始めた。


 数字は中央を〈0〉として外側に向かって大きくなり、左右に〈5〉までが書かれている。縦は五マス分が奥行きで、縦に五マス、横に十マスの横長の長方形が舞台を表しているのだという。舞台から客席を見た目線で、縦横の真ん中に書かれた×が中央、紙面の左が〈上手〉、右が〈下手〉で、数字と組み合わせて一人一人の『立ち位置』を表すのだと、かのは早口で説明をした。

「普通は踊りながら振り付けを覚えるのと同時に覚えていくんだけど、ほとんどの子たちには、それだと難しいと思う。だから、立ち位置はいつでも復習できるように、あらかじめ紙に書いたものを渡してあげたい」

「でも、どうやるの?」そよは不安げな声で尋ねた。

「一回の移動につき一枚ずつ、位置を示した図を書いて、みんなの分を用意する。これはちょっと大変な作業。だから、そよに手伝ってほしい。おねがい」

 かのは、きらきらと光る大きな目でそよの顔をじっと見つめて言った。

 そよは、正直に言えば、その作業がどれくらい重要であるかをよく理解できていなかったし、移動ごとに人数分の紙を作ると聞いただけで、ただ気が遠くなるようにも感じていた。けれども、そよには、かのの頼みを断るつもりははじめから無かった。かのが何かを提案したり頼み事をする時にこちらに投げかけてくる視線や声の響き。それらには、心理的な距離を飛び越えるようなある種の心地よい強引さがあった。ひとたび何かをやろうと心に決めれば、かのは頑固と言っていいほどに前向きだったし、それを説得したり頼みを突っぱねるのは難しいという事を、そよは良く知っていた。

(ねえ、そよ。冒険に行こう!)

 二人が小さかった頃に、かのが自分を遊びに連れ出そうとした時の声と、弾けるような笑顔を、そよは思い出していた。

「うん。わかった」

 そよは笑いながらうなずいた。


   §


 翌日の日曜日は、まるで八月の中頃のような暑さだった。午前中にざっと雨が降り、お昼過ぎから気温が上がって、あまり気持ちの良くない蒸し暑さが残った。お昼ごはんの後、つぐはみきと連れ立ってバス停に向かい、そこでももえと待ち合わせて、さくらベースへと向かった。そよは三人より先に、午前中の早い時間に出かけていた。

 

 三人がベースに着いて遊技場に入ると、かのとそよを除く七人が集まっていて、がやがやと騒いでいた。

「あっ。つぐちゃん、ももえちゃん」

 入口で靴を履き替えている三人に気付いて、みくが近づいてきた。

「かのちゃんたちもうすぐ来ると思うから。先に着替える?用具室で着替えられるよ」

 みくが更衣室替わりに使ってよいと言った用具室は、遊技場の隅にある卓球台や遊具をしまっている納戸のことだった。かのから練習は運動が出来る格好で、と言われていて、三人は着ている服とは別に荷物の中に練習着を持って来ていた。先に来ていた七人はもうそれぞれに着替え、いつダンスが始まってもいいような身軽な格好になっていた。

「行こう」

みくはにこにこと笑いながら、つぐとももえの間に立っていたみきの手を取り、用具室へ向かって歩き出した。

 つぐとももえはその様子を見て視線を交わし、微笑んだ。


 着替えてしばらくおしゃべりをしていると、かのとそよが遊技場にやって来た。

「じゃあ、始めようか!」

 かのは大きな声で言った。

 まず、かのは全員をテレビの前に集めて、もう一度映像を再生した。そよは自分が既に十回以上もその映像を観ていることに気が付いた。何度繰り返して観ても、画面の中で踊っている少女たちの輝きは翳らないばかりか、見るたびに強くなっているようにさえ、そよには感じられた。

「大まかに言うと、この曲のダンスを作っている要素は三つ」

 一つは、十二人みんなで同じ振り付けを揃えて踊る部分。それから、二つ以上のグループが別々の動きをしている部分。そして、ダンスに沿った立ち位置の移動。と、かのは説明をした。

「今日はまず初めに、サビのダンスを踊ってみよう」

 かのは、曲中で最も盛り上がり、十二人の少女が同じ振り付けをぴたりと揃えて踊る部分の映像を、みんなに何度か繰り返して見せた。

「曲の中心になるダンスだし、一度覚えれば一曲の中に三回、踊る場面があるから」

 そして、鼻歌でもいいからメロディも口ずさんでみてと、かのは言った。

 軽い準備運動をした後、かのが姿見鏡に一番近い場所に立ち、みんなは鏡に映るかのの姿がよく見えるように、背が低い子を前列にして二列に並んだ。

「動きはテレビの画面で見たのとは反転するから気を付けてね。右手を、おでこの前からぐるっと時計回りに回して、敬礼のポーズ。足は、右足を左足の後ろにクロスさせるようにして」

 かのは手足の動きを言葉で説明しながら、その部分の振り付けをゆっくりと踊り始めた。

「手をぐるっと敬礼、足はクロス。腕を斜めに、拳を上げて…」

 その部分の踊りは、歌詞に沿って三つの動きから成っていた。かのは言葉を口に出しながら、繰り返し、ゆっくりと踊る。途中からは歌を歌いながら、音と動きが合わさるのを自分の身体で再現しているようだった。

「真似できそうだったら、一緒に踊ってみて」

 かのはみんなに向かって言った。

 みんなはそれぞれにかのを見ながら動きを真似し始めたが、様子はさまざまだった。みこはすぐに同じ動きを再現できていたし、遊技場で踊るのに慣れているベースの子たちも、正確かどうかは別として、思い切って手足を動かすことができていた。そよは必死に真似をしようとかのをじっと見つめ、つぐとももえはまだ少し戸惑っていた。

 つぐはみきの様子が気になったが、みきは隣のみくに話しかけながら、滑らかに身体を動かし、楽しそうに笑っていた。みきは、昨日の自己紹介の後にはすぐにベースの子たちに溶け込んでいて、同い年のみくとは特に仲良くなったようだった。

 つぐは、その姿を見て少しほっとしたような気持になっていた。


 かなり長い時間をかけてサビの部分の踊りを練習すると、みんなは、ゆっくりであれば、かのの動きをなぞることができるようになってきた。そこで今度は映像を流しながら曲に沿って踊ってみることになったのだが、実際に曲に合わせて踊るのは、一つ一つの動きを確かめながら踊るのとは全く違っていた。

 みんなは、かのの合図で曲がその部分に差し掛かるのと同時に踊り出したが、曲の速さについて行くことが出来たのはかのとみこだけだったし、動きはばらばらでとても十二人が揃っているとは言えなかった。

 何度か映像を繰り返し、同じ部分を踊ったが、上手くはいかなかった。

「うん。やっぱり、難しいね」

 かのは映像を止めて、みんなの顔を見回しながら言った。言葉とは反対に、かのの目はいつにもまして輝き、汗が光る顔に浮かぶ表情はなぜかとても嬉しそうだった。

 練習を始めてから一時間ほどが経ち、遊技場はかなり蒸し暑くなってきていたし、いつもよりも大人数で慣れない動きをしていたからか、十二人全員がかなり汗をかいていた。かのが、ちょっと休憩!と声をかけ、みんなは疲れた様子で遊技場の床に座り込んだ。

 ここなとさなが真剣な表情で踊りのことについて話し始め、みくとみきはくっついて座りながら二人の話を聞いていた。つぐとももえのそばには、さきあとねおが近寄っていった。ゆめは、みんなが荷物をまとめて置いている場所から慣れた手つきでタオルをとり、かのに渡していた。

 そよはなんとなく一人でいる様子のみこに声をかけ、一緒にかのとゆめの方へ向かった。かのはみこの姿を見ると手招きをし、二人は何か専門的な言葉を使いながら踊りのことを話し始めた。


 ゆめがそよに「そよちゃん、飲み物持って来るの手伝ってくれる?」と言った。

 そよはうなずき、二人は遊技場を出て行った。

 少し時間が経つと、仲の良い者同士の小さな輪は、いつの間にか大きな一つの輪になっていた。かのが、この曲はどんなイメージ?と、みんなに訊くと、みんなは口々に映像を観た感想や曲を聴いて感じた印象などを話し出した。

「飛行機、って感じだよね」

 みんなの会話が途切れた時に、つぐが呟いた。みんなは一斉につぐの方を見た。

「いや、歌詞も空を飛ぶって感じだしさ、さっき練習していた敬礼のポーズは、飛行機のパイロットみたいじゃない?」

 つぐは、みんなの視線を受けて、少したじろぎながら言った。

「うん。確かに、ヒコーキだ!」隣に座っていたさなが真っ先に同意して、つぐちゃん、いいねと言いながら、つぐに親指を立てて見せた。

 それから、みこが、マイクを持った方が踊りやすいんじゃないかと言った。

「この子たち、みんな歌いながら踊っているでしょ?マイクを持った方が左手の置き場所がはっきりして、バランスが取れると思う」

 みんなはみこの話を聞きながら、興味深そうにうなずいていた。

「マイクを十二個揃えるのは難しいな。何か他のもので代用しようか」

 かのは顎に手を当てて思案するような仕草をしながら言った。

「お店で売っているよ」と、さきあが手を挙げた。

「スーパーのお菓子を売っているところで見た」

 さきあが言っているのは、砂糖菓子が入ったプラスチック製のマイクのおもちゃの事だった。それはいいと、みんなは賛成した。

「それだったら軽いし、みんなも舞台に上がっている気分が出るね」

 かのは、さきあに向かって笑いかけながら言った。それで、次の練習の時にはおもちゃのマイクを用意することになった。

 がやがやとみんなが喋っているところに、ゆめが戻って来た。

「かのちゃん、手伝って」

 足早に輪に歩み寄って来たゆめは、入り口の方を指さして言った。

 遊技場の入り口にはそよがいて、コンクリートの段差の下に水色の大きなウォータージャグを乗せた台車が置いてあった。かのが近づいて行き、そよとかのの二人でそれを持ち上げて、遊技場の入り口近くに置いてある木製の長椅子の上に乗せた。

 去年の冬、波子さんが庭のレモンの木から黄色く色づいた果実をたくさん獲って、ガラスの瓶に二つ分のシロップを作っていた。ジャグの中に入っていたのは、そのレモンのシロップに少し塩を加えて水で薄めた特製のスポーツドリンクだったが、大きな容器を満たすだけの量を作るには、台所のガラス瓶の中に残っていたシロップを全て使わなければいけなかった。

 蒸し暑い遊技場で身体を動かし、のどが渇いていたみんなは、すぐにそよとかのの周りに集まって来た。ゆめが紙コップを配って、さきあから順番に注ぎ口から飲物を注ぎ、みんなは波子さんのスポーツドリンクを飲み始めた。

「甘くて酸っぱくておいしい。買ってきたジュースよりもおいしいね!」

 みきは目をまん丸くしながら、隣に立っているみくの顔を見上げて言った。

「波子さんはお料理もお菓子もなんでも上手なの。レモンを輪切りにするの、みんなで手伝ったんだよ。今年もまた作るんだったら、一緒にやろう」

 みくは嬉しそうに顔いっぱいに笑みを浮かべた。

 その言葉を聞いたみきも左の頬にえくぼを作りながら笑い、嬉しそうだった。 

「かの、大丈夫?」

 そよは紙コップに口をつけながら、隣に座っているかのの顔を見た。

 かのは眉と眉の間に力を入れて笑い、力強くうなずいた。

「やる事がたくさんだね。でも、わくわくするでしょ?」

 だが、その言葉を聞いても、そよはまだ不安そうな表情のままだった。

 みんなは繰り返し紙コップにおかわりを注ぎ、ジャグの中はあっという間に空になってしまった。そしてまた、いつの間にかおしゃべりが始まった。遊技場は木立に集まった鳥たちが賑やかにさえずっているような、軽やかな騒めきに包まれていった。


   §


 日曜日の練習は夕方まで続いた。

 練習している部分は二十五秒ほどの短い踊りではあったが、十二人の動きを揃えるのはやはり簡単ではなく、みんなは時間が経つごとに次第につらそうな表情を浮かべるようになっていた。

 かのは落ち着いていて、粘り強かった。かのは練習している短い踊りを更に細かく分け、休憩や遊びの時間もまじえながらじっくりとみんなに踊りを教えていった。

 ダンスの話を持ち掛けられた後、そよがかのに、どうやって練習を進めて行くのかと尋ねたことがあった。かのは、しっかりと教えるのは初めてだからダンス教室の先生に相談をしながらやって行く。どうなるのか今はまだ自分でも想像ができない、と答えた。実際に練習が始まってみると、かのは初めにみんなと約束した、全員が楽しいと感じるようにする、という事に特に気を使っているように、そよには思えた。

 かのは一人一人に視線を配り、各々に合わせた細かいアドバイスをしてくれたし、反復の練習でもみんなを飽きさせることはなく、その日の夕方には、揃うというにはまだまだだったが、みんなが動きを覚えるところまでは、たどり着けたように見えた。練習が終わった時には、みんなは汗だくになりながら、気持ち良さそうに笑っていた。


 九月上旬の残暑は厳しく、日曜日から三十五度を超える日が何日か続いた。

 さくらベースでのダンスの練習は、月曜日は休みだったが、火曜日から金曜日までの平日も遊技場でおこなわれた。火曜日はかのとみこがダンススクールに通うために不在で、ベースに集まった子たちは日曜日に覚えた踊りを自分なりに復習したり、ダンスの映像を観たりしていた。つぐとみきは火曜日・水曜日・木曜日の放課後にベースを訪れた。ももえは火曜日・木曜日・金曜日に、そして、そよは火曜日と金曜日にやって来た。

 かのが学校を終えてベースにやって来てから夜ごはんの前までというのが練習の時間だったが、平日は十二人が同じ時間に揃うのは難しく、少人数のグループだったり個別の練習という形になったし、時間も長くは取れなかった。

「日曜日までには、もう少ししっかりと平日の練習方法を考えておく」

 かのはみんなに断り、その週の平日はダンスの基本的な動作や身体の使い方を覚えることに多く時間を使った。曲に合わせるのではなく、覚えようとしている踊りとは直接的に関係のない練習ではあったが、みんなは真剣にレッスンを受けた。普段から遊びで踊っていたベースの子たちも、あらたまった形でかのからダンスを教えてもらうのは、新鮮な喜びであるようだった。


 次の土曜日が、およそ一週間ぶりの全員での練習であった。

 練習が始まるのはお昼ごはんのあと、午後一時頃からという事になっていたが、先週と同じように、そよは午前中に一人でさくらベースにやって来た。

 そよはベースに着くと玄関から母屋へ上がり、そのまま応接室へと向かった。応接室にはかのが先に来てソファに座っていて、ローテーブルの上には紙や筆記用具が並べられていた。

「おはよう」

 そよは言って、かのの隣に座った。おはよう、と、かのも応えた。二人が作っているテキストは、あと少しで全員分が完成するというところまで来ていた。


 立ち位置を覚えるための資料作りは、一週間前の土曜日、遊技場でみんなが顔合わせをした後、かのがそよを勉強部屋に呼んで話をして、そこからそのまま作業が始まった。かのはまずリュックサックの内ポケットから楽曲の歌詞が書かれたメモ紙を取り出して、映像を観ながらボールペンでしるしを付けて行き、移動が発生する部分ごとに歌詞を区切った。そして、区切られた歌詞を方眼紙の上の部分に一枚ずつ書いて行くと、移動に合わせて切り分けられた歌詞を書き込んだ方眼紙が、移動の回数分出来上がった。それから、かのは定規を使って手際よく一枚の方眼紙の下の部分に舞台を表す長方形の枠を引き、縦に五つ、横に十のマスと、外側に〈0〉から〈5〉までの数字を書いた。

「同じように出来る?」

 かのは、自分が書き込んだ紙面をそよに見せながら言った。

 そよがかのの目を見ながらうなずくと、かのは大きな帆布の筆入れから折り畳み式の定規とボールペンを取って、そよに渡した。

 二人で歌詞と舞台が書き入れられた紙面を移動の回数分だけ完成させ、かのが最後に一枚、歌詞を書かずにマス目だけを書いた紙を作った。それは立ち位置の資料の基になる原紙だった。


 今度は、それを人数分だけ印刷すると、かのが言った。

 全ての頁を十二人分印刷すればざっと計算しても二百枚ほどになり、スーパーに置いてあるコピー機を使うとかなりお金がかかる。そこで、波子さんが、紙を用意すれば応接室にあるプリンターを使って良いと言ってくれたという。

「コピーの紙なんて買うの初めてだよ。重かった」

 かのは苦笑いしながら、リュックサックから五百枚入りの紙の束を取り出した。

 二人は勉強部屋から応接室へ移動し、プリンターに手差しで紙を設置しながら印刷を始めた。応接室の机では波子さんが書き仕事をしていた。

「みきちゃんとみこちゃんは、みんなと仲良くなれそうなの?」

 穏やかな微笑みを浮かべながら、波子さんが言った。

「うん。大丈夫!」かのは、プリンターを操作しながら答えた。

 波子さんはもう一度頬を緩ませ、それきり何も言わずに仕事を続けた。

 二人は十五分ほどもかけて必要な分を印刷し、それを手分けして持って、勉強部屋に戻った。座卓の前に座ると、かのはリュックサックの中から十二色の色鉛筆の缶を引っ張り出した。色鉛筆の缶は真新しく、まだ買ったばかりのようだった。

「なんだか、いろんなものを持って来たんだね」

 そよが驚いたような顔をすると、かのは白い歯を見せて、にっと笑った。

 かのは、また映像をテレビの画面に映し、前奏の部分で停止をして、最後に一枚作った歌詞の無いマス目だけの紙に、色鉛筆で一色ずつ、直径一センチほどの円を描き、塗りつぶしていった。

「これが、最初の立ち位置」紙面をそよに見せながら、かのは言った。

 かのが書いた立ち位置の図は、碁盤のような四角いマスの継ぎ目に、色とりどりの円が配置された、幾何学的な模様のようにも見えた。

 それから、かのは最初の部分の歌詞が書かれた紙を手に取り、そよに渡した。

「わたしが言うから、書いて」

 かのは最初の立ち位置を書き込んだ紙とテレビの画面を交互に見ながら言った。

「赤が〈0〉の真ん中。緑が〈上手0・5〉、前から三マス目。青が同じ三マス目の〈下手0・5〉…」

 そよは、かのが言う通りにマス目に色鉛筆で円を描き、塗りつぶした。

 十二色の円を描き終えると、かのは映像を再生し、また停めて、次の歌詞が書かれた紙をそよに渡し、円の配置を指示した。映像は必ずしも全体を映したものではなかったし、分かりづらい角度のものもあったので、かのは同じ部分を何度も繰り返し再生し、停止し、画面に顔を近づけて、真剣な表情で凝視しながら、そよに円の位置を教えていった。


 そんな風にして進めて行ったので、一曲のうちに二十回近くある移動を全て書き起こすのには、たっぷりと夕方まで時間がかかってしまった。けれども、そよにとってかのと二人で何かに取り組んでいる時間は、長さを感じさせず楽しかった。二人がずっと勉強部屋に閉じこもっているので、何人か遊技場から様子を見に来る子もいたが、作業に集中している二人を見て、声をかけずにそのまま戻って行った。

 映像が最後まで進み、そよは立ち位置を示す十二色の円を描き終えた。

「あとは、これを十二組。人力でコピー」

 かのは、前奏から曲が終わるまでの全ての移動を色分けして図にした紙の束を手に持ち、少しうんざりしたような声で言った。そよは疲れた眼をまたたかせ、左手で右の手首をなでながら、それでも満足そうな顔をしていた。

「続きは明日にしようか」

 かのは、そよの様子を見て微笑みながら言った。

 そうして土曜日の午後と日曜日の午前中、遊技場でみんなと一緒にいる時間の合間を縫って、二人は作業を進めたのだった。


   §


 九月二週目の土曜日の午後、十二人はさくらベースの遊技場に集まっていた。

 全員で練習をするのはこれで二度目だったが、遊技場に早く来た子たちは、教わった柔軟体操をしたり、身体を伸ばす運動をしたりしていた。

 初めにベースの子たちが来て、その後にみこ、それからつぐとみきとももえが来て、午前中から応接室にこもっていたかのとそよが最後に遊技場に現れた。かのは収納に使うような少し小さめの段ボール箱をかかえて持って来て、それを姿見鏡の横の床に置いた。

「遅くなってごめんね。集まって」

 かのが声をかけると、みんなは、はい、と言って鏡の前に二列で並んだ。

 不思議なことに、かのがそうして欲しいと言った訳ではないのだが、ベースの子どもたちは練習をするたびに自分たちで秩序や約束事を作って行き、それを実践していた。かのが生まれながらに持っている緩やかなリーダーシップがそうさせたのかも知れなかったし、何よりも彼女たち自身が楽しんでそれをやっているようだった。

「今日は練習を始める前にちょっと色々あるの」

 かのは、床に置いた段ボール箱の中から幅広の緑色のビニールテープと巻尺を取り出した。子どもたちは箱の中に何が入っているのかを知りたがってかのの周りに集まってきたが、かのは「ダメだよ、まだダメ」と、手を広げてみんなを制した。

 かのの指示に従ってみんなでビニールテープを十センチほどにちぎり、巻尺を使って姿見鏡の前の床に等間隔に貼っていった。

 縦に五つ、横に十一。

 それから、かのが段ボール箱の中から太いマジックを出して、床に貼ったテープの表面に数字を書いた。中央が〈0〉、左右の外側へ向かって数字が大きくなり、両端が〈5〉。作業が終わると、遊技場の床には、立ち位置を表すマス目代わりのビニールテープの印が出来上がっていた。

 次に、かのは箱の中からノートの束と紙の束を取り出して、みんなにひと揃えずつ手渡した。ノートは新品で、表紙が薄桃色で普通の幅の横罫のもの。紙の束はかのとそよが二人で作った立ち位置の冊子だった。

 冊子は、マス目に沿って十二色の塗りつぶされた円が並べられ、楽曲が始まる時の立ち位置が描かれた図が表紙になっていて、左上の部分がホチキスで綴じられている。ページをめくると二枚目は右上に歌詞の一部分が記され、十二色の円は表紙とは違う配置で描かれていて、更に次のページには、前の歌詞の続きとまた違う配置の円。歌詞の区切りに対応する立ち位置の移動が、図で示されていた。

 例えば、赤の円は、表紙では舞台奥の〈0〉。それが次のページでは横の位置は同じ〈0〉だが、縦の位置は舞台中央まで移動している。同じ色の円を追えば、ページの右上に書かれている歌詞の出だしの部分でその色がどの位置に移動するのか分かるし、他の色との位置関係も分かるようになっていた。

「この曲のダンスは、踊りながら全員が何度も立ち位置を変えなきゃいけない。いま渡した紙の冊子には、十二人全員の移動が色で分けて書いてある。覚えるのは大変かも知れないけれど、それを見ながら練習をしていこう。それから、ノートには練習で覚えたことやみんなで話し合ったことを書いていって」

かのは、冊子とノートを手で掲げながら、みんなに向かって言った。

「これ、みんなの分を作ったの?」

 冊子をめくりながら、つぐがそよに尋ねた。

「かのと二人で作ったんだよ」

 そよは嬉しそうにうなずいた。


 段ボール箱の中に最後に残っていたのは、十二個のプラスチック製のおもちゃのマイクだった。初めての練習の時に、みこがマイクを持ちながら踊ったらどうかという意見を出し、さきあの提案でスーパーマーケットのお菓子売り場にあるおもちゃのマイクを使おうということになった。

 金曜日の夕方、かのに頼まれて、さなとねおがスーパーに買い物に出かけていた。お菓子売り場にはいくつかの色のおもちゃのマイクが置いてあったが、かのは全て同じ色にしてほしいとあらかじめ二人に頼んでいた。それで二人はしばらく考えたあと、水色のマイクを十二個、買い物かごの中に入れた。

 かのが箱の中から取り出した水色のおもちゃのマイクは、持ち手の部分に、画用紙を小さく切って色鉛筆で円を描いたものがセロハンテープで貼られていた。立ち位置の図と同じ色鉛筆で描いた円だった。かのは、円の色を確かめながらおもちゃのマイクを一つずつみんなに渡していった。


 黄色が、みき。黄緑は、ねお。緑が、そよ。水色が、みく。

 青は、みこ。紫は、ももえ。桃色が、ゆめ。赤は、かの。

 橙色は、つぐ。うす橙が、ここな。茶色が、さな。黒が、さきあ。

「この曲での、みんなの色だよ。自分の色を覚えて、さっき渡した紙で確認してね。それじゃあ、みんな表紙の立ち位置についてみて」

 みんなは、わたしこっち、とか、あっちだよ、とかざわざわと言い合いながら、それぞれの位置に立った。

「それが、みんなの、最初の場所だよ」

 かのは十一人の顔をぐるりと見回して、力強くうなずいた。

「よし。今日は、まず前奏の踊りを練習しよう」

 かのの声が遊技場に響いた。

 それは、練習が始まる合図だった。


 かのは、普段の磊落(らいらく)で明るい性格からは意外なほどに、今回のダンスの練習に関しては慎重に、しっかりと準備をして臨んでいた。それは、休憩中にももえがそよのTシャツのそでを引っ張り、「かのちゃん、思ったよりもずっとしっかりしてるんだね」と小声で囁くほどであった。

 立ち位置については、十二人の各々の色、つまり楽曲の中での役割があらかじめかのによって決められていたが、かのはその意図を、言葉にするのに苦労をしながらも、丁寧にみんなに説明をしてくれた。拙いが真摯な言葉でかのの真剣な気持ちはみんなに伝わったようだったし、繰り返し映像を観たり、冊子やノートを手渡されたこともあって、子どもたちもこのダンスに本気で取り組むという気持ちを確かにしたようだった。

 土曜日と日曜日は、前奏の振り付けから曲の前半部分までを十二人で練習した。白や黒、ピンクのTシャツ、明るい水玉模様のハーフパンツや薄いグレーのジャージ、蛍光色の靴紐や鮮やかな黄色のラインが入ったスニーカー。みんなはそれぞれ色とりどりの練習着を纏い、弾けるように身体を動かした。遊技場の外側は素っ気ないプレハブのままだったが、中は賑やかな色彩のおもちゃ箱になったようだった。

 土曜日の休憩の時間には、おもちゃのマイクに付いていた砂糖菓子をみんなで食べた。日曜日は、近くの農家からたくさんもらった梨を波子さんが切ってくれた。丸々と大きく赤みがかってざらつきのある皮にナイフを入れると、少し透き通った象牙色の果肉があらわれ、水分をたっぷり含んだ甘さは練習で喉が渇いていた子どもたちを喜ばせた。


 九月の中旬に入ると、肌に感じる空気はまだ暑いままだったが、気温は三十度を下回るようになってきて、雨や曇りの日も多くなってきた。

 その週からは、平日の練習も曲に合わせた本格的なものになった。平日は主にその前の日曜日までに覚えた部分の振り付けと立ち位置の移動の復習がおこなわれた。曜日によって練習に参加できる子は異なっていたが、遊技場の床に貼られた立ち位置のテープとテキスト代わりの冊子のおかげで、全員が揃わなくても練習を進めることができた。

 ノートは学校の授業と同じように、その日の練習で教わった事や、かのが強調した踊りの要点などを書き留めておく役割だった。日曜日の練習の終わりにみんながノートに書き込む時間を作り、かのが全員分を集め、気付きやアドバイスを添えて各々が次に練習に来た時に返す、ということに決まった。

 質問や確かめたい事があったら何でも書いてねと、かのはみんなに言った。

「初めは思い浮かばないかも知れないけれど、必ず聞きたい事がたくさん出てくるから」

 直接会える時間が短くなってしまう子とは、ノートを通じてコミュニケーションを取り合いたいと、かのは考えているようだった。

 

 練習が始まって二週間ほどは、振り付けと立ち位置の移動を別々に実践する比較的難しくない内容だったが、そんな中で、そよは平日の練習になかなか参加できずにいた。そよは週に二回の塾とピアノ教室にも通っていたし、二度目の全員での練習を終えて週が明けると、学校では各教科の補習が始まった。休んでいる間も自主勉強を続けていたそよにとって補習はどちらかと言えば形式的なものであったが、学校に残らなければいけない日が増えて、さくらベースに足を運ぶ時間は限られてしまった。

 三度目に全員が集まった土曜日、そよは練習が進むに連れてじりじりとするような焦りを感じていた。新しいことをみんなで一斉に覚える時は、気になるということはなかった。しかし、前の週に覚えた動きを全員で振り返ろうとした時には、そよは自分が明らかに周りから後れていることに気付いた。

 そよは、本番のバザーの日までは週に二回ある塾のうちの一回か、ピアノ教室を休もうと思い、かのに相談をした。だが、かのはきっぱりと言った。

「最初にも言ったように、練習は学校の勉強や習い事の邪魔にならないようにする。塾やピアノ教室は休んじゃだめだよ」

「でも…」そよは訴えるような目でかのを見た。

「大丈夫。遅れているならわたしが助ける。何とかする」

 かのは自信に満ちた声でそう言ったが、そよの表情は曇ったままだった。

 

   §


 三度目の日曜日の練習が終わった翌日。

 そよは、塾から帰って夜ごはんを食べた後にさくらベースに向かった。

 月曜日は練習が休みと決まっていたが、そよは少しでも遅れを取り戻したくて、とにかくベースに行って波子さんに遊技場を使わせてもらえないか頼んでみようと考えたのだった。

 湿度が高く、外気には雨になりそうな気配が漂う夜だった。

 そよは、少し恥ずかしい気がしたが、すぐに身体を動かせるように、いつも練習の時に着ている白いTシャツとグレーのスウェット生地のズボンで、タオルと着替えのTシャツと折り畳み傘を入れた小さな鞄を肩から掛け、家を出た。

 バスに乗った時にはもう八時近くになってしまっていた。陽が落ちてからバスに乗って家へと帰って来たことはあったけれど、こんな時間に一人でさくらベースへと向かうのは、もちろん初めてのことだった。バスは家々の窓から灯りが洩れる住宅街を出発し、真っ暗な田んぼと畑を横目に走り、シャッターの閉まった店が並ぶ旧街道を抜けた。見慣れている風景のはずだったが、そよには、バスの走る道がどこか違う世界へと繋がる通路のように思えた。

 さくらベースに着くと、そよは音を立てないように玄関の引き戸を開け、そっと靴を脱いで、靴下のまま忍び足で廊下を歩いた。ベースでも夜ごはんが終わり、家に帰る子以外は勉強部屋にいるはずだったが、自分が見つかればみんなが騒ぐだろうと思い、気配を殺しながら台所へと向かった。

 台所には波子さんがいた。波子さんは、そよが小声で呼びかけるとびっくりして顔を上げたが、そよの格好を見てすぐに、分かったというような表情になった。

「遊技場に入ってもいいですか?」そよは囁くように尋ねた。

「最終のバスは十時十五分だから、気を付けてね」

 波子さんは、含みのある笑い顔でいたずらっぽく言った。

 そよは再び靴を履いて玄関を出た。遊技場の方の見ると、先ほどは気が付かなかったが、明り取りの小窓がぼんやりと白っぽく光っているのが見えた。

「えっ?」

 そよは歩きながら思わず声を出した。小走りで遊技場の入り口に着き、コンクリートの段差を上って扉に手をかけると、閂型のストッパーは外れていて、そよはそのままそっと扉を横に引いた。


 遊技場にはかのが居た。

 かのは姿見鏡の前で、独りで踊っていた。

 かのは、そよが扉を開けたことに気付いたようだったが、そよに向かって鏡越しに微笑みかけると、そのまま踊り続けた。かのは黒いTシャツに光沢のある濃い赤紫色の膝下辺りまでの丈のジャージを穿いていた。テレビの画面は暗かったし、床に置いてあるCDプレイヤーから音楽は鳴っていなかったが、かのはまるで頭の中に音が流れているように正確なリズムでステップを踏み、その場で他の子たちが一緒に踊っているようなきめ細かい足どりで立ち位置を移動していた。

 そよは、しばらくうっとりとしたように、踊るかのの後姿を見ていた。

 数分間、独りで滑らかに踊ったあと、かのはそよの方を見てにこっと笑った。

「来たの?」と、かのは言った。

 そよは靴を上履きにはき替えて遊技場に入り、かのの隣に歩み寄った。

「昨日の復習をしようと思ったの」

「月曜日は、練習は休みだよ」

「かのは練習してるじゃない」

「わたしは毎日やっているからなあ…」

 かのは両手を腰に当てて天井を見上げながら言った。

「しばらくの間いいでしょ?塾も休んでいないし、勉強は遅れないように頑張るから」

 そよはそう言いながら右手で前髪を持ち上げて、ヘアピンで留めた。

「あれ」

 かのが何かに気付いたように、そよの顔に自分の顔を近づけて言った。

「傷…」

 その言葉を聞いたそよは、右手の人差し指で自分のおでこをそっと撫でた。

「そう。傷、残ってるの」

 そよは優しく微笑みながら言った。


 そよのおでこの傷は、小学二年生の頃にできたものだった。

 その頃、二人は公園で遊ぶのでは物足りなくなって、歩いて少しのところにある雑木林や、小さな川の土手などによく遊びに出かけていた。

「ねえ、そよ。冒険に行こう!」

 いつも、そよを誘うかのの言葉がきっかけだった。小さなポシェットにプラスチックの水筒とお菓子やハンカチ、おもちゃの方位磁石などを入れて、二人は出かけた。

 その日は仲秋の肌寒い日で、二人はかのの家から歩いて少しの場所にある小さな森へと向かっていた。森は台地を切り通した隧道の上に広がっていて、農作業の車両のために舗装された細い道の側溝をまたぎ、低い草木が生える急な斜面を登ると、背の高い樹々に囲まれ、どんぐりがたくさん落ちている、平坦な場所にたどり着くことができた。

 かのが先に斜面を登り、そよはその後ろを追いかけた。かのは幼い頃から健脚で、そよは必死に付いて行ったが、前日に雨が降り滑りやすくなっていた地面に足を取られて転び、十メートルほども斜面を転げ落ちてしまった。

 かのは慌ててそよに駆け寄った。

 そよは何よりもまず地面に落ちた眼鏡を探さなければと思い、辺りを見回した。幸い眼鏡はそよの身体の近くに壊れずに落ちていた。そよは眼鏡を拾い、ハンカチでレンズを拭いてからそれをかけようとしたが、その時に、左のおでこの上の方に小さな、けれども深い傷ができ、出血していることに気付いた。転げ落ちた時に、地面に落ちていた石か木の枝がぶつかったのかも知れなかった。

「血が出てる」

 かのは小さく叫んで、自分のハンカチをそよに渡し、傷を押さえるようにと言った。それから、そよのポシェットを自分の肩にかけ、そよの手を引いて歩き出した。

 歩いている間、二人は無言だった。

 かのは少し怒ったような、歯を食いしばるような顔をして、ポシェットを二つ肩からかけて、急ぎ足に歩いていた。

 そよは、右手でおでこの傷にハンカチを当てて(不思議と痛みはほとんど感じなかった)、困惑したように、かのに手を引かれるままに歩いた。

 二人はそのまま、かのの家に帰った。

「お母さん」

 かのが玄関で叫ぶと、かのの母親が出てきた。母親は二人の様子を見て、何が起きたのかをすぐに察したらしかった。

 母親はかのを激しく叱った。

 普段は明るくて優しいかのの母親が、顔を赤く染め、目を吊り上げてかのを叱っている姿を見て、そよは何故か自分がとても悪いことをしたような気持ちになってしまった。

「かのを叱らないで!」

 突然、そよが叫んだ。

「かのは悪くないの。わたしが転んだの」

 そして、今まで持ち堪えていた堰が切れたように、大粒の涙を流しながら泣き出した。そよが泣き出したのを見て、かのも何かが弾けたように声を上げて泣き始めてしまった。

 二人は口々に、ごめんなさい、と言いながら泣いていた。

 母親はそれを見て、何か力が抜けたようだった。

「とにかく傷口を洗って、消毒液を塗るよ。それから、そよちゃんのおうちに電話をして、念のためにお医者さんにも行かないとね」

 そして、二人をリビングに連れて行き、そよの傷口の手当をして、二人に温かいココアを作ってくれた。


 遊技場でかのに傷の事を言われて、そよはその時のことを不思議と鮮明に覚えているのに気が付いた。そして、この何週間かで過ごして来たかのとの時間も、何年か後にふと振り返った時、こんな風にはっきりと思い出せるのだろうか、と考えていた。

「じゃあ、どこから練習する?」

 ぼんやりとしていたそよの耳に、かのの声が響いた。

「うん。前奏から最初のサビまでを、まず、やりたい」

 そよは答えた。

 遊技場の外は、いつの間にか雨になっていた。

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