十月
Ⅶ
長い夏休みが終わった最初の登校日は月曜日で、真夏の暑さが残る薄曇りの日だった。つぐとももえは、休みに入る前と同じようにつぐの家に隣接した公園で待ち合わせをして、学校までの道を二人で歩いていた。
「終わっちゃったね」
ももえが幾分か不服そうに言った。
「あっという間だったね、今年は」
つぐは少し疲れたような声で答えた。
二人が歩いて登校するのは、部活動の朝練習には遅く、朝読書の始まりに合わせるには少し早い時間で、通学路を歩く生徒の姿は比較的少なかった。つぐはきょろきょろと周りを見回しながら、ももえの右手の近くに自分の左手を差し出した。つぐの仕草はまるで四十日間の夏休みで手の繋ぎ方を忘れてしまったようにぎこちなかった。ももえは、つぐがたどたどしく差し出した左手の小指に、自分の右手の人差し指をそっと絡ませた。
「知ってた?」と、ももえが言った。
「えっ?」
「登校の時に手を繋ぐの、初めて」
ももえは何かを企むような笑みを浮かべて、つぐの顔を覗き込んだ。
「つぐから手を出してきたのも、初めて」
つぐは恥ずかしくなり慌てて手を引っ込めようとしたが、ももえはすばやく、しっかりとつぐの掌を握り、少し速度を上げて歩き始めた。
二人は小走りのようになりながら、手を繋いで坂を下って行った。
いつもの道を歩いて学校に着き、昇降口で靴を履き替え、階段で三年生の教室がある四階に上がった。教室では、つぐが窓側の前から二番目の席で、ももえはその三つ後ろの席、そしてつぐの右隣がそよの席だった。
つぐは肩から鞄をおろして自分の席に着くと、ちらりとそよの席の方を見た。そよの机はどこか時間に置き去りにされてしまったような、空っぽな感じがあるように、つぐには思えた。
明日は久しぶりにそよの家に行かないといけないなと、つぐは考えていた。
夏休みに入る前は火曜日と金曜日につぐとももえがそよの家を訪ね、そよにノートのコピーや小テストの用紙を渡しておしゃべりをしていた。金曜日には「月曜日、来られるようなら来なよ?」と言って別れるのが決まり事のようになっていた。
この一ヶ月と少しは学校がなかったし、三人はさくらベースで顔を合わせることがほとんどだったから、つぐとももえがそよの家を訪れて登校を促すということは久しくしていなかった。つぐは、夏休みの間の様子を先生に報告しなければいけない、とも考えていた。
つぐとももえが学校に着いてから朝読書が始まるまでには二十分ほど時間があるので、その時間を使ってテキストや課題集で自主勉強をするのが二人の日課になっていた。
その日、つぐは英語の問題集を開いていた。二学期からは高校受験への準備が本格的になってくるから、つぐは少し落ち着かない気分だった。集中しようと思いながらつぐが問題集にペンを走らせていると、周囲の空気がふわりと動いたような気がした。つぐは問題集から目を上げ、ゆっくりと顔を右に向けた。
そよがいた。
そよが通学鞄を机の上に寝かせ、椅子に座っていた。
そよは、背筋を伸ばして前を向いていた。薄水色の夏服は皺ひとつなくぱりっとしていて、つやつやと輝く長い黒髪は綺麗に編み込まれ、おさげが両肩から背中へと真っ直ぐに降りていた。
そよは、眼鏡をかけていなかった。
つぐは斜め後ろのももえを見た。ももえも驚き、目を丸くしていた。
「そよ」
つぐは囁くように言った。
「つぐちゃん、おはよう」
そよは、つぐの方を見てしゃきっとした声で言い、それからももえに視線を向けた。
「ももちゃんも、おはよう。二人とも色々ごめんね」
そよの姿に気付いた他の生徒たちがざわめき、何人かがそよの机の周りに集まり始めたので、つぐはそれ以上話をすることができなかった。数人の友達がそよに、大丈夫、とか、心配してた、とか声をかけ、そよはそれに応えていた。しばらくして教室の扉が開き、先生が入って来たので、みんなは席に戻った。
先生は席に座っているそよに気付くと、少し驚いた様子で「おっ」と言った。
「体調はどう?問題ないかな?」先生は穏やかな声で言った。
「はい」と、そよは答えた。
「うん。きっと自分でも勉強していたと思うが、補習のこともちゃんと考えなきゃならないね。忙しくなるけれど、がんばろう」
「はい。先生、ありがとうございます」
そよはそう言って頭を下げた。そのやり取りは、四ヶ月ぶりに学校に来た生徒と先生の初めての会話には似つかわしくないように、つぐには思えた。
「よし、朝読書を始めよう」
先生は何事も無かったかのように言って、教卓の横のパイプ椅子に腰をかけ、本を読み始めた。
§
二学期が始まる三日前の八月最後の金曜日。
さくらベースからの帰り道、そよは興奮したままバスに乗っていた。
バスが家の近くの停留所に着いた時にはもう夜の九時を回っていたが、そよはまだ自分の胸がどきどきしているのを感じていた。何か新しいもの、それも自分が心のどこかで出会いたいと願っていたものに出会えたかも知れないという嬉しさと、自分がかのと一緒にダンスを踊るかも知れないという、期待とも不安ともつかない感情が入り混じって落ち着かないままだった。
バス停から家までの道を、そよは興奮を引きずりながら歩いた。家に着き、肩掛けかばんのポケットから鍵を取り出し、玄関を開けて中に入り、内側からまた鍵を閉めた。リビングに顔を出し、「ただいま」と言うと、そよの母親と父親が二人でダイニングテーブルに座っていた。
「おかえり」と、父親が言った。
「そよさん、部屋に行く前に少しだけ話をしてもいい?」
父親は遠慮がちにそよに声をかけた。
そよはうなずき、ダイニングテーブルの自分の椅子に腰かけた。母親が、そよに冷たい緑茶をグラスに注いで出してくれた。
そよは緑茶を一口飲み、視線を落として自分の手元を見つめていた。
そよの父親は、同年代の男性と比べれば少しばかり小柄で、引き締まった精悍な身体つきをしていた。ベージュの開襟シャツの袖から覗く腕は赤銅色に日焼けし、少し白髪の混じった髪の毛は綺麗に短く切り揃えられ、そよに向けた優しげな視線は弱気と言っていいほどに控えめだった。
「今日ね」父親は、そよを気遣うような声で言った。
「家に、先生が来た」
そよの顔がこわばった。
母親はそっと席を立ち、台所へと歩いて行った。
「夕方、ちょうど僕が休みだったから、短い時間だったけれど話をした」
少しの間、二人は黙っていた。
「…先生、何か言ってた?」
そよは、自分の手元を見つめたまま言った。
「夏休みの様子を聞いて、それから何でもない世間話をして帰って行った。帰り際に、この時期に夏バテをしたり体調を崩す子もいるから気を付けてください、と言っていた」
また、二人は少しの間、黙った。
父親は懸命に言葉を探しているようだった。
「先生はそよさんが選ぶのを待っているよ」
そよの肩がぴくりと動いた。そよは視線を上げて父親を見た。
「直接そういう話をした訳ではないんだけど、先生は、こうしなさい、とは言わない。こうした方がいい、とさえ言わなかった。ただ、そよさんが自分で選ぶのを待っている。それはそよさんのことを信頼しているからできることだと僕は思う」
そよは黙っていた。
「上手く言えないんだけど」
父親は、もどかしそうに頭を掻いた。
「僕が尊敬している人物の言葉に、『人生の横道にはキラキラと輝く宝物がたくさん落ちている』というのがある。僕もその通りだと思う。横道に落ちているキラキラしたものは、地位とかお金ではない、それよりももっと大切なものだと思う。そもそも、何が本道で何が横道なのか、僕にはいまだによく分からないんだが」
父親は、相変わらず言葉を探すのに苦労しているようだった。
「そよさんが責任を持って選ぶなら、それがどんな答えだろうが先生は受け入れると思うし、僕もお母さんも、もちろん受け入れる。ただ、僕は、学校にも大切なものはたくさん散らばって落ちていると思う。本道を歩きながら、横道に寄り道することもできると思う。どちらか、でなければいけないということは無い。どちらも、も、答えとしてはあると思う」
そこまで話して、父親は急に恥ずかしくなったようだった。
「うーん。ちょっと曖昧だなあ」
たったいま自分の口から出た言葉を打ち消すように顔の前で手を二、三回振り、父親は立ち上がった。
「あまり気にしないで。でもまあ、ちょっと考えてみて、ね。お風呂に入ってくる」
そう言って、父親は足早に部屋を出て行った。
そよは、一人になったあとも、どこともない場所を見つめるような表情で、何かを考えていた。
「かのちゃんは元気なの?」
気が付くと、母親がそよの向かいに座り、微笑みながらそよを見ていた。
そよは、こくりとうなずいた。
「聞くまでもないか」
母親は、くすっと笑って言った。
「久しぶりに、かのちゃんにお菓子を食べてもらいたいから、今度家に連れていらっしゃい。つぐちゃんとももえさんも一緒にね」
母親は緑茶が入ったプラスチックのピッチャーを持って立ち上がった。
「あなた、素敵なお友達をたくさん持っているのよ」
母親はそう言って台所へと戻って行った。
そよは、まだじっと何かを考えていた。
§
九月の最初の月曜日に、そよは夏休みを挟んでおよそ四ヶ月ぶりに学校に来た。
そよがあまりにも自然に現れ、先生が何事も無かったように振舞ったからか、つぐとももえは少し拍子抜けがしたような気分だったが、とにかく、そよが学校に来たことにほっとしていたし、喜んでいた。
その日、学校は始業式とホームルームだけでお昼には終わったが、帰りの会の後に先生がそよに声をかけ、二人は職員室で補習の話をすることになった。
「つぐちゃん、ももちゃん、ごめん。もし大丈夫だったら、少し待っていてくれる?」
そよにそう頼まれたので、つぐとももえは教室でそよを待っていた。
「そよちゃん、学校を休んでいた頃と変わったね」
ももえはリュックサックを背負ったままそよの席の椅子に座り、脚をぶらぶらさせながら、つぐの方を見て言った。
「うん。何て言うか、眼鏡もさ、かけてないし…」
「ちょっと大人っぽくなったような気がする。油断していると、わたしたち置いて行かれちゃうかもよ?」
ももえは、つぐによく見せるいたずらっぽい表情で言った。
「どういうこと?」
つぐの問いにももえは答えず、はぐらかすような仕草でリュックサックから文庫本を取り出して読み始めた。
十五分ほどで、そよは教室に戻って来た。
「ごめんね、待たせちゃって。あのね、ちょっと相談があるんだけど…。下校しながら話してもいいかな」
そよは申し訳なさそうな声で言った。つぐとももえは椅子から立ち上がった。
三人が一緒に学校から帰るのは、もちろん初めてのことだった。
そよとつぐが並んで歩き、そのすぐ後ろをももえが歩いて、広い道路を渡り、花屋の横を過ぎて住宅街の登り坂に入った。
「そよちゃん、久しぶりで、大丈夫だった?」
初めに口を開いたのはももえだった。
そよは、あっ、という顔をして振り向いた。
「ちゃんと言ってなかったよね。ふたりともありがとう。つぐちゃんとももちゃんのおかげで、わたし、学校に来れた」
「わたしたち何もしてないよ」
つぐが照れくさそうに言った。
「でもまあ、わたしは嬉しいよ。ほら、そよ、嫌々ってわけじゃなさそうだったし」
つぐの言葉に、そよは微笑みながら小さく首を横に振った。
「ほんとに二人のおかげなの」
それは二人に聞かせるというよりは、独り言のような呟きだった。
「そよちゃん、相談ってなあに?」ももえが、そよとつぐの背中越しに言った。
そよは立ち止まり、つぐとももえを手で囲うようにして道路の端に寄せた。
「今日、少しだけでいいんだけど、さくらベースに行く時間ある?」
そよの言葉に、つぐとももえは顔を見合わせた。
「なんだ、そんなこと?」つぐは笑いながら言った、「あらたまって相談するほどのことじゃないでしょ」
「うん、ありがとう。かのがね、二人に話したいことがあるって」
そよはほっとした様子だった。
「かのが?それは珍しい」つぐは意外だという顔をした。
三人はそれぞれ家に帰り、お昼ごはんを食べてから、そよの家に近いバス停で待ち合わせをすることになった。
久しぶりに揃ってバスに乗った三人は、車内の一番後ろの横長の座席に並んで腰かけ、時々、道路の凹凸に身体を上下させられながら、おしゃべりをしていた。さくらベースに着くと、みんなは勉強部屋にいたが、三人はかのに招かれて二階の書斎へと向かった。つぐとももえは書斎に入るのは初めてだった。狭い部屋の中、テレビの前につぐとももえが座って、その後ろにかのとそよが座った。一緒に観てほしいものがあると、かのが言ってテレビの電源を入れ、リモコンのボタンを押した。テレビの画面に映し出されたのは、夏休みの終わりにそよとかのが二人で観た、あの少女たちの映像だった。
つぐとももえは興味深そうに画面を見つめ、そよは二人の後ろから、画面の中で少女たちが踊っている姿をうっとりと眺めていた。
「すごいね、かっこいい」
映像が終わると、つぐが言った。
「そうでしょ?」かのは、リモコンを操作してもう一度映像を最初から流した。
「わたしたちと同じくらい?小さい子は小学生だよね」つぐは画面を見ながら言った。
「制服がかっこいいね。派手じゃないけれどきりっとして、統一感があっていい」
ももえは評論家のような口ぶりで言った。
「うん。それでね」かのは、隣に座っているそよに目配せをした。
「このダンスをみんなで踊ってみない?」
かのの言葉に、つぐとももえは驚いて振り返った。
「え?わたしたちも一緒に、ってこと?」
つぐは眉と眉の間にしわを寄せ、いぶかしそうな顔で言った。
「そう。寮のみんなにはまだ言ってないけど、先に二人に話したかったの。つぐとももえがうんって言ってくれないと、先に進まないから」
かのは大きな目を輝かせながら、つぐとももえの顔を見て言った。
当然のように、つぐは提案を拒否した。
「いや、無理だよ、それは。力になってあげたいけど…」
ももえは少しの間顎に手を当てて何かを考え、それから目を上げてかのを見た。
「かのちゃんが教えてくれるの?」
「そう」
かのは力強くうなずいた。
「練習して、その後はどうするの?どこかで踊る?」
「うん。地区のバザーで踊る」
この周辺の地区では昔から秋にバザーと地域の祭りを兼ねたような催し物があって、さくらベースは波子さんの父親の時代からその催しに参加をしているのだという。
「それはいつ?」
ももえは続けざまにかのに尋ねた。つぐは自分が画面の中の彼女たちと同じダンスを踊るということを全く想像できずにいたが、ももえは、かのの表情をしっかりと見ながら何かを思案し続けているようだった。
「十一月の初め」
かのは答えた。
「どう思う?」ももえはつぐの顔を見て言った。
「わたしには、できるとは思えない…」
つぐは、弱々しく首を横に振った。
「そよちゃんは知ってたんでしょ?できると思うの?」
「わたしは…」
ももえに問われたそよは、ほんの少し考えてから答えた。
「できるかどうか分からないけれど、やりたいって思った。かのから話を聞いた時に」
ももえはその答えを聞いて、少し安心したように微笑んだ。
「そうだよね。できるかどうかなんて分からないよね」
それから、つぐに向かって言った。
「あんまり深く考えなくてもいいんじゃないかな。わたしは楽しそうだと思うよ。練習の時間は二カ月あるし、かのちゃんが教えてくれるなら、なんとか形になりそうな気もする。それに…」そこで、ももえの声は小さくなった。
「高校生になったら、もうそんなに機会はないでしょ?みんなでこういう事できるの」
ももえは、少し照れくさそうに、つぐを顔を見た。
つぐは困ったような表情を浮かべていたが、やがて自信のなさそうな声で言った。
「楽しそうだとは、わたしも思う。うん。ももえがそう言うなら…」
つぐの言葉を聞いて、そよの顔はぱっと明るくなった。そよとかのは視線を合わせ、嬉しそうに笑った。
「ありがとう!」
かのは大きく笑いながら言った。
「それで、もう一つ大事な相談なんだけど」かのは、すかさず言葉を継いだ。
「さくら寮の子たちと、ゆめ、わたしたちを合わせると、十人。だけど、このダンスを踊るのには、十二人必要なんだよね」
「うん。思ってたよ」ももえが冷静な口調で言った。
「一人はわたしが連れて来られそうだから、あと一人」
かのはそう言って、つぐを見た。
それから、そよがつぐを見て、ももえもつぐに視線を移した。
「えっ、わたし?」
三人は示し合わせたようにじっとつぐを見ていた。かのは眉に力を込め、目を一層輝かせながら、そよは申し訳なさそうに、だが固い意志を感じさせる表情で、ももえは子供が母親におもちゃをねだるような顔で、つぐを見ていた。
「わかった、わかったよ。みんなでそんな顔して見ないでよ」
つぐは、視線から逃げるように身をそらした。
「わたし、多分みんなの足を引っ張っちゃうと思うから、自分ができそうな事はやるよ。考えてみる」
つぐは諦めたような、だが心を決めたような調子で言った。
かのがほっとしたように、よかったあ、と部屋中に響く声で言い、いかにも大げさなその姿が可笑しくて、三人は破顔して笑った。
一緒にダンスを踊ってくれる子を探す。見つかったら、次の土曜日にさくらベースに連れて来る。その二つを、つぐがかのに約束して、その日の話し合いは終わった。
「どうしても無理そうならわたしも何か考えるから、探してもらえると嬉しい」
帰り際、かのはつぐにあらためてお願いをするように言って、「じゃあ、土曜日に。うわばき、忘れないでね!」と、顔いっぱいの笑顔で三人に手を振った。
§
帰りのバスの中で、そよはしきりにつぐに謝っていた。
「ほんとにごめんね。一緒に踊ってほしいって頼む、っていう話だったんだけど、つぐちゃんにこんなお願いをすることになるなんて思ってなかったの」
「いいって。まあ、わたしだって、頼りにされるのは嫌な気持ちじゃないし」
つぐは気丈にそう言ったが、実際はかのやそよの期待に応えることができるかどうか不安だった。
ダンスの経験は無くてもいいから、とにかく元気で誰とでも仲良くなれる子。それが、かのがつぐに提示した理想の人物像だった。もちろんそれは理想であって、人数が揃えば贅沢は言わないと、かのは付け加えてくれたが、つぐ自身も先ほど四人で観たあの少女たちの溌剌としたダンスを、さくらベースの子たちと一緒に踊るのならば、かのが言った理想の人物像は納得できるものだった。
バスを降りてそよと別れ、つぐとももえは手を繋いで分かれ道まで歩いた。
「大丈夫?」
分かれ道で、ももえは心配そうに言った。
「わたしに心当たりがあれば良かったんだけど…」
ももえはすまなさそうな顔をした。
「大丈夫、なんとかする」
つぐはももえを安心させようとして笑った。
自信はなかったが、その役はももえに任せるのではなく、自分がやらなければいけないと、つぐは思っていた。家に帰り、宿題をして、家族と夜ごはんを食べている間も、つぐはずっとそのことを考えていた。何人か、同い年や年下の友達の顔が頭に浮かんだが、結局、つぐはその中でいちばん仲の良い女の子に頼んでみようと決心したのだった。
夜ごはんを食べ終わって八時を過ぎた頃、つぐはTシャツにジーンズとサンダルという格好で家の玄関を出た。
つぐの家は広い敷地の中に三棟の建物が建つ大規模な集合住宅で、部屋は三棟のうち敷地の入り口に近い道路に面した建物の三階にあった。つぐはエレベーターで地上まで降り、街灯に照らされる植え込みを横目に見ながら敷地の奥に向かって歩いた。
つぐが誘おうと考えた友達は、いちばん奥の建物の二階に住んでいた。建物に着くと、つぐは今度はエレベーターを使わず、ざらついたコンクリートの階段を上り、目的の部屋の前まで歩いてドアの横の呼び鈴を鳴らした。
インターホンから母親らしい女性の声が聞こえ、つぐは名乗り、挨拶をした。
「あら、つぐちゃん。どうしたの」
「遅くにすみません。みき、いますか?」
「いるわよ。ちょっと待っててね」
しばらく時間をおいて、内側から鍵を開ける音が聞こえ、ドアが開いた。
「つぐちゃん!どうしたの?」
出てきた少女はびっくりしたような顔で言った。〝みき〟は、ももえと同じくらいの背丈で、長い真っ直ぐの髪の毛を背中のあたりまで降ろし、前髪をヘアピンで留めて、美しい楕円のカーブを描くおでこを見せていた。つやつやと張りのある健康的な肌で、しっかりとした意志を示すような大きな鼻と、温和な性格を思わせる柔らかそうな頬をしている。丸みを帯びた厚い唇は感情が動くたびに様々な形を描き、眉尻の下がった濃い眉毛と、はっきりとした二重の大きな目、特に小指の先ほども長さがあり、勢いよく反り返るように上を向いた睫毛は美しい造形で、全体の顔のつくりに対して少し大人びた雰囲気だった。
みきは中学一年生で、つぐとは学年が二つ違うが、同じ集合住宅に住んでいたので二人はお互いをよく知っていた。みきが幼い頃から二人は隣接する公園で一緒に遊んだし、町会の行事や集団登校などの時には、自然とみきの方からつぐに近寄ってくることもよくあり、つぐは嫌がらずにみきの相手をしていた。それはちょうど、つぐとまりんの関係にも似ているようだった。
「いきなり、ごめん。ちょっと相談があるんだけど…」
つぐはそう言って、さくらベースのことと、かのが提案しているダンスのことを丁寧に説明した。みきは大きな目をくりくりとさせ、時々うなずきながら、面白そうにつぐの話を聞いていた。
「それで、わたしが、友達を一人連れてくることになって…。頼みに来た」
つぐは目を伏せながら申し訳なさそうに言った。
「へえ!」
みきは目をまん丸くして、おどけたような声を出した。
「面白そうなんだけど、つぐちゃんはどうしてわたしの所へ来たの?」
それは、当然と言えば当然の質問だった。
「何よりも元気で明るい子がいいって言われたし、わたし、そもそも性格まで良く知っているような友達、そんなに多くないしさ」
つぐは言い淀むことなく答えた。
その言葉は取り繕うようなところがなく、気が利いてはいないが素直だった。
「みきなら、自信を持ってみんなに紹介できるって思ったから」
みきはそれを聞いて目尻を下げ、左の頬に魅力的な大きいえくぼを作ってにんまりと嬉しそうに笑った。
「もちろん、気が乗らなかったら断ってくれて構わないよ。無理させたくない」
つぐは目を伏せたまま、きまりの悪そうな顔をしていたが、みきは両手を胸の前で小さく振りながらはっきりと言った。
「いや、全然!楽しそうだもん、すごく興味はあるよ。でも、ほんとにダンスの経験なんか無いし、どれくらいできるかは分からないよ?運動神経も、あるのか無いのかっていう感じだし…」
「それは、わたしも同じだから」つぐは、苦笑いしながら言った。
「わたしも夏休みの間、そこへ通ってみて思ったんだけど、本当に子どもの秘密基地みたいな所なんだよ。きっと、気楽な感じで大丈夫だと思う」
みきは安心したように、また顔全体で笑った。
みきの笑顔には見ている人を明るくさせる力があるみたいだと、つぐは思った。それは、かのの笑顔が持つのと同じ力のように、つぐには思えた。
二人はその場で土曜日に一緒にさくらベースに行くことを約束をした。話が終わると、つぐはみきに別れを告げ、軽やかな足つきで通路を歩いて階段を下りた。そして、少し満足そうな顔で、白っぽいコンクリートの大きな建物の上に見える、うっすらと膜がかかった細い月を見上げながら、家へと帰って行った。
§
その週の土曜日の午後、つぐは公園でみきと待ち合わせをして、いつものバス停まで一緒に歩いた。停留所にはももえが先に来て待っていた。そよは少し早めに一人でさくらベースに向かうということだった。
バスの後方の横長の座席に、みきを真ん中にして、三人は一列で座った。ももえとみきはすぐに仲良くなった。相変わらずももえは初対面の人の話を聞くのが上手だったし、みきは元々よく喋るタイプだったから、二人の会話はバスがさくらベースの最寄りの停留所に着くまで流れるように続いて、淀むことがなかった。
さくらベースに着くと、みんなは既に遊技場にいた。みきはベースのような古くて大きい家の敷地に入るのが珍しかったらしく、石塀や母屋を見ては驚きと感心の入り混じったような声を何度も上げていた。
三人は遊技場の入り口で靴を履き替えた。上履きを持って来るのを忘れずにと、かのから言われていたので、三人はそれぞれ真新しい安価なスニーカーを持参していた。遊技場の小さな下駄箱には先に来た子たちの靴が置いてあり、三人が脱いだ靴を入れると、もうほとんど一杯になってしまった。
遊技場にはベースの子どもたちとかの、そよ、ゆめ、それに今まで見たことのない子が一人いた。かのが連れて来ると言ったもう一人の子に違いなかった。書斎にあったソウヤさんのテレビとテレビ台が運びこまれ、姿見鏡の前に置かれていて、みんなはその周りに集まっていた。床にはかのがダンスを教える時に使っているCDプレイヤーも置いてあった。
「全員揃ったね。それじゃあ、まず自己紹介!」
かのが大きな声で言うと、みんなは手を叩いて歓声を上げたり、もう知ってるよと、ふざけた調子で言ったりしたが、かのがまず初めに自分の名前を名乗り、そよがそれに続いた。ベースの子どもたちの多くが、眼鏡をかけていないそよを見たのは初めてだったので、みんなはざわつきながら、いつもと違う、かわいい、などと声を上げた。それから、ここな、さな、みく、ねお、さきあ、ゆめの順に自己紹介をし、つぐとももえの後にみきが名前を名乗ると、みんなからはひときわ大きな拍手と声が上がった。
そして、最後にかのが連れてきた子が残った。
「みこです、初めまして。ダンスが大好きで、かのちゃんに誘われて来ました。よろしく」
その子は少し渋みのある響きの良い低い声で言った。〝みこ〟は、さなと同じくらいの背丈で全身が細く引き締まった身体つきをしていて、一つ一つの仕草からバネのような弾力と敏捷さを感じさせる少女だった。髪の毛を後ろに流して一つに束ね、鉢の開いたような美しい形のおでこをあらわにして、尖った顎にかけて円錐形を逆さまにしたような顔の輪郭をしている。緩やかに八の字を描く眉毛と凛として潤った光を湛える大きな目、向こうっ気の強そうな鼻筋、少し口角が上がってきゅっと結ばれた薄い唇は、どこか猫か豹のような動物的な美しさを思わせた。
「みこはわたしにとってはダンススクールの後輩。ここには電車とバスを使って来ないといけないから、みんなよりも来られる回数は少なくなるかも知れないけど、仲良くしてあげてね」
かのは、みこの肩に手を回しながら言った。
ベースの子どもたちは口々に挨拶をすると、みきとみこを取り囲むように輪を作り、矢継ぎ早に質問を浴びせた。彼女たちが初めてこの場所に来た人に向ける好奇のまなざしと親しみは、つぐやももえを少し驚かせるほどに強く、積極的だった。二人もベースに通い始めた頃にはそれを実感したし、それは学校の友達からは感じたことがないような熱だった。そのおかげで、あっという間にここに慣れることができたのだと、二人はさくらベースで過ごした夏休みを思い返していた。自分たちが普段いる社会では時として疎ましく思われるようなその熱も、ここでは自然で、当たり前にあるもののように思われた。
自己紹介がひとしきり終わると、かのがみんなを鏡の前に集めて、まず、舞台で踊る十二人の少女たちの映像を見せた。みんなはテレビを前に四人ずつ三列で遊技場の床に座り、映像が終わるまで食い入るように画面を見つめていた。かのは、三回繰り返して映像を流した。
そのダンスを覚えて踊るということが宣言された時のみんなの反応は様々だった。
さなは興奮して立ち上がり、ここなとさきあは声を上げて喜び、ゆめは冷静に、かのに本気なのかと確かめ、みくとねおは自信なさげにうつむいていた。
「練習は明日から始めるけれど、幾つか約束をしたいの」と、かのは言った。
一つは、練習が学校やさくら寮での勉強の邪魔にならないようにする。それから、全員が楽しいと感じるようにしたい。それから、怪我は絶対にしないようにする。かのがみんなと約束したいというのは、その三つだった。そして、この中で一つでも守れない事が出てきたら練習はいったん中断すると、かのは言った。
「全員で集まれる時間は限られてしまうと思うけど、少しずつでいいから、頑張って練習しよう。それで、十一月のバザーで、近隣住民センターの体育館の舞台で、みんなで踊る!いつもお世話になっている人たちに、みんなで踊るのを見せたい」
かのは目を輝かせながら、みんなに向かって熱っぽく語った。
それからまた何度か繰り返して映像を観て、その日の残りの時間は、その少女たちが唄っているアルバムのCDをみんなで聴きながら遊技場で遊ぶことになった。かのとそよは何かを相談するつもりなのか、二人で遊技場を出て行った。みきとみこを加えたみんながばらばらと小さなグループを作り、おしゃべりを始めると、ももえがつぐに近寄り、そっと囁いた。
「つぐ、わたし、今日は帰るね」
「えっ、そうなの?一緒に帰ろうか?」
つぐは少し心配そうな顔でももえを見た。
「ううん、大丈夫。みきちゃんと一緒にいてあげて」
ももえは、つぐを安心させるように微笑みながら言った。
さくらベースに近い停留所でバスに乗り、一人掛けのシートに腰を下ろしたももえは、どこか落ち着かない様子だった。いつになくそわそわして、つぐと一緒の時には見せないような不安そうな表情をしていた。バスを降りていつもつぐと別れる分かれ道まで一人で歩き、二股の道を家の方向へと進んだ。家に着き、玄関で脱いだ靴を綺麗に揃えてスリッパを履くと、ももえは少しの間何かを考え、それから心を決めたように、そのままリビングを抜けて台所へと歩いて行った。
台所にはももえの母親がいた。
ももえの母親は、こちらに背中を向けたまま調理に集中していて、ももえが台所に入って来たのにも気が付かないようだった。ももえは荷物を床に置き、声をかけるのをためらうように、しばらく母親の背中を見ていた。
ももえは母親を完璧な人だと思っていた。
東京の大きな企業に勤めている彼女は月曜日から金曜日まで働きながら、家事は父親と分担もしていたが、家にいる時もほとんどの時間を忙しく動いて過ごしていた。平日は仕事を終えて帰って来てから洗濯やその他の家事を済ませ、朝は誰よりも早く起きて朝ごはんの準備をしたりしていたし、学校の授業参観や面談の時は、半日や一日、仕事を休んで時間を作ってくれた。
母親が忙しいながらもできる限り自分の手で家事や料理をこなし、子供たち、特に高校受験を控えているももえに負担をかけないように努力していることを、ももえはよく知っていた。週末には、ももえの母親は次の一週間の常備菜やおかずを下ごしらえして保存しておくために、長い時間を台所で過ごした。母親は料理が得意だったが、今は作りたての食事を食べさせる機会が少なく、そのことをよく謝っていた。
けれども、母親が謝るたびに、ももえの胸のどこかが痛むようなつらさを感じた。今まで何度か手伝いを申し出ようと思ったこともあったが、いつも、仮に手伝ったとしても自分は足手まといになってしまうだけだと思い、結局言い出せないままでいた。
ダイニングのテーブルに片手をつき、ももえが母親の背中を見つめていると、気配を感じた母親がふいに振り向いた。
「おでかけじゃなかったの?」
母親は優しい声で言った。
白いカットソーに黒っぽいリネンのセミロングのスカート、軽やかな水色のエプロンを着たももえの母親は、肩の下までのふわりとした髪の毛も、しなやかで品のある仕草も、大人の女性らしい艶やかさに満ちていて、ももえと同じくほんのり赤みを帯びた柔らかそうな頬をしている。
「うん。今日はもう帰って来た」ももえは答えた。
「そう。お部屋でゆっくりしていたら」
母親はそう言ってまたキッチンの方を向き、野菜を切り始めた。
「ママ、あのね」
ももえはもじもじしながら言った。
「お料理、お手伝いしてもいい?」
母親はびっくりしたように振り向いた。
「わたし、少しだけど、できるようになったと思うの」
「でも…。いいよ、無理しなくても」母親は少し困惑したように言った。
「無理してない。ママとおしゃべりできるの、土曜日と日曜日のごはんの時くらいでしょ?お料理をしている時なら、少し一緒に時間を過ごせるから。もし、邪魔になっちゃうようだったら、やめるけど…」
ももえは顔を赤くしながら一生懸命に言った。
母親は、笑った。どんな顔をしていいか分からないという感じの、たどたどしい笑い方だった。
「…じゃあ、ニンジンを切ってくれる?キャロットラペを作るから」
母親は照れたようにももえから目線を外して言った。
ももえはうなずき、母親の隣に駆け寄った。
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