八月

「前には波子さんのお母さんがいたんだけど、体調を悪くしてしまって弟さんの家で療養しているんだって。それで、今はほとんど波子さんひとり」

 かのは三人の前を歩きながら言った。

 応接室を出て先ほど歩いた廊下を戻り、玄関前を右に曲がるとその先は広縁になっていて、右側に大きな障子の引き戸で仕切られた部屋があった。広縁の木枠のガラス戸の向こうには広い芝生の庭が見えている。

「ここは勉強部屋。といっても、みんな勉強以外のことをしている時間の方が長いけどね」かのはいたずらっ子のように笑って、障子戸を開けた。

 そこは十畳ほどもある広い畳敷きの部屋だった。中央にケヤキか何かで作られた焦げ茶色の古くて大きい長方形の座卓が置いてあり、その上にたくさんの本や画用紙、ルーズリーフ、筆記用具などが散らばっている。

 そして、その座卓を囲むように四人の女の子が座っていた。

「みんな、そよたちに挨拶して!」

 かのが大きな声で呼びかけると、四人の子はそれぞれ取り組んでいたことの手を止め、目を上げて障子戸の方を見た。


「まず、ここな」

 かのは、座卓の手前右に座ってスケッチブックを広げて絵を描いている少女を右手で示した。〝ここな〟は座ったまま背中越しにこちらを見て、はきはきとした声で「こんにちは!」と言った。ここなはくせの強そうな首元あたりまでの短い髪で、右の鬢の毛を後ろに向かって編み込み、どこか少年っぽさも感じさせる不思議な雰囲気を持つ少女だった。かのに似たすばしっこそうな身体つきで、顔立ちは凛々しさと可愛らしさを併せ持ち、力強い線の眉毛、くるりと上向きに反った睫毛に、常に思考を巡らせて瞳の色が忙しく変化する二つのガラス玉のような目、厚みがあって気分とともに様々に形を変える唇の表情が印象的だった。

「笑った時の顔が、波子さんの若い頃によく似てるんだって」

 かのの言葉に、ここなは右手で頭を掻くような仕草をしながら照れくさそうに笑った。


「こっちが、ねお」

 手前の左、ここなの隣でノートに何か書き込んでいた少女は、立ち上がって綺麗なお辞儀をしながら「よろしくお願いします」と、上品な声で言った。〝ねお〟は全身から品の良さが滲み出るような雰囲気を持っていた。雪のような白い肌で、柔らかい曲線の顔の輪郭も、長い黒髪を後ろで一つに束ねて前髪を美しく揃えた髪型も、ちょっと鼻にかかった高くて可愛らしい声も、彼女の上品で可憐な内面を表しているようだった。猫の瞳のようにきりっと美しく、だが微笑むと繊月のように優しく細くなる目と甘やかな唇は柔和な印象だが、その口元に力をこめてぎゅっと結ぶ表情からは、存外に頑固な一面も持っているように感じられた。

「お嬢様っぽいな、って思った?全くその通りだから」と言って、かのは笑った。


「それから、みく」

 座卓の奥、ここなの向かいで図鑑のような分厚い本を開いていた少女は、恥ずかしそうに小さな声で挨拶をして立ち上がった。〝みく〟はほっそりとして手足が長く、背が高かった。そよも同年代の中ではかなり背が高いほうだが、みくはそよと同じくらいか、更に高いくらいだった。南国で育ったかのように自然と浅黒い肌、綺麗に裁断され磨かれた大きい宝石のような目と密度の濃い睫毛、はっきりと筋の通った高い鼻、鋭角な顎の線が美しく、どこか異国的な雰囲気のある美少女だが、挨拶をする姿は伏し目がちで恥ずかしそうだった。

「見た目に似合わず、恥ずかしがりやで家庭的ないい子」

 からかうように言われて、みくは少し顔を赤らめながら抗議するような表情でかのを見た。


「で、あの奥の小っちゃい子が、さきあ」

 みくの隣に座っていた女の子は「はいっ!」と言ってぴょんと立ち上がった。

〝さきあ〟は、立ち上がってもみくの肩下ほどの背丈しかない、小さな女の子だった。肩のあたりまでのつややかな光沢のある髪の毛をピンク色の髪留めで結び、女の子らしい可憐さと同時に、元気に動く両手足がはつらつとした活発さも感じさせた。くりくりとした大きな目は負けん気の強さの表れのように眩しい光を放ち、小さな顔の輪郭に対して形の良い大きな耳と、これも意志の強さを感じさせるしっかりとした鼻筋、そしてげっ歯目の小動物のような大きくて可愛らしい前歯が目立っていた。

 

 そよ、つぐ、ももえが部屋の中にいた女の子たちへの挨拶をそれぞれ済ますと、かのは家の中と敷地を案内すると言い、四人は勉強部屋を出た。

「あと、通いで今日は来ていない子が一人。その子とここなが中学二年生で、みくとねおが中学一年生、さきあは小学五年生だね」

 さくらベースには、寮で寝泊まりする生活を主にしている子と、電車やバスで家から通ってくる子がいた。中学一年生のみくとねおは家が遠方にあるために月のうち大半の日を寮に住み込んで過ごしていて、中学二年生のここなと、今日は居ないもう一人の子は通いだということだった。小学五年生のさきあは家の事情によって親とずっと一緒に暮らすことが難しく、一年の三分の二ほどをさくらベースで生活をしながら、近くの小学校へ通っているのだという。

 本当に色々な子がいるんだな、とつぐは思った。さくらベースでの思い出を楽しそうに話していたまりんの顔が目に浮かぶようだった。

 かのが案内してくれた母屋の中は思っていた以上に広く、たくさんの部屋があった。一階には食事場、台所と応接室、勉強部屋の他に、広いお風呂と二カ所のトイレ、更に八畳ほどの和室が二つあった。応接室の脇には急な傾斜の木製の階段があって二階に上ることができ、二階は一階の半分ほどの広さだったが、四畳半の部屋が一つと六畳の部屋が二つあり、残りは納戸として使われていた。これなら子供が十人くらい住んでも大丈夫そうだね、と、歩きながらももえがつぐに囁いた。

 屋内を見て回った後、四人は靴を履いて玄関から外に出た。そよたちが前に来た時には玄関向いの駐車場に二台の自動車があったのだが、今日はそのうち銀鼠色のバン一台しか停められていなかった。それを見てかのは額に手を当て、しまったというような表情になった。

「ソウヤさんのこと忘れてた!思い出しちゃったなあ…」

「えっ、誰?」

 つぐは思わず吹き出しそうになりながら、かのに尋ねた。かのが口にした奇妙な名前よりも、彼女の声や仕草が可笑しくて自然と笑顔になるのを抑えきれなかった。つぐは、まだほとんど喋ってもいないのに、かのと自分との距離がとても近くなったように感じていた。かのにはある意味で強引に人を惹きつけるような魅力があるのかも知れなかった。

「ソウヤさんは、波子さんの旦那さん。軽トラックで外の仕事に出ていて、いないことの方が多いんだけど、色んな所にみんなを遊びに連れて行ってくれたりもするの。まあいいや。いつか会った時に紹介する」かのは三人に視線を向けながら、大きな笑顔を見せた。

 玄関を出て更に敷地の奥に歩いて行くと、母屋の勝手口の向かいに四角いプレハブの建物が建っている。そばに立つ立派な桜の木とともに、前回訪れた時に三人が気になっていた場所だった。

「ここは遊技場」

 かのは、少し胸を張って自慢げに言った。

 かのが遊技場と呼んだ薄い灰色がかった外観のプレハブの建物は、一辺が十メートル以上もある正方形に近い間取りで、倉庫にしては少し屋根が高く、外壁の高い位置に幾つかの明り取りの小窓が見えた。入口の足元にはコンクリートの段差が作られていて、かのはその段差に足をかけ、扉の閂型のストッパーを外して重たそうに横に引いて開けた。三人がかのの背中越しに覗き込むと、中は確かに子供たちが身体を使って遊ぶのに十分なくらいの広さがあった。

 遊技場の内部は、高い天井に軽量鉄骨の梁がむき出しになっていて、何本かの蛍光灯が取り付けられていた。ベージュ色の壁の下から三分の一ほどに水色の緩衝材が貼られ、入り口の正面向かいの壁には大きい三面の姿見鏡が取り付けられていて、しっかりとニスが塗り込まれて磨かれた木目の床は、べっ甲色につやつやと輝いている。

 そこは、小さな体育館という表現がぴったりの場所だった。


 四人は遊技場の中には入らず、今度はそのまま母屋の方へと戻り、母屋と石塀の間を砂利を踏みながら抜けて庭へと出た。母屋の広縁と敷地の横を通る路地に面した石塀に挟まれるような、芝生の広い庭だった。

 そよは、さっき内側から見た広縁のガラス窓を、今度は庭から家の中を覗くように眺めてみた。四角い木の格子に囲まれたガラスは、その一枚一枚が冬の寒い日に張る水たまりの氷のように少しずつゆがんでいて、勉強部屋の障子戸がうっすらとぼやけて見えた。

 広縁の脇には立水栓でタイルの水受けが付いた水道があり、蛇口から伸びたホースがぐるぐると巻かれて庭の中央にある物干し台に引っ掛けられている。路地に面した石塀と広い道路側の石塀の角には、手作りらしい、褐色のレンガを積み重ねて作られた古びたかまどがあった。石塀に沿ってはサルスベリ、トネリコ、シラカシ、ドウダンツツジ、ヒメリンゴ、キンモクセイ、レモンなどたくさんの木が植えられていて、大きく育ったものもあれば若木もあったが、しっかりと外からの目隠しになっているようだった。

 そして、四人が立っている庭の入り口から見て一番奥に花壇があった。

 花壇は右手側をツタの絡まった園芸用の立て板で仕切られ、その数メートル上の空間に、さきほどの遊技場のそばに立っていた桜の木の枝が覆いかぶさるように見えた。遊技場から玄関の方に向かい、ぐるりと回って庭を通り花壇まで歩けば、母屋を一周したことになるようだった。

 花壇の傍には、Tシャツにオーバーオールを着て頭に二つのおさげを作った女の子がしゃがみ、土をいじっていた。そよ、つぐ、ももえは、その女の子に見覚えがあった。一週間前、三人がさくらベースに立ち入った時に初めに会った子だ。

「ゆめ、こっちに来て!」

 かのが女の子に声をかけると、女の子は手に持っていたスコップをトタンのバケツに入れて立ち上がり、庭を歩いてこちらにやって来た。〝ゆめ〟は、「こんにちは、ゆめです!」と言い、そよたちに向かってにっこりと笑顔を見せた。

「ゆめは小学六年生で、波子さんの娘さん。だから本当の意味でこの家の子、なのかな?可愛くて小さいけれど、しっかり者。さきあと一緒の小学校に通ってる」

 かのはゆめの肩に手を回して、軽くぽんぽんと叩きながら言った。

 ゆめは、見た目も言葉遣いや仕草も、幼さと大人っぽさの間を不思議と自由に漂うような女の子だった。小学六年生よりももっと幼く見える時もあれば、ふとした表情や仕草で大人びて見える瞬間もある。実年齢に似つかわしくない、はっきりとした賢い物言いもするが、かのと話す時には幼さを強調するように上目遣いで甘えるような喋り方もした。ぷっくりとした頬が目を惹き、全体の顔のつくりは柔らかく可愛らしい年齢なりの女の子っぽさに満ちているが、澄み切った漆黒の夜空のように美しい瞳は常に何かを考え、相手の心の動きをしっかり捕えようとしているように見えた。

「この間は、すみませんでした。不審者扱いしてしまって」

 ゆめは三人に向かって申し訳なさそうにぺこりと頭を下げた。その態度がまた大人びていたので、三人はやっぱりまごついてしまった。

「ひと通り済んだかな。戻ろう。波子さん、きっと色々説明してくれるから」

 かのが言って、四人は再び母屋へと戻り、応接室に向かった。


 応接室に戻ると、波子さんはローテーブルにノートを広げて眺めていた。

「おかえりなさい。かのは、ちゃんと案内してくれた?」

 波子さんはノートを閉じて、四人に微笑みかけながら言った。四人はさっきまで座っていたソファの同じ場所に腰をかけた。

「じゃあ、そよちゃん」

 波子さんは、そよの目を正面からじっと見て言った。

「実はね、みんながここへ来るという連絡をそよちゃんのお母さんからもらった時に、家でのそよちゃんの様子とか、つぐちゃんとももえちゃんのこと、お母さんの思っていること、学校の先生とのやり取り、色々とお話を聞かせてもらったの。それで、今日実際にそよちゃんともお話ができて…」波子さんは微笑んだ顔から少し真剣な表情になって話を続けた、「やっぱり、お母さんとお話した時に受けた印象のとおりだったのだけど、はっきり言ってしまうと、学校へ行くためという目的なのであれば、わたしがお手伝いできることはあまり無いように思うの」

 波子さんの言葉を聞き、つぐとももえは波子さんを見て、それからそよに視線を移した。かのもびっくりしたように波子さんの横顔を見た。

 そよは黙ったまま、波子さんを見つめ返していた。

「他の子と同じようにお月謝をもらって、短い時間でもお勉強を見て、そよちゃんが学校へ行きたいと思うならその手助けをして…ということもできるけれど」波子さんは少し間をおいてから続けた、「自分でも分かっているでしょう?そよちゃん、もういつでも学校へ行けるよね」

 波子さんの口調は柔らかかったが、同時に確信に満ちて反論を許さない強さがあった。

「あの、どういうことですか?」

 ももえが、納得できないという様子で波子さんに尋ねた。

「誰かが手を付けて取り除かなければならないような物はないってこと」

 波子さんはももえに視線を向けて答えた。

「でもね、ここには色んな子がいて、ここに来る理由は、みんなそれぞれ違うの。だから、そよちゃんはそよちゃんなりの付き合い方でここに来てくれれば、それでいい。気負ったことを考えなくてもいいのよ」

 波子さんは元の優しい微笑み顔に戻り、聞いている人を安心させるような、低い穏やかな声で言った。

「それでもよければ…。つまり、わたしが世話をするのではなく、そよちゃんが遊びに来てくれるというのなら、いつでもここに来てね。もちろん、ももえちゃんとつぐちゃんもね」

 それからまた少しの時間、何ということもないお喋りをして、三人はその日は帰ることになった。三人は波子さんに挨拶をして暇を告げ、かのが玄関を出て門柱のところまで見送ってくれた。

「また来てよね、三人とも。みんなで楽しみに待ってるから」

 そよはかのの言葉にあいまいにうなずいた。

 かのは、そこに立ったまま、歩いていく三人の後姿をずっと見つめていた。


   §


 そよはさくらベースに行くのをためらっていた。

 波子さんの言葉は優しかったが、なんとなく心の内を見透かされているような気分になったし、その言葉を受けて自分がさくらベースへ行き、どういう立場でいれば良いのかを想像するのが難しく、日曜日は一日中もやもやと考えたまま過ごした。けれども週が明けて月曜日、朝ごはんを食べ終わった頃から、そよはなんだか落ち着かなくなってきてしまい、それで午後になるとなんとなく着替えて髪型を整え、必要なものをキャンバス地の小さな手提げかばんに入れて、母親にさくらベースに行くと言って家を出た。途中で気が乗らなくなったら引き返せばいい、と、そよは考えていた。

 外へ出ると、空全体を薄く覆う膜のような雲の向こうから強い陽射しがアスファルトの地面まで届き、じりじりと暑い天気だった。そよはいつものバス停まで歩き、そこで南へ向かうバスに乗り込んだ。その日のそよは三つ編みを綺麗に作り、藍色と白のチェック柄の半袖のワンピースを着て、軽やかな薄い縹色のスリッポンを履いていた。

 さくらベースに来るのは三回目になるが、つぐとももえがいなかったし、これまでとは明らかに違う感じがして、そよは落ち着かなかった。バスを降り、いつもよりも歩幅を狭めてゆっくりと歩いて、さくらベースの敷地に着くと石塀を指でなぞりながらすり足で門柱の所まで行き、様子を窺うようにそっと敷地の中を覗き込んだ。母屋は相変わらずどっしりとそこにあり、子どもたちの声は聞こえず、外からは、家の中に誰もいないかのようにひっそりとして見えた。

 瀬踏みをするようにためらいながら敷地の中に入り、玄関に向かって何歩か進んだ時、引き戸ががらっと音を立てて開き、母屋から一人の少女が出てきた。そよが会ったことのない少女だった。きっと土曜日に来た時には居なかった通いの子だろうと、そよは思った。

 少女はすぐにそよに気付き、二人の目が合った。

「あなた、そよちゃん!」

 少女は叫ぶように言って、そよが立っている場所に駆け寄ってきた。

「わたし、さな。よろしくね!」

 少女は顔いっぱいで笑いながら、両手でそよの右手をぎゅっと握り、歓迎の気持ちを表すように上下に動かした。〝さな〟は陶器の人形を思わせる透き通るような白い肌で、神秘的な鳶色の大きい瞳が強い印象を与えた。鼻筋が高く彫も深くて、旧いヨーロッパの映画に出てくる女優のような顔立ちをしている。絹のような光沢の滑らかな髪の毛を少し持ち上げ、髪飾りをつけて先端が突起のようになったおさげを左右に作った髪型も凝っているし、淡いピンクのふわりとした生地で飾り襟と腰のあたりに結び紐が付いたワンピースを着て、くるぶしまでの靴下とクリーム色の可愛い靴を履いていて、見た目にもお洒落な雰囲気を持っていた。

「お散歩、行く?」と、さなはそよの目を覗き込むように見つめながら言った。

「えっ。でも、わたし波子さんに会わないと…」

 そよは両手を前に出してあたふたと振ったが、さなは気にしないようだった。

「いいよそんなの、あとで。行こう、わたしそよちゃんとお話ししたかったの!」

 さなは、なかば強引にそよの手を引いて歩きだした。


「かのちゃんの言ってたとおりなのね!細くて、高くて、メガネをかけてる」

 そよの前を歩きながら、振り返って、さなが言った。

 二人はさくらベースの敷地を出て、目の前の道路と、水路にかかった小さな鉄骨の橋を渡り、田んぼのあぜ道を歩いていた。両側には草丈が五十センチほどに育った稲が一面を埋め尽くす鮮やかな緑色の田んぼがどこまでも広がっている。さなは綺麗な靴が汚れるのも構わずに、あぜ道をずんずんと歩いていった。時々さなが小走りになると、肩から斜めにかけている小さな布製のショルダーバッグが踊るように揺れた。

 あぜ道を五分以上歩いて田んぼの向こう側の道路へ出ると、目の前は金網のフェンスに囲まれた広いバスの操車場だった。さなはフェンスの途切れ目から何台ものバスが駐車してある操車場に入った。

「ちょっと、さなちゃん、まずいんじゃない?」

 そよは慌てて言ったが、さなは「大丈夫、大丈夫!」と、気にする様子もなく大股で歩いて行った。

 薄茶けたコンクリート造りの事務所の脇を通り、二人は車庫の敷地を横断してまた別の道に出て更に歩いた。左手に樹の生い茂った斜面が見えてくると道は細くなり、緩やかな登りになった。濃い緑色と茶色が混ざりあったような斜面を左に見ながら、二人は坂を登って行った。午後になってじりじりした暑さは強まっていたし、さなが思ったよりも速く歩くので、追いかけるそよはだいぶ疲れて、首の周りにじっとりと汗をかいていた。大きく弧を描くように緩い登り坂をしばらく行くと左手の森が開けて、舗装された地面が広がる公園の入り口が現れた。

「沼の公園に着いたよ、そよちゃん!」

 さなは嬉しそうに言った。

「公園?森みたい…」

目の前にそびえたつ樹々を見上げて、そよは呟いた。

 公園と言っても、そこは自然の森をそのまま遊び場にしたような場所だった。入り口から枝分かれするように幾つかの遊歩道が伸び、その先には芝生の広場やたくさんの大きな木製の遊具などが点在していた。

 さなは、こっちと言って遊歩道の一つを歩き始めた。

「のど乾いたでしょ?」

 確かに、さくらベースからここまで二十分近くも歩き、疲れと暑さで喉が渇いていた。そよは汗をかいていたことを思い出し、手提げかばんから水色のタオルハンカチを出して顔と首をぬぐった。森の中に入るとスギやヒバ、ムクロジなどの背の高い樹が日よけとなり、幾分か涼しい。さなが先に歩いて遊歩道をしばらく行くと、右手に古ぼけた小さな建物が見えた。

「ジュース飲もう!」

 さなは建物を指さして言った。

 小さな建物は売店だった。かつては明るいピンク色だったであろう外壁はくすんで色褪せ、白とオレンジ色のポリエステルの日よけもすっかりくたびれて、ガラスの自動ドアの向こうの店内は薄暗く濁って見える。赤い袋文字で売店と書かれた、ところどころ破けて穴の開いたのぼりと、息苦しいようなモーター音を立てながら店の前に佇んでいるアイスクリームの冷凍庫がなければ、そこが営業中の店であると気付かないかも知れないほどの寂れた外観だった。


 さなは店に向かって真っすぐに歩いて行ったが、店内には入らずに入り口を通り過ぎ、店の横に立っている飲物の自動販売機に歩み寄った。そこには街中でよく見かける普通のものとさなの背丈ほどの高さしかないもの、二つの自動販売機があった。小さい方の販売機は下の三分の二くらいが赤く、残りは白く塗られ、上の部分には赤に白抜きの炭酸飲料のロゴマークが流れるように描かれている。こちらを向いている四つの角は錆びて塗装が剥げていたし、全体にへこみも目立ち、何十年も前に打ち捨てられ、忘れられてしまったような姿をしていたが、さなは迷わずにその自動販売機の前に立った。

「そよちゃん、お金持ってる?先に選んでいいよ」

 そよは戸惑いながら、手提げかばんから刺し子の小銭入れを取り出した。

「百円!」と、さなが言った。

 そよは自動販売機に近づいてみた。

 それは、ガラス瓶のジュースの販売機だった。

 赤と白の塗装の分かれ目のあたりに硬貨の投入口があり、その左横に窓がある。縦に細長い四角窓には手前に引く把手が付いていて、さなは、お金を入れてその窓を開けるのだと教えてくれた。そよが百円玉を投入口に入れて窓を開けると、中には銀色で丸い瓶のふたが縦一列に並んでいるのが見えた。銀色に流れるような赤い文字、下半分がオレンジ色のもの、紫色のもの。青い三本の矢羽根のような絵、緑と赤の文字が交互に並んだもの、上下の青に挟まれた真ん中の黄色にカタカナで飲料の名前が印字されたもの…。販売機の内側の暗い空間で一列に行儀よく並んでいる銀色のふたは、ひしゃく星の柄の部分のようだと、そよは思った。

 そよはオレンジジュースを選んだ。瓶の首に右手をかけて暗闇から引き抜いてみると、くすんだ透明のガラスの中に人工的で痛いほど鮮やかな橙色が閉じ込められていた。瓶はびっくりするほどよく冷えていて、そよは目をつむり、左手で前髪を横に分けてそっとそれをおでこにあてた。頭がひんやりとして、身体にこもった熱も抜けていくようだった。

 さなは小さい財布を開けて百円玉を探し出し、グレープ味の炭酸飲料を選んだ。二人は自動販売機に付いている栓抜きで瓶のふたを取って、その場所からすぐ近くの、樹々に囲まれた小さな広場にある、古い木製のベンチに横並びで座った。

 そよは瓶の口を唇につけて、オレンジジュースを一口飲んでみた。オレンジジュースはのどが焼けるような甘さだったけれど、その甘さと冷たさが疲れた身体に心地よかった。そう言えば、お祭りで買ったラムネもガラスの瓶に入っていたな。そよは、幼い頃に縁日で買って飲んだラムネのことを思い出していた。


「そよちゃん、さくら寮に来るの?」

 さなが期待を込めたような目でそよを見て言った。

「うん、まだ分からないけど…。あのね、さなちゃん。わたしと話したいっていうのは、どうして?」

「だって、楽しいじゃない!」さなは、さも当然だという言い方で答えた。

「かのちゃんがね、そよちゃん、すごくいい子だって」

「えっ、そうなの?そんなことないよ」

 そよはばつの悪そうな顔で言った。かのがどういうつもりでそう言ったのか、そよにはよく分からなかった。

「そうだよ、言ってたよ。それに、お友達が増えた方が楽しいに決まってるでしょ?今いる子たちも、みんないい子だよ」

 相変わらず、さなは迷いのない声で喋った。

「ここなは絵本作家さんになりたいんだって。たまに学校にも行ってるけど、勉強部屋ではずっと絵を描いてるの。あと、木登りが得意。みくは波子さんのお料理も手伝って、家の中のことをよくやってくれるし、お行儀のこととか教えてくる。ほら、みんなもうそういう事もちゃんとする年齢でしょ」話しながら、さなは夢見るように楽しそうだった、「ねおちゃんは、お勉強、すごく頑張っているの。一度読んでる本を借りたけど、わたしには難しくてすぐに読むのをやめちゃった。さきあは寮でいちばん元気!学校から帰ってくると、すぐに家の中がうるさくなるの。あとね、ゆめは中学生よりもしっかりしてて、さきあの本当のお姉さんみたい。木やお花の手入れが好きで、よくお庭に出てるのよ」

 さなの話は続いた。

 さくら寮は波子さんの曽祖父が建てた家で元は農業をやっていたが、波子さんの父の代に今の形になったのだということ。波子さんは以前は別の施設で働いていて、父親が亡くなり、さくら寮を継ぐために戻って来たということ。ソウヤさんは外で色々と動き回ってさくら寮のためになる仕事をしてくれているらしいが、子どもたちは詳しい事は知らないということ。遊技場は家が昔から持っていた畑を売って、蔵と農具の納屋が建っていた場所に造った自慢の建物だということ…。

「それから、かのちゃんはね」さなは、いっそう楽しげに言った。

「いつも自転車を三十分、あ、間違えた、四十分こいで来てくれるの。それで、みんなと遊んでくれるし、たまにダンスも教えてくれて、みんなかのちゃんのことが大好き」

 最後の言葉には、ただの言葉以上の強い実感がこもっているようにそよには感じられた。そして、その実感の理由は、昔からかのを知っているそよにも心当たりがあるものだった。

 さなの話はとりとめがないようでいて、さくらベースという場所を留め金に結びつき、バラバラになって飛んで行ってしまうようなことはなかった。さなの話が落ち着いた頃には、そよはさくらベースについてすっかり詳しくなってしまったような気がしていた。


 見晴らしのいい場所に行こうと言って、さなは立ち上がった。空っぽのガラス瓶を自動販売機の横の朽ちかけた木の箱に入れて、二人は森の中を歩いて行った。

 誰もいないバーベキューの広場を抜け、森の遊歩道を歩き、小川に架かった木の吊り橋を渡って斜面を登るように更に歩くと、目の前が開けた丘のような場所に出た。頂の部分には丸太の柵と金網が張られ、向こう側は急な傾斜の下り斜面になっていて、そよは自分たちが高台に立っているのだということが分かった。柵に手をかけてみると、足元の斜面の下には広々とした畑や田んぼと道路、ぽつりぽつりと建つ家々、そして視界の東側にK市と隣の市にまたがる沼のほとりが見えた。

 沼と言ってもそれは湖のような広さの湖沼で、そこにたっぷりと降り注いだ雨水は大きな川に流れ込み、それから海にまで流れて行った。そよは、たまに家族で沼の北側の外周を走るサイクリングコースを散歩したり、近くの釣り堀に行ったりすることはあったけれど、こんな風に高い所から遠景を眺めるのは初めてだった。

 遠くから見る水面は思ったよりも青く、水辺に繁ったヨシの濃い緑色も力強くて、こんなに雄大な風景が身近にあったのかと、そよは少し驚いたような気分だった。

「きれいでしょ?」

 さなは自慢げに言った。

「うん」

 そよは気持ちよさそうに景色を眺めながら答えた。暑さはまだやわらいでいなかったが、遮るもののない丘の頂には風が吹き抜け、そよの三つ編みは風に流されて揺れた。

「さなちゃん。わたしね」

 そよは思い切ったようにさなの方を向いて何かを言おうとした。さなは、そよの言葉を遮るように右手の掌をそよの胸の辺りに向けて突き出した。

「いいの、そよちゃん」

 そよは驚いて口をつぐんだ。

「自分のことは言わなくてもいいの。自分が好きな事をすればいいの。好きな事をしていれば、みんな、そよちゃんのこと、分かるから!」

 それから、さなはショルダーバッグの口を開けて、ポーチを取り出した。

「あげる!」

 さなはポーチの中から白に灰色のまだら模様の巻貝の貝殻をつまんで取り出し、そよの目の前に差し出した。

「耳にあてると海の音がするよ」

「ありがとう…」

 そよは貝殻を受け取り、困ったような顔で微笑んだ。

「さくら寮に遊びにおいでよ、そよちゃん」

 さなは、そよに向けていた視線を目の前の景色に移して、呟くように言った。

 その声はそれまでとは違い、落ち着いていて穏やかだった。


 二人がさくらベースに戻った頃にはもう四時近くになってしまっていた。そよは塾に行く時間が迫っていたので、波子さんに挨拶だけして帰ることにした。

「そよちゃん、ごめんなさいね。さなが無理を言ってしまって…」

 波子さんは申し訳なさそうに言った。

「いえ…。いえ、大丈夫です。楽しかったです。それで、波子さん、わたし…」

 そよは、はじめ少し苦笑いのような表情で、それからすぐに真面目な顔になり、波子さんの目を見ながら言った。

「わたし、また来ます」

 そよの言葉は短かったが、きっぱりとしていた。

 波子さんは、微笑みながら頷いた。

 そよが帰る時には、さなと、勉強部屋にいた子たちが玄関まで見送りに来てくれた。そよは手を振り挨拶をして、さくらベースを後にした。

 帰りのバスの中で、そよは、さながくれた貝殻を耳にあててみた。

 道路のくぼみを乗り越えるたびにバスが揺れて、なかなかしっかりと耳にあてることができなかったが、掌で貝殻と耳を包むようにしてみると、バスのエンジン音や停留所のアナウンスは遠くなり、そよはそのまま目をつむった。

 貝殻の奥の方で、かすかに波の音が聞こえたような気がした。

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