Ⅴ
「わたし思うんだけどさ」
つぐは、少しだけ開けたバスの窓から右手の指先を外に出して言った。
「夏休みに入った途端、急に夏って感じが強くなるの、なんでだろうね」
学校が夏休みに入って十日ほどが経ち、八月になった。つぐとももえ、そよの三人は、もうすっかり乗り慣れたバスに乗ってさくらベースに向かっていた。
つぐが開けた窓の隙間から外の熱気が入ってきて涼しい車内の空気と混ざり合い、三人の座席のあたりは生ぬるいような温度になってしまった。
「閉めてよ」ももえが、たしなめるように低い声で言った。
つぐは慌てて窓を閉めた。
七月、三人の日常には小さな変化があった。そよがさくらベースに通い始めたのだ。
そよは月曜日と水曜日の塾、木曜日のピアノ教室には変わらずに通い、はじめは週に二回、火曜日と金曜日にさくらベースに足を運んだ。
つぐとももえはそれまでと同じように火曜日の放課後にそよの家を訪ねたが、そよはいつも二人が来る時間までには、きちんと家に帰って来ていた。二人は先生から受け取ったプリントや自分たちのノートをコピーしてそよに持って行き、学校では、さくらベースの事も含めて、先生にそよの様子を報告した。先生はつぐにさくらベースの電話番号を教えてほしいと頼み、そして、そよの為に期末テストの模擬答案用紙を用意してくれた。
通い始めた頃から、そよのベースでの時間の過ごし方は定まっていた。
そよは午前九時くらいにベースに着くと、まず勉強部屋へ向かう。子どもたちは九時から十二時まで、間に休憩を取りながら各々勉強をするのが日課だった。その時間は波子さんが勉強部屋にいて、それぞれに課題の内容を教えたり、問題集の答え合わせをする。そよは中学二年生の頃の学習内容をしっかりと記憶していたから、ここなとさなの勉強を見てあげることもあったし、ここなとさなの二人がねおとみくの勉強を見るということもあった。お昼ごはんの後は自由時間であることが多いのだが、そよが自習をしても理解が進まなかった部分などは、その時間を使って波子さんが見てくれたりもしていた。
学習時間の後の過ごし方はみんなそれぞれに自由で、更に勉強をすることもあれば、本や図鑑を読んだり、絵を描く、文章を書く、髪型や服装のカタログを眺める。誰かがカルタやボードゲームなどを出してきて座卓の上に広げる、折り紙やおはじき、あやとりに興じる。なぞなぞやしりとりが始まる、飽きるとテレビをつける、昼寝をする。そんな風にして午後の時間は過ぎることが多く、夕方前にはゆめとさきあが小学校から帰って来た。
みんなの居場所は勉強部屋だけではなかった。
独りになりたいと思えばふらりと他の部屋にも行くし、庭に出て雑草をむしり、芝生を刈ったり花壇をいじったりもした。それから、敷地の外に出ることもしばしばあった。さなはよく散歩に出たし、他の子たちも近所を歩いたり近くの日用雑貨店まで買い物に行くこともあった。波子さんが付き添って(時々はソウヤさんの場合もあった)、古くから付き合いのある農家の畑を見たり、午後の作業を見学しながら手伝わせてもらったりもした。今年はもう終わってしまったが、田んぼの田植えを手伝わせてもらっているのだと、さなとみくが誇らしげにそよに言った。秋になったら稲刈りをさせてもらい、収穫したもち米をもらえるのだという。
夏休みに入ると、そよは週のうち四日をさくらベースで過ごすようになった。月曜日は午後まで、火曜日と金曜日は夕方まで。そして土曜日は夜ごはんもさくらベースで食べてから家に帰るようになった。過ごす時間が長くなったのは、火曜日につぐとももえからノートのコピーを受け取る必要がなくなったこともあったし、そよ自身がさくらベースに慣れたからでもあった。
つぐとももえが、そよに、普段さくらベースで何をしているのか尋ねたことがあったが、そよの答えははっきりしなかった。
「うーん。わたしもよく分からない。みんなの遊び相手かな?」
そよは困ったような顔で、でも、まんざら嫌でもなさそうに答えた。
学校が休みに入る前は、そよとかのがさくらベースで会う時間は短かった。
かのは火曜日を除く平日と土曜日にやって来たが、そよとは入れ違いになることがほとんどだった。かのは学校が終わるとそのまま自転車でやって来た。かのが通う第二中学校では、自宅から学校までの距離が一定以上ある生徒には自転車通学が認められていた。そよたちの第五中学校よりも市の南側に位置していて、さくらベースまでは数キロほど近かったが、それでも自転車をこぐと四十分近くかかるくらいの距離があった。かのは、暑い日には汗だくになって、風の強い日には髪の毛をぼさぼさにして、雨の日には雨合羽を着て、自転車でさくらベースにやって来た。
夏休みに入ると、かのはお昼ごはんが終わる頃に、家の用事を済ませてやって来るようになった。そよとかのがさくらベースで一緒に時間を過ごすようになったのは、夏休みに入ってからだった。
かのはみんなに勉強を教えることはあまりしなかった。かの自身は頭の回転も速いし、決して勉強が不得意というわけではなさそうだったが、自由時間を使ってみんなが勉強をしている時には、そこに割って入ることは避けているようだった。彼女の本領が発揮されるのは、遊技場に行く時だった。遊技場はかののホームグラウンドであり、そこでは、かのはいつも以上に元気で活き活きとしていた。
遊技場にはマット、大小のボール、フラフープ、竹馬、バドミントンの羽根とラケット、その他にも色々な遊具が置いてあり、ソウヤさんが閉店する卓球場から譲り受けてきた卓球台まであった。かのはみんなを率いてそれらの遊具を使ったり、色んな種類の鬼ごっこや、ハンカチ落とし、だるまさんがころんだ、縄跳び、手押し相撲などを、みんなの中心になって自らがいちばん楽しみながら遊んだ。
そして、時には勉強部屋に置いてある黒くて丸っこい形のCDプレイヤーを遊技場に持ち込み、音楽をかけながらみんなにダンスを教えた。かのは幼い頃からダンススクールに通い、ダンスを習っていた。それは中学三年生になった今でも続いていて、かのが火曜日にさくらベースに来られないのは、ダンススクールのレッスンに行くためだった。そよは、小学生の時にかのが「わたし、踊るのが大好き」と、瞳を輝かせながら熱っぽく話してくれたのを覚えていたし、何度か実際に彼女が踊る姿を見たことも記憶の中に鮮明に残っていた。
かのが遊技場でみんなに教えるダンスは、もちろん本格的なものではなかったが、壁に取り付けられた三面の姿見鏡(これもソウヤさんが駅前のバレエ教室が改装する時に引き取ったものだった)の前で、色々な音楽を流しながら、たっぷりと時間をかけて、みんなで身体を動かした。
さなが言っていたように、さくらベースの子どもたちはかのを心から慕っていたし、かのと遊ぶのが楽しくてたまらないという風に見えた。
つぐとももえは、夏休みに入る前に一度、さくらベースに遊びに行った。
そよと三人で土曜日の午後にさくらベースに着いて、勉強部屋でみんなとお喋りしたあと、遊技場で遊んだ。かの、そよ、つぐ、ももえとベースの五人の子どもたち、それにゆめを合わせて十人で遊ぶのは騒々しいと言っていいほどに賑やかで、みんなが遊技場にいる間はずっと笑いと叫び声が途切れることは無かった。
遊技場に十人集まると、普段はなかなかできない大縄跳びや五人対五人のドッジボールなどもできたし、他の遊びも楽しみ方が増えて、二時間や三時間はあっという間に過ぎてしまった。そんな風だったので、つぐとももえは二人ともたった一日の短い時間で、ベースのみんなに懐かれた。子どもたちは訪問者をいつでも無条件に歓迎したし、一緒に遊んでくれる人が増えれば増えるほど嬉しいようだった。
§
その日、八月の最初の土曜日だったが、そよ、つぐ、ももえの三人はさくらベースでの夕食会に招かれていた。かのがそよに提案し、夕食会というのは大げさに言っただけで、実際には三人が遊びに行って夜ごはんをご馳走になるというだけのことだったのだが、話を聞いてつぐとももえは喜んだし、特にももえはその誘いを受けてとても嬉しそうな顔をしていた。
三人が午後三時過ぎにベースに着くと、みんなは遊技場にいた。
遊技場には靴を脱いで上がるのが決まりになっていたが、ベースの子どもたちは激しく身体を動かしたりするので、屋内用の運動靴を入り口の小さな下駄箱に置いていた。そよも通い始めてしばらく経ってから新品のスニーカーを持って来て、上履きとして使っていた。つぐとももえは、来客用のスリッパを履いて遊技場に上がった。
遊技場の出入り口に三人の姿を見つけるとみんなは歓声を上げた。さきあが「つぐちゃん!」と叫んでつぐに飛びついてきた。つぐは何故かさきあに特別に好かれているようだった。
夕方までは遊技場でみんなで遊び、六時頃に家の中に戻って勉強部屋へと移った。
台所では波子さんが夜ごはんの準備を始めていて、みくとそよは波子さんを手伝いに台所へ行くと言った。
「そよちゃん、お料理手伝うの?」
ももえが少し驚いたようにそよに言った。
「うん。家でもたまにお母さんと一緒にやったりするんだけど、ここでも何回か波子さんのお手伝いをさせてもらったの。ももえちゃんも来る?エプロンあるよ」
「えっ、わたしはいいよ、やったことないもん」ももえは恥ずかしそうに手を振った。
「やってみたら楽しいよ」そよは笑いながら言った。
「今日持ってきたプリンも、お母さんと二人で作って来たんだけど」
そよは時々母親の手作りのお菓子をベースに差し入れしていたが、その日は焼き菓子ではなく、保冷バッグに手作りのプリンを入れて持って来ていた。
「そよちゃんは器用だから。わたしはたぶん足を引っ張っちゃうだけだから、いいよ」
ももえは、苦笑いしながらそよの誘いを断った。
それから夜ごはんが出来上がるまでの時間は、みんなはテレビを観たりおしゃべりをしたりしていた。途中でかの、ゆめ、ねおの三人がお膳支度をするために勉強部屋を出て行った。ももえは何となく落ち着かず、何度か台所の様子を覗きに行ったりしていた。
夕食会は七時少し前に始まった。
波子さんは、料理が上手だった。特別に豪華なものを作るというわけではないが、一つ一つ丁寧に、できるだけ手作りにこだわっていたし、大人数の分を手際よく、しかも栄養のバランスを考えて作るのが得意だった。その日はアスパラガスやオクラ、細く切った根菜などを豚肉で巻いて照り焼きにしたもの、ズッキーニとトマトを耐熱皿に入れてチーズとパン粉をかけオーブンで焼いたグラタン、冬瓜とベーコンが入ったコンソメ味のスープ、小鉢に入った冷たい卵豆腐などがテーブルに並んだ。主菜は必ずその季節の野菜を取り入れて作られ、その他に、ひじきの煮物やきんぴら、マカロニサラダ、卯の花など色々な常備菜がいつも冷蔵庫の中にあって、かわるがわる食卓に上り、子どもたちを飽きさせることはなかった。
食事場のテーブルは普通の家庭に置いてあるものに比べればかなり大きかったが、それでも十人が座ると手狭になってしまい、みんなで肩を寄せ合ってわいわいと騒ぎながら夜ごはんを食べた。つぐとももえは、しきりに美味しい美味しいと言いながら料理をほおばっていた。
「知ってる?これ、ほとんど、近くで獲れたお野菜!」
さなが隣に座っているももえの方に勢いよく振り向いて言った。
「そうなの?家でご飯食べてても、気にしたことなかった」ももえは目を丸くした。
K市は東京に近いけれど、実は野菜や果物が豊富に生り、それぞれの季節でたくさん地の物が食べられるのだと、さなは早口で説明した。
「ももえはさ、いつも馬鹿にするけど、いなかにも少しは良いところがあるでしょ?」
2人の会話を聞いて、つぐは自慢するような顔でももえに向かって言ったが、ももえはちょっぴり頬を膨らませて、睨むようにつぐを見た。
「つぐが教えてくれればいいのに。そういうこと一度も言ってくれないじゃない」
つぐは顔を赤らめてごまかすようにコップの麦茶を飲み、すかさずかのが「カウンターだ」と言って、みんなが笑った。
網戸にした台所の窓からは橙色と濃い藍色が混ざり合ったような光が差し込み、騒がしい蝉の鳴き声は食卓の笑い声と競い合っているように聞こえた。
夜ごはんの後にそよが持って来た手作りのプリンをみんなで食べていると、ソウヤさんが食事場に現れた。つぐとももえは、ソウヤさんに会うのは初めてだった。
ソウヤさんは波子さんと同い年だが、波子さんよりも幾分か子供っぽく見えた。背が高く痩せていて、毛先がくるんとした柔らかそうな髪の毛を自然に分け、顎にうっすらと髭を生やして、いつも目尻を下げて穏やかに笑っていた。昼間はほとんど軽トラックに乗って出かけていて、帰ってくるのは夜九時を過ぎることが多く、波子さんはソウヤさんの帰りを待って二人で夜ごはんを食べていた。
二人がそんな風だったので、ゆめはいつもベースのみんなと夜ごはんを食べた。ゆめが波子さんやソウヤさんと一緒にいるところをあまり見ないから、そよは、波子さんとソウヤさんとゆめが家族であるということをつい忘れてしまいがちだった。
ソウヤさんという変わった名前について、そよがかのに、本名なのかと尋ねたことがあったが、本当は全然違う名前で、もう何年も前にここに来ていた子が好きな絵本の主人公から取って勝手に呼び始めたのがそのままになってしまったのだという。ソウヤさんが夏になるとかぶる麦わら帽子が、その主人公を連想させたからだったらしいのだが、ただしその主人公の名は本当はソウヤではなくソーヤーだから、呼ばれるたびにソウヤさんは変な気分になるらしい、と、かのは言っていた。
その日はまだ八時を回っておらず、ソウヤさんがこんな早い時間に帰ってくるのは珍しかった。
「かのちゃんこれ」と、ソウヤさんはかのに薄い封筒のようなものを手渡した。
「新聞屋さんにもらったんだけど、野球のチケットなんだ。明日の試合の分、七枚ある。行きたい人いる?みんなはあまり興味ないかな」
ソウヤさんは申し訳なさそうに苦笑いした。
「行きたい、行きたい!わたし行ってみたいです!」
真っ先に大きな声で言ったのは、ここなだった。それを聞いて、さな、ねおが手を上げ、ゆめは「かのちゃんが行くなら行く」と言った。
さきあは興味がないようで、首を横に振った。みくは、さきあが残るならわたしも一緒に残るからみんなで行ってきて、と言った。
「あと二枚あるよ」
かのが大きな目でそよを見て言った。そよは、つぐとももえに視線を向けた。
「わたしは明日予定があるの。ごめんね」
ももえはすまなさそうに両手を顔の前で合わせ、それからつぐの方を見た。
「じゃあ、わたし、そよが行くなら行こうかな」
そうして、七人で野球を観戦しに行くことが決まった。
「ソウヤさん、教えて。ルール!ね?」
ここなはテーブルに手をつき、身を乗り出すようにして、初めて観に行く野球のルールを、ソウヤさんから細かく聞き出していた。
§
次の日の朝、そよとつぐは二人でバスに乗って駅に向かった。さくらベースのみんなとは駅で待ち合わせをしていた。二人が駅前のロータリーで待っていると、ソウヤさんが運転するおんぼろの銀鼠色のバンがやって来た。バンは運転手を含めて十人が乗れる大きさで、ベースの子どもたちが大勢で出かける時に活躍していた。
「あれ、かのも乗って来たの?」
みんなと一緒にバンから降りて来たかのを見て、つぐが言った。
「どっちにしろ、一度、寮に戻るでしょ?だから自転車は置いてきた」
かのは白い歯を見せて笑った。
ソウヤさんは運転席の窓から顔を出し、「じゃあ年長組、引率よろしくね」と言って、車を発進させた。
七人は駅の入り口の階段を上って構内に入り、券売機で切符を買ってホームに降りた。午前十時を回ったばかりで、試合が始まるまでにはまだ時間があったが、早めに出かけることにしたのは、球場が原宿に近い駅から歩いて行ける場所にあるので、せっかくだから原宿の街を見て行こうと、かのが提案したからだった。
電車の中では、かのとゆめが隣り合わせて座り、残りの五人はその向かいに一列で座った。五人の列の真ん中に座ったここなは、昨日の夜にソウヤさんから聞いた野球のルールを、左右に交互に顔を向けながら一生懸命みんなに説明していた。
「いい?ボールを投げるでしょ。それが飛んで来たら、バットで打つ。バットは木でできてるの。打ったら、走る。右にだよ?左に走っちゃだめ」
「ここなちゃん、打ったら、守っている人はどうするの?」
ここなの左隣に座っているねおが首をかしげて尋ねた。
「ボールを捕って、打った人が一塁に着く前に投げたら、アウト。あと、地面に落ちる前に捕ってもアウト」
ここなは身振り手振りを混ぜて説明したが、一生懸命なわりになんとなく曖昧な言葉ばかりだったので、みんなはあまり理解をしていないようだった。うろ覚えでルールを知っていたつぐが、通訳のようにして説明をし直したりしていた。
「あと、それから、傘。傘がきれいなんだって。ソウヤさんが言ってた」
ここなは、両手で頭の上に大きく開いた傘の形を作った。
今から行く球場では、観客が応援にビニール傘を使うのだそうだ。わたしたちは『三塁側』の席に座るから、反対側の席の観客が広げるいろんな色のビニール傘がきれいに見えるはずだと、ここなは興奮しながら説明した。聞いているみんなは、ルールの説明よりもビニール傘の応援の方に興味が湧いた様子だった。
緩行の電車は少し走ってはすぐに駅に停まってを繰り返し、大きな川を二つ越えると東京都に入った。鉄橋を渡る時は、電車が大きな音に包まれて振動も激しくなったが、七人は気にせずに夢中でおしゃべりをしていた。
電車が目的の駅に着くと、みんなはまず若い人たちがたくさん集まる商店通りに向かった。夏休みの子供たちや高校生、大学生やもっと上の世代の男女まで、通りには大勢の人がひしめいていた。
歩く時は自然と、そよとつぐがみんなをまとめるような形になった。年長組であるはずのかのは、さなやここなと一緒になって真っ先にはしゃいで飛んで行ってしまうことが多く、時々ゆめに叱られていた。
通りは幅四メートルにも満たない狭い道で、両側にカフェやレストラン、雑貨屋、古着屋、美容室、レコードショップ、占いの店などが、それぞれ統一感のない様々な色と形の外観で、幾つかの横に伸びる細い路地にまで立ち並んでいる。七人は通りの入り口近くの店でクレープを買って食べながら歩き、キャラクターものの雑貨の店や変わった文房具を取り扱う店、奇抜な洋服を売る店などに次々と興味を示して立ち寄りながら、たっぷりと時間をかけて商店通りを抜け、片側二車線の自動車道と広い歩道の大きな通りに出た。
そこからは、そよが、ソウヤさんに書いてもらった地図を見ながらみんなを先導した。みんなは汗をかきながら歩いた。朝から気温が高かったし、陽射しが強くてアスファルトの地面やコンクリートの建物からの照り返しがきつかった。大きな通りを歩き、歩道橋を渡り、信号を幾つか越えて右手にラグビー場が見えると、野球場はもうすぐ近くだった。球場に近付くと同じ方向に歩く人が増えていき、車道には赤い三角コーンが等間隔に置かれて、歩道から溢れてその内側を歩いている人たちもたくさんいた。
植え込みから連なる大きな石の門を通って敷地の中に入ると、アスファルト敷きの広場の向こうに野球場の外壁がみんなを圧倒するように大きくそびえ立っていた。球場の壁は赤レンガと銀色のガラス窓、コンクリートの枠がモザイクのように入り組み、地上部分の左右にはレンガ色の大きなアーチの回廊が伸びている。
「これ、どっちへ行けばいいのかな?」
そよはチケットを手に持ったまま、困ったような顔をした。
「そよちゃん、ちょっと貸して!」
ここながそよの手からチケットを奪い、近くを歩いていた家族連れに「すみません、これ入り口はどっちですか?」と尋ねた。家族連れの父親が、あっちだよ、と、左の方を指さし教えてくれた。チケットに印字された数字のゲートから場内に入れるということだった。七人はアーチの回廊をしばらく歩き、目当ての入り口から球場の中に入った。
コンコースの売店でそれぞれお昼ごはんを買い、ホットドックやカレーライスを斜めにしたりしないように気を付けながら人波をかき分けて歩き、薄暗いトンネルのような通路からスタンドに出ると、見たことのないような広い扇形のグラウンドと、それをぐるりと取り囲む観客席が目に飛び込んできた。みんなは、すごい、と声を上げながら周囲を見回した。
空の青と芝生の緑と赤土の色は目に眩しいほど鮮やかで、何万人もの観客が色とりどりの服を着てうごめき、叫び声や笑い声や歓声は上空で渦巻いてから降ってくるように聞こえた。チケットに記された座席番号の椅子をそよとつぐが探し、七人はやっと席に着くことができた。
「青い!」と、ゆめが言った。
空ではなく、プラスチックでできた座席のことだった。
座席は四人と三人で二列に分かれていた。かの、ゆめ、ねおが前の列に、そよ、つぐ、ここな、さなが後ろの列に座って、先ほど売店で買ったお昼ごはんを広げていると、試合はすぐに始まった。
電車の中でここなが一生懸命に説明していたことは結局ほとんど伝わっておらず、みんなはルールをあまり気にせずに目の前で起こっていることを純粋に楽しんでいるようだった。野球は普通、応援するチームによって一塁側と三塁側に分かれて席に座るのだが、みんなはどちらのチームにも同じように声援を送った。周りの三塁側のチームを応援する人たちは、時々怪訝そうな顔で、でもだいたいは微笑ましそうに七人を見ていた。
投手が投げる球のスピード、打者の反応とバットを振る迫力、打球に飛びつく内野手、鋭い遠投を見せる外野手。テレビの画面で観るのではなく、初めて訪れた野球場という広大な空間で実際に選手たちが走ったり跳んだり、躍動する姿を目にするのは、ルールが分からなくてもそれだけでみんなを興奮させたようだった。
そしてまた、野球場に響く様々な音も、彼女たちの好奇心を刺激した。ボールがミットに吸い込まれた時も、打者がバットでボールを打った時も、普段は聞くことのないような音が野球場に響いた。一塁側と三塁側の観客席を埋め尽くした大勢の観客は管楽器と声と手拍子でリズミカルな応援の歌をそれぞれに歌った。かのは応援の歌を聴くと自然と身体が動くようだった。かのが手を叩き、身体を揺らすのを見て、他の子たちも応援に合わせて身体を動かし始めた。周りの人たちはそれを見て笑い、そよとつぐはちょっと恥ずかしい気持ちで、それでもみんなと一緒になって身体を揺らしていた。
試合は、両方のチームとも投手の調子が良く、得点が入らないまま五回の表まで進み、三塁側のチームが攻撃をしていた。右の打席に立っている、小柄な、だが全身がしなやかな筋肉に包まれているような打者が鋭くバットを振りぬくと、かん高い音を残して打球は左翼席へ一直線に飛んで行き、外野手が空を仰ぐように打球を見送ると、わあっという鼓膜を震わすほどの大きな歓声が三塁側のスタンドから沸き上がった。
「ホームランだ!ホームランだよね?」
かのが後ろを振り返って叫んだ。ここなは目を輝かせて何度も大きくうなずいた。
周りの観客はみな立ち上がり、喜び、ゆっくりと走って本塁へ還ってくる打者を讃えていた。
その回の攻撃が終わり、スタンドに興奮が残る中で攻守の入れ替わりのグラウンド整備がおこなわれている時だった。
「あっ、傘!」
さなが言って、グラウンドを隔てた反対側のスタンドを指さした。
一塁側のスタンドにぽつぽつと傘が開いていた。水色やピンクや緑色の半透明のビニール傘、色々な模様のナイロンの傘が、本塁近くのバックネット裏のあたりから開き始め、一塁側の内野席から外野席の方にまで広がっていった。それはまるで花が咲く様子を早送りで見ているようだった。
「ねえ、おかしいよ。傘の応援は七回だって聞いたよ。まだ五回だよ」
ここなが不思議そうに言った。
傘の花の理由はすぐに分かった。
雨が降っていた。
一塁側にだけ雨が降っていた。
ちょうどピッチャーマウンドの辺りで、球場を二つに分けるように、一塁側にだけ雨が降っていた。
さっきまであんなに晴れていた空に、気が付くと薄くすった墨のような、黒と灰色が入り混じった色の雨雲が現れ、その端の部分がちょうど球場の真ん中あたりにまでかかっていた。一塁側の観客席には強い驟雨が降り注ぎ、手持ちの雨傘を広げている人もいれば、応援用の傘を広げて難を逃れようとしている人もいた。それがちょうど球場の半分だけに広がり、傘の花が開いたように見えたのだった。
雲は空に浮かぶ灰色の巨大な円盤のようにじりじりと三塁側にも迫ってきて、やがて、ざっと音を立てて雨の滴が落ちてきた。七人は悲鳴を上げて手を頭の上にかかげたが、その様子はどこか、暑い空気を冷ますように降って来た突然の雨を面白がっているようにも見えた。
「だめだ、逃げよう!」
雨はすぐに強くなり、かのの声でみんなは荷物をまとめ、慌てて席を立ってコンコースへと避難した。初めはにわか雨だと思われたのだが雨は断続的に降り続くらしく、結局、しばらくすると試合はそのまま中止になるという案内の放送がコンコースに流れた。みんなは残念そうに帰り支度をして、球場を後にした。
球場を出る時に前を歩いていた二人組の男性が、せっかくのホームランが無駄になってしまった、と話していた。
「すみません、さっきのホームランはなくなっちゃうんですか?」
ここなが二人の後ろからひょいと顔をのぞかせて言った。五回の裏が終わらなければ試合は無効となってしまい、ホームランやその他の記録も全て残らないのだと、一人が寂しそうな顔をして答えてくれた。
七人は球場近くのコンビニエンスストアに立ち寄り、ビニール傘を三本買った。そよとねお、つぐとここな、かのとゆめがそれぞれ二人で一つの傘に入り、さなは自分で持って来ていた折り畳み傘を広げて、駅までの道を歩いた。
電車がK市の駅に着いたのはもう四時少し前になった頃だった。七人は駅から南へ向かうバスに乗り、そよとつぐは途中の停留所でバスを降りて家へと帰って行った。
残った五人がベースに帰ると、みくとさきあは勉強部屋にいた。
「お帰り。どうだった?」にこやかに笑いながらみくが尋ねた。
「すごかったよ!雨のカーテンを見たの」さなが、頬を紅潮させながら言った。
「雨が半分だけ降ってたの。あっちにだけ降っていて、こっちは降ってなくて、滝を内側から見てるみたい」
「へえ、すごい。それで、野球のほうはどうだったの?」
「ホームランを見たよ!」と、ここなが大きな声で言った。
「すごいね本物の野球選手は。打ったと思ったらあっという間に飛んで行っちゃう」
「でも記録には残らないって言ってたよ」ゆめがここなの言葉を遮るように言った。
「いいんだよ、打ったことには変わりないんだから!」
ここなは、めげずに答えた。
「そうだね、打ったことには変わりない。確かにそうだ」
かのがそう言って笑った。それから、野球場でのことや電車の中でのこと、繁華街を歩いて色々なお店を見たことなどを、みんなで喋った。途中、さきあがこくりと首を折るようにしてうつむいた。
「お昼寝をしないで、みんなが帰ってくるのを待ってたの」
みくが、くすっと笑いながら言った。
「わたし、眠くないよ」
さきあは抗議をするように眉をしかめたが、もう半分うとうととしてしまっているようだった。
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