Ⅲ
そよは、つぐとももえと一緒にバスに乗っていた。
六月が終わりに近づいた土曜日の午後だった。
市内を走るバスは、駅を出発して北へ向かう路線と南へ向かう路線の二つに分かれる。まりんが書いてくれたさくらベースの住所は市の南端、数年前までは別の町だったが合併によって市の一部となった地区だった。三人はそよの家の前で待ち合わせ、家から五分ほど歩いて、バス通りに出たところにある停留所で南側へ向かうバスに乗車して、その場所へと向かっていた。
つぐから話を聞いた時、はじめ、そよは提案を受け入れなかった。
「外に出るのは恥ずかしいし、わたしそういうところに行ってどう振舞ったらいいのか分からないよ…」
つぐが話を切り出すと、そよはうつむきながら言った。
つぐとももえは無理強いせず、だが粘り強かった。
「そよちゃん、家と塾とピアノ教室の往復だけだとつまらないでしょ。たまには知らない場所に行ってみようよ。だいたい塾とかには行っているんだから、外に出るのが恥ずかしいっていうのは、ないんじゃない?」
ももえは小さな子をあやすような声で言った。
「大丈夫だよ。様子を見に行くだけなんだし、そよが人見知りなのは分かってるけど、わたしたちも一緒に行くんだから。…いや、わたしも人見知りだけどさ。ももえが一緒に来てくれるから」
つぐは一生懸命にそよを説得した。
そうして日を変えて押したり引いたりを幾度か繰り返し、ついにそよが決心をして、六月の最後の土曜日に三人は出かけることになったのだった。雨は降っていなかったが、まだ梅雨が明けない、空に重たい雲が残る蒸し暑い日だった。
「そよ、なんで眼鏡かけてるの?」
そよの顔を見ながら、つぐが不思議そうに聞いた。
つぐたちが家を訪ねた時にはいつもコンタクトレンズを着けていたそよが、この日は眼鏡をかけていた。休む以前に学校にかけて来ていた黒いアセテートのフレームの眼鏡だった。
「わたし、眼鏡がないと視力〇・四だよ」そよはきょとんとした顔で答えた。
「いや、そういうことじゃなくてさ。いつも家ではコンタクトだったじゃん」
つぐの言葉を聞いて、そよは恥ずかしそうに目を伏せた。
「へんなの。普通、逆でしょ」
つぐは綺麗な歯を見せて笑い、二人の様子を見てももえも微笑んでいた。
土曜日の午後だったが、駅と反対の方向に向かうバスの車内は空いていて、三人は一番後ろの横長の座席に、そよを真ん中にして並んで座った。つぐは水色のTシャツにひざの部分に穴が開いた色の薄いジーンズ。ももえはオフホワイトの生地で黒いドット柄が入ったワンピース、そよは袖の短い薄緑の涼しげなブラウスに茶色のスカートだった。
バスは停留所を出発してしばらく住宅街を走り、片側二車線の広い幹線道路を横断すると、両側に田んぼと畑が広がるのどかな道に入る。それから田んぼの水路と並走するように小学校や簡易郵便局、資材置き場、板金塗装工場、消防団の詰め所などを通り過ぎて、またしばらく走ると、今度は旧い商家や蔵がぽつぽつと残るひなびた街道に入った。
ももえはバスに乗ってこんな場所まで来たのは初めてだったらしく、車窓から見える風景を面白そうに眺めていた。
「そういえば」
ももえは何かを思い出したように、そよの顔を覗き込みながら言った。
「そよちゃんの部屋にある丸い茶色のちゃぶ台、古い物なの?」
そよはももえの目を見つめ返してうなずいた。
「うん。おばあちゃんからもらったの。おばあちゃん、今は離れて暮らしているんだけど。あのちゃぶ台、小さいころから大切に使っていたんだって」
「そうなんだ。いつも行くたびに気になってた。味わい深いし、かわいいよね」
ももえは顔をくしゃっとさせて笑った。そよは嬉しそうにもう一度うなずいた。
旧街道はおよそ三百メートルほどで終わり、バスはまたしばらく田舎道を走って、田んぼに囲まれた目的のバス停に着いた。バスを降りた三人は、まりんの字で住所が書かれたメモ紙を頼りにして道なりに歩いて行った。
「ここかな」
数分ほど歩き、その住所らしい場所に着くと、つぐはメモに視線を落として言った。
そこは石塀に囲まれた大きな古い家だった。
つぐの背丈ほどの高さの石塀は幅二十メートル以上にも伸びていて、間に一対の門柱があり、そこが敷地への入り口らしかった。周囲は道路を隔てて目の前が一面の田んぼ、正面から見て右隣は畑、左側は石塀が折れたところに車が通れないくらいの細い路地が走り、その路地を挟んだ隣は竹林になっている。
三人が住んでいる住宅地とは異なる、ももえの言うような、いなかの風景だった。
「ここでいいのかな?」つぐは戸惑いながら言った。
門柱には、そこがまりんの言っていた『さくらベース』である事を示すような表札などは無かったし、石塀の向こうに見えるのは、かなり大きくて古いがこの辺りでは珍しくない、古民家然とした建物だった。けれども向かいは一面田んぼ、両隣は竹林と畑で、隣家と呼べる建物までは距離がある。それらしき場所はここしかなさそうだった。
「ちょっと入ってみようか」
ももえが促し、三人は敷地の中へ歩いて入った。
石造りの門柱には全体に錆びが浮いた古い鉄の門が取り付けられていて、片方に寄せるようにして開いている。敷地の足元は石畳のように舗装されているが、これも相当に年月が経っているように見えた。外から見るだけでも石塀が縦横に長く伸びているのが分かったが、中に入ると思っていたよりも更に奥行きのある広い敷地であった。
母屋となる建物は長方形で、その狭いほうの辺が道路に面した石塀と平行に、広いほうの辺は石塀と直角になっており、つまり門から入ると左手に建物の広い側の全景が見えて、その真ん中あたりに庇が覆い被さった引き戸の玄関があった。全体は黒塗りの木造でかなりの歴史を感じさせる外観だが、大小の本を二冊開いて伏せたように棟から傾斜している屋根だけは、重々しい瓦ではなく、新しく張り替えた黒鳶色の軽量金属のものらしかった。そして、玄関の前まで進むと、木の引き戸の上に丸いすり硝子の電灯と、その下に、黒っぽく変色した古い木の板にかすれた墨の字で『さくら寮』と書かれているのが見えた。
どうやらここで間違いないらしい。
三人はやっとそこが目的の場所であると確信することができたが、玄関には呼び鈴なども付いていないし、見慣れない古民家の、縦に格子の入った木造りの引き戸をいきなり開けるのは勇気が要ることだった。
それで、なんとなく今度はふらふらと建物の周りを歩き始めた。
門から入ると縦長に見える母屋の正面には、農作業に使うような軽トラックと、ところどころ傷ついた、年季の入った銀鼠色の大きなバンが駐車してある。奥のほうに歩いていくと、母屋とは別に簡素なプレハブ造りの、だが決して小さくはないもう一つの建物があり、傍らには、もちろん今は花をつけてはいないが、樹齢を重ねていそうな大きな桜の木が立っていた。その太い枝の一本から、ロープと板で作った手作りのブランコがぶら下がっている。
さくら寮という名前はこの桜の木から名付けたのかも知れないと、つぐは思った。
再び門のほうに歩いて戻っていくと、建物と石塀の短辺の間は砂利敷きになっていて、そこから奥に進めるようだったが、その先は庭になっているらしく、青々とした芝生が見える。さすがに庭に入って行くのはためらわれ、三人はそこで顔を見合わせて立ちすくんだ。
「じゃあ、玄関から入ってみようか?」つぐは、はっきりしない口調で言った。
それでもまだ三人でもじもじしているところに、庭のほうからざくざくと軽やかに砂利を踏む音が聞こえて、小さな女の子が現れた。
「どちらさまですか?」
女の子は三人を見つけると近寄ってきて、はきはきとしたかん高い声で言った。
女の子は小学校高学年くらいで、白いTシャツの上に身体に対してはサイズが大きいデニムのオーバーオールを、裾を何重にも捲り上げて着ていた。小さな頭の両側に二つのおさげを作り、柔らかそうな頬と品の良い口元で、見るからに賢そうな、それでいて可愛らしい外見だったが、三人を見つめる大きな目は見慣れぬ侵入者を警戒するように鋭く光っていた。
「ご用はなんですか?見学の方ですか?見学でしたら玄関へ回って頂きたいんですが」
女の子はそう言いながら手に持っていたトタンのバケツを砂利の上に置いた。
「庭はカンケイシャイガイタチイリキンシなので」
女の子の小さな可愛い見た目と、矢継ぎ早に飛び出してくる言葉の落差に、三人はたじろいでしまった。
突然、彼女は何かに気付いたように右手の人差し指を自分の顎に当てて言った。
「あっ。かのちゃんのお友達ですか?」
「えっ?」つぐは女の子の言葉の意味が分からず、聞き返した。
「買い物に行っていて、もうすぐ戻ると思うんですけど」
女の子は相変わらずぴしゃりとした口調で言葉を続けた。
つぐたちがすっかり女の子の勢いに気圧(けお)されてしまったようにまごまごとしていると、今度は門の方から、三人と同じくらいの年齢の少女が自転車を手で引きながら歩いてきた。
「かのちゃん、お友達とお約束あった?」
小さいほうの女の子はあっけに取られている三人の頭上を跳び越えるように、自転車の少女に向かって大きな声を投げかけた。
「えー?ないよ!」
少女も大きな声で答え、自転車のカゴから買い物袋を二つ降ろした。
小さな女の子から〝かの〟と呼ばれた少女は、バスケットボールの絵が描かれた黒いメッシュ地のだぼっとしたTシャツに、くすんだ黄色のハーフパンツを穿き、足元は動きやすそうなスニーカーだった。ももえと同じくらいの身長だが、筋肉質のすばしっこそうな身体つきをしており、肌は健康的に日焼けして、ゆるく波打つ豊かな髪の毛を顔の横で無造作に束ねている。はっきりとしたふたえの大きな目は力強い光を放ち、意志の強そうな凛々しい鼻筋と、ぽってりと厚くだが緩みのない唇、そして前髪の間から覗く一直線の黒くて濃い眉毛が強い印象を残した。一つ一つの顔のつくりも、鋭角で凛とした顔の輪郭も、強さと美しさの両方を感じさせるような姿だった。
「ごめんね。わたしは手伝いに来ているだけだから、見学だったらここの人に聞いてみて」
かのは買い物袋の一つを手首に引っ掛けたまま、玄関の方を指さして言った。そして三人の顔を順ぐりに見ていったが、急にその視線が一点に止まり、目をまん丸くしてびっくりしたような表情になった。
「そよ!」
かのは叫んだ。
つぐとももえは驚いてかのとそよの顔を交互に見た。
かのの表情はすぐに驚きから喜びに変わったが、そよは困り切ったというような顔で気まずそうに目を伏せていた。
「そよ!なんでここにいるの?元気にしてたの?3年ぶりくらいだよね?」
「うん。ほんとに久しぶり…」
そよは俯いたまま答えた。
「え?ふたり、知り合いなの?」
つぐは混乱したように、眉間にしわを寄せながら言った。
「幼なじみなの。幼稚園の頃からの」
そよが答えた。声は消え入るように小さく、落ち着かないような仕草で両手をぎゅっと握り、右足のつま先を地面に立てていた。
「びっくりした。駅とかですれ違うのならともかく、こんな所で会うなんて。すごいね、偶然!みんなは中学校の友達なの?」
そよとは対照的に、かのは聞いている三人が圧倒されるような勢いで喋った。
「とにかく家の中に入って。ここの人を紹介するから」
そう言ってかのはそよの方へ一歩を踏み出したが、次の瞬間、そよは「ごめん」と小さく叫んで、門の方へ向かって駆け出した。
つぐとももえは驚き、慌ててかのと女の子の二人にごめんなさいと頭を下げて、そよを追いかけた。三人は来た道を戻り、さっき降りたばかりのバス停の少し先にある、反対方向へ向かうバス停まで、早足で歩いた。停留所に着くとほどなくしてバスがやって来て、三人は黙ったままバスに乗り込んだ。
「あの子と、久しぶりに会ったの?もちろん、居ることは知らなかったんだよね?」
バスが発車してしばらく経ってから、ももえがそよに尋ねた。知らない場所に初めて来たうえに、思いもしないようなことが起こって、ももえもつぐも戸惑っていたが、バスが動き出すと少し落ち着くことができた。
そよは、ももえの言葉にこくりとうなずいた。
「かのとは、家も近くて、小さい頃からよく遊んでいたの。すごく明るくて元気で、誰とでも仲良くなれるいい子で…。一緒にいると本当に楽しかったんだよ」
「でも、おかしいよね。あの子、五中にいない」
つぐが言った。そよの家の近くに住んでいるのなら、かのも三人と同じ中学校に通っているはずだった。
「うん。色んなことがあったの」
そよとかのは生まれた家が近く、同じ幼稚園の年長のクラスで知り合って友達になった。おとなしく生真面目で引っ込み思案なそよに対して、かのはいつも元気いっぱいで明るく、その行動は本人が意識しなくても常に周囲の注目を集めた。正反対のように見える二人は、お互いが一人っ子だったこともあり、いつの間にか不思議と誰よりも仲が良くなっていて、かのが『冒険』と称してそよを連れ出し、無茶をして怒られたり、そよがかのの宿題を手伝い、折り紙や工作を教えたりして一緒に遊ぶことが多かった。二人は幼稚園からそのまま同じ小学校に上がり、その関係は小学生になってからも続いた。
だが、小学五年生の時、かのの母親が病気で亡くなった。
母親はかのに似てとても元気で、周りの人を巻き込みながらその場を明るくしていくような人だったのだが、ちょっとした身体の不調から検査で病気が見つかり、それから数カ月で、流れ星が流れるようにあっけなく居なくなってしまったのだった。
かのの母親が亡くなってから、そよとかのは少し疎遠になってしまった。
かのの家には時々祖父母が来たりしていたが、かのは学校が終わるとすぐに帰って家の用事をすることが多くなった。それでも、たまにそよと遊んだ時は、かのは悲しみを表に出すこともなく、以前と変わらずに明るく元気だった。
そして二人が小学六年生の時、住んでいた公団住宅が取り壊されることになってしまい、かのとかのの父親は引っ越さなくてはならなくなってしまった。かのはそよとは違う学区にあるマンションに引っ越していき、小学校を卒業するとK市立第二中学校に入学した。二人が最後に会ったのは小学校六年生の夏休みの終わりだった。
第五中学校には二つの学区から生徒が通っていたが、つぐとそよはそれぞれ別の小学校だったし、そよはこれまで幼なじみのことを話したことは無かったから、つぐにとって(もちろんももえにとっても)、かのは全く初めて知る存在だった。
「でもさ」そよの話を聞き終えると、つぐは言った。
「そんなに仲が良かったのに、最後に会ってから今まで、連絡を取り合うことはなかったの?」
つぐの言葉を聞いて、そよは唇を噛み締めるような表情になった。
「かのから、何度か手紙が来たんだけど…」
そこまで言って、そよは黙ってしまった。
結局、ももえもつぐもその先を促すことはできず、話はそこで終わってしまった。
三人はなんとなくはっきりしないまま、それぞれの家に帰っていった。
つぐは、そよはもう『さくらベース』には行かないだろうと思っていた。
詳しいことは分からないが、そよとかのの間に何か気まずいことがあったのは確かなようだし、かのはどうやらさくらベースに通っているという訳ではなさそうだったけれど、常にかのと顔を合わせる可能性がありそうなその場所に、そよが行きたがるとは思えなかった。
つぐは、土曜日の別れ際に住所と電話番号の書かれたメモの写しをそよに手渡していたが、そよにはもうその気持ちはないだろうと思っていた。ところが、週が明けて火曜日にそよの家を訪ねた時、そよは、もう一度さくらベースに行きたいと、自分から言い出した。今度はちゃんと連絡してからが良いと思ったらしく、そよの母親がさくらベースの人に電話をしてくれたのだという。
「それだったら、お母さんと一緒に行ったほうがいいんじゃない?」と、つぐが言うと「うん、わたしもね、そう思ったんだけど。向こうの人が、お友達と来てくれればいいって…」
そよはそう言って申し訳なさそうにつぐとももえの顔を見た。それで、三人は次の土曜日にまた出かけることを約束した。
帰り際、二人はいつもよりもたくさんのノートのコピーをそよに渡した。
「ついこの前、中間テストが終わったと思ったのに。あっという間だよ」
つぐはうんざりしたような声で言った。
一学期の期末テストが、その週の木曜日から始まるのだった。
「不思議だね」
そよの家からの帰り道を歩きながら、ももえが口を開いた。
「うん。そよ、もう行くの嫌かと思ってた」
「それもそうなんだけど…。そよちゃん、今日、いつもよりもなんだか元気に見えた」
「そうかな?よく分からなかったけど。ももえは良く見てるね」
分かれ道までの間は、つぐがももえの手を引くように少し前を行きながら、いつものように二人は手を繋いで歩いた。
「じゃあね。また明日」
分かれ道でつぐが言った。
「うん。バイバイ」
ももえは応えた。
そして、遠ざかるつぐの背中をしばらく見つめていたが、ふいにつぐが振り返り、もう一度こちらに向かって手を振った。
ももえは、嬉しそうな顔で手を振り返した。
§
七月に入ると雨が降る間隔は少しずつ開くようになり、その間に灼けるような暑さの日が挟まって、長い湿った季節も確かに終わろうとしているのだと感じさせた。
土曜日の午後、三人は一週間前と同じバス停で同じ時間のバスに乗った。二回目だったから、三人とも先週よりもずっと落ち着いていられた。田んぼに囲まれた停留所でバスを降りて歩き、さくらベースに着くと門柱のところでかのが待っていた。
「いらっしゃい、ようこそ!」
かのは元気な声で、少し芝居がかった口調で言った。
かのは、先週会った時と同じような、これから運動でも始めそうな身軽な服装をしていた。つぐとももえはこんにちはと言って軽く頭を下げ、そよはちょっと恥ずかしそうに、かのに視線を送った。
かのが先導をして敷地を歩き、玄関の引き戸を開けて家の中へと入った。玄関はそよたちが住んでいる家のそれよりもずっと広く、たたきの土間はほとんど初めて見るものだった。沓脱石(くつぬぎいし)で靴を脱ぐのに苦労しながら上がり框に上がると、かのが三人分のスリッパを用意してくれた。
家の中は、ずっとそこに居るという風体の柱や梁が、初めて立ち入ったそよたちを威圧するような存在感を示していたが、一方で生活しやすいように所々新しく修繕が施されてもいるようだった。ざらざらとした感触の漆喰の壁は綺麗に塗りなおされ、掃除が行き届いて滑らかに黒光りする板張りの床も清潔感があって、不思議と落ち着く雰囲気だった。
「こっちが台所とダイニング」
かのが指さした先の玄関からまっすぐ伸びる廊下の右側には、大きなテーブルが置いてある食事場と、その奥に広い台所が見えた。四人は廊下をそのまままっすぐ進み、つきあたりの左側にある部屋の戸襖をかのが開けた。
「波子(なみこ)さん、来たよ!」と部屋の中に声をかけ、かのは三人に向かっておいでというように手招きをした。部屋はフローリングに改装された八畳ほどの洋室だった。
「こんにちは」
かのが〝波子さん〟と呼んだ四十歳くらいの女性は、にこにこしながら三人を迎えてくれた。
「ここ、応接室なのよ。一応ね」
笑顔のまま波子さんは言って、三人に、部屋の中央にあるソファに腰掛けるように促がした。布張りのソファは三人が横に並んで座れる大きさで、ローテーブルを挟んで対になっていた。三人はそよを真ん中にしてソファに座った。かのは向かいのソファに腰掛け、波子さんは「ちょっと待ってて」と言って部屋を出ていった。そして、しばらくしてから飲物を乗せたお盆を持って戻って来て、ローテーブルにお盆を置き、かのの隣に座った。
「あなたが、そよちゃん?」
波子さんは、真ん中に座っているそよに言った。そよはうなずき、つぐとももえもそれぞれ自分の名前を名乗り、挨拶をした。
波子さんは相変わらずにこにこしながら、「初めまして、さくら寮の波子です。そよちゃんは、かののことを知っているのね」と言った。
波子さんは襟足を短く刈り上げた黒髪のショートカットで、薄く自然な化粧と、飾り気のないカーキ色のシャツに黒いゆったりとしたリネンのズボンという服装で、全体的に木材をたくさん使ったさくらベースの内装の雰囲気にとても似合っている佇まいだった。一目見て優しいと分かるにこやかな笑いを常に絶やさず、声は聞く人をほっと落ち着かせるようにゆったりと、まろやかに低く響いた。
「ここのことはどうやって知ったの?」
波子さんは三人を顔をぐるりと見回して言った。
「ええと、わたしの知り合いがここの事を…、その人はさくらベースと呼んでいたんですけど、知っていて、それで、そよに行ってみようと誘いました」
つぐは、まりんのことを波子さんに説明した。
「じゃあ、つぐちゃんは、まりんとお友達なのね?さくらベースっていう呼び方、懐かしい」波子さんは、目尻を下げて微笑んだ。
「なんだか不思議ね。かのと、そよちゃん。つぐちゃんと、まりん。お友達のももえちゃんも、そんな繋がりがあってここに来たのね。かのは二年くらい前から、時間がある時にここを手伝ってくれているの。今はほとんどわたし一人だから、本当に助かっているのよ」
波子さんはかのを横目で見た。
「わたしが好きで来てるの。楽しいから!」かのは顔にぎゅっと力を入れたような表情で、丈夫そうな歯を見せて、にかっと笑った。
それから、波子さんは、そよに向かって話し始めた。
会話はゆるやかに、けれどもよどみなく進んだ。波子さんが穏やかに何かを尋ね、そよはゆっくりと考えながら答えたが、会話が滞るようなことはほとんどなかった。
話の内容は簡単なものだった。好きなおかず。得意な教科と苦手な教科。得意なピアノの曲。スポーツは観るのとやるのとどっちが好きか。ひいきの芸能人はいるか。家以外で落ち着くお気に入りの場所はあるか。行ってみたい国や地域はあるか…。時折つぐとももえも交えて、まるでお茶を飲みながらとめどない雑談をしているようだった。学校の話題は一度も出なかった。波子さんは、そよに学校を休んでいる理由を尋ねることはなかった。
「それじゃあ、かの」
話がひと段落すると、波子さんはかのに言った。
「そよちゃんたちに、みんなを紹介してあげて。そして、敷地の中を一回りしたら、もう一度戻ってきてね」
かのはうなずき、「行こう!」と三人に向かって声をかけて、跳ね上がるようにソファから立ち上がった。
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