第36話 『Believe』2
ローラが連れてこられたのは孤島に浮かぶ白い大きな城だった。この地でプリンセスになるのだ、と言われたとき、不覚にも胸が踊った。
親がどこかに消えたのに、その悲しみは、プリンセスという甘美な響きに打ち消されたのだ。それを裏付けるようにフリフリのドレスまでわたされ、ローラは天にも昇るような気持ちだった。
──けれど悲しみは蘇った。
「あなたには、ここで働いてもらいます。プリンセス・ローラ」
ふざけているのと思った。あてがわれた仕事場兼私室は独房みたいな場所だった。
「ここで何をしろというの?」
「──至極単純です」
それだけ言って、案内役の男性は部屋から出て行ってしまった。
「ちょっと!」
呼び止める。え? 戻ってこないの?
「ねえ待ちなさいよ! 何をするのか、せめて説明していきなさい! 単純です、だけ言うなんてありえないわ!」
「ほんとうに単純なんだってえ!」
突如として幼児のような声が聞こえてきた。けれど部屋に現れたのは、十七歳の自分と同じくらいの、ドレスを着た二人の少女だった。
「あなたにはワタシたちの」
「ストレスのはけぐちになってもらうわ!」
「は……? それってどういう……うッ!」
何が、起こった?
少女の一人の拳がお腹にめりこんでいる。呼吸ができない。思わずくずおれる。視界が真っ暗になりかける。
「あははあ♪ 倒れた倒れたあっ! さっすがワタシィッ! 昔ボクシングとレスリングの王者を一突きで倒しただけあるなあ!」
「すごいわお姉さま! 僕もぶっ飛ばしますわあっ!」
背中に突きが入れられる。復活しかけていた呼吸がまた止まった。震える手を伸ばすが、こんな儚いことはない。視界が消えていく。
悍ましいまでの火力の
一撃一撃が重い打突を突きつけてくる、ボーイッシュな次女、スーザン。
(これから、わたしは、こんな二人の攻撃を喰らい続けるの……?)
「あはははは! 綺麗なお姫様ぶっ殺したいけど、この家の人にはできないもんね!」
「かといってこの辺の愚民にドレスを着せるなんて馬鹿らしいものね! よかったあ! 一日中殴れそうな人が来てくれて!」
二人の悍ましい笑いが独房のような部屋に響いている。
(一撃喰らっただけで……呼吸が止まるのに……これを、一日中?)
絶望の中で意識が途絶えた。
──暗転──
意識が戻ったころには日が暮れていた。部屋には舷窓のような窓があって、そこから紫の斜陽が差し込んでいた。
斜陽が演出するのは最期であると相場は決まっている。けれどローラは生きていたし天使の迎えはなかった。
目覚めたローラの身の回りはおそろしいことになっていた。
よだれだろうか、粘性のある液体が水溜まりのようになっている。それに、股のあたりには、黄色みを帯びた液体が溜まっていた。
人前で失禁しながら意識を失ったのだ。尊厳のかけらもない。自分が、プリセンスという名の、奴隷以下の存在であると、残酷なまでに突きつけられた。
「……ふふっ」
思わず笑いがこぼれた。もうそうするしかなかった。ふっ、ふっ、と、肩が揺れる。同時に涙が一滴ずつ頬を伝った。
(こんなの……もう、人間じゃない)
ローラは、家族を失い、家畜以下の扱いをされ、どう生きていいのかわからなくなった。
(死にたい)
こんなことを思ったのははじめてだった。これまで恵まれた生活を送っていたから。
親に頼めば不可能はなかった。なんでもできた。自分は最強なんだと錯覚していた。できないことなど何もないのだと。
──でもそんなことはなかった。
家族を失った自分にはなにもなかった。ただ、圧倒的な暴力に屈することしかできなかった。誇りだった美貌も学力も何の役にも立たなかった。
(パパとママがくれた最高のギフトは……こんな……)
よだれと失禁の泉を見るたびに、先ほどの死にたいという思いが強まった。逃げるように、舷窓の真下にあるベッドに向かう。けれど途中で足を止めた。こんな汚いドレスで眠ってはいけない。
仮にもプリンセスなのだ。着替えくらいはあるはず。部屋の壁には隠し通路につながる扉のような棚があった。開けると、やはりびっしり着替えが詰まっていた。その中にあった、ドレスと同じ紫のネグリジェに着替えた。今度こそベッドまで辿り着いた。
舷窓から外の景色を見る。海辺のサンセットだ。なんて綺麗なんだと思った。
「──何をしている!」
突然、部屋が開いて、男が入ってきた。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ、レディの部屋にいきなり入ってくるなんて、いくらなんでも不躾ではなくて?」
「規則に違反するような者に礼儀を語られたくはない。はやく炊事場へ急げ」
「規則って何よ。炊事場?」
「そうだ。はやく飯を作れ。皇帝陛下、王妃陛下、皇女姉妹さまと兵士四百人分だ。急げ」
「よ、四百人分⁉︎ まさか一人でとは言わないわよね」
「当たり前だ」
ローラは胸を撫で下ろし、炊事場へ駆けていった。殴られ続けて料理までするなんてありえないと思った。けれど他に人がいるならまだマシだ。
──そんなことを思ったのが間違いだった。厨房には誰もいなかった。だだっ広いそこには、ただ無表情に、食材だけが並んでいた。
「ちょっと、一人でとは言わないわよね、って訊いて、あなた、当たり前だ、って答えたじゃない!」
「ああ答えた。一人でやるのか当たり前だということだ」
「……はあ?」
頭が真っ白になった。
「──ああわかった。わかったわ」
頭がガンガン鳴っている。
「わかりましたとも。──一人で、やりますッ!」
そう叫び、ローラは厨房から逃げ出した。
そうだ、一人でやるのだ。すべてを終わらせる。
練炭。入水。絞首。どれがいいだろう。わたしに残されたものは何もないのだ。両親からのギフトである美貌も学才も通用せず、ただ殴られ続け、苦手な料理を四百人以上分用意しなくてはならない。そんなのは無理。無理。無理!
あ、通路の奥に螺旋階段がある。登ろう。ああ階下が騒がしいわ。わたしを探している。見つけ出してどうするのだろう。でもわたしは死ぬだからどうでもいい。そのあとのあんなやつらはどうにでもなればいいわ。
規則的な高さのところにステンドグラスの窓がある。ああ、ここは尖塔なんだ。ときどき外の綺麗な景色が見える。
この高さから落ちれば、命はないだろう。
まだわたしの見た目は綺麗だと思う。だってお母さんがそう産んでくれたんだから。一日虐待されたくらいじゃ汚れないわ。
綺麗なまま、綺麗な景色に埋もれて、綺麗に死ぬ。
ああ最高だわ。死んでしまおう。
螺旋階段をのぼり終えた。
あれ? 扉がある。バルコニーか何かにつながっているのかしら?
開いてみる。飛び降りの出発点もわたしの死に相応しい場所だといいな。
「ああ……」
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