第30話 思い出せ!
1
祭里は頭を抱えながら、勉強机の椅子に、どかりと座り込んだ。
──ギィッ。
甲高い、音がして。
祭里は思わず耳をふさいだ。「うっ……」
まるで車が急ブレーキを踏むような音だった。その音は、あの日のことを、思い出させる。
*
真白のガードレールの向こうに海原が見える。カーブに差し掛かって車体が傾いた。
「おとうさん、まど、あけていい⁉︎」助手席に座る幼い祭里は、舌足らずなあどけない声で叫んだ。
「いいよ」と優しく言われ、祭里は車の窓を開ける。タイヤと地面が擦れる音とエンジン音が耳栓を外したかのように大きく明瞭になった。同時に、波と波がぶつかり合ったり、岩を削ったりするような荒々しい潮騒が聞こえてくる。髪が水分と塩分をはらんだ海風に靡いた。
「ひゃーっ!」祭里が叫んでいるうちに、車は駐車場に入っていった。
「ほら、ついたぞ」駐車場の隅に車を停めた父はそう言って、扉の鍵を開けた。
「海だ────ッ!」祭里は飛び出す。
燦々と照りつける陽光は目がくらむようだ。炙られるような心地すらする。けれど胸は激しく鼓動を打ち、思わず口角が上がってしまう。
砂浜附近の波はそこまで荒くなかった。ざぁぁ、と心を凪がせてくれるような穏やかな音色が聞こえてくる。人々が楽しそうに遊ぶ声も。
「祭里、ちゃんと水着着てきたね?」
母が黄緑のラッシュガードを脱ぎながら訊いてきた。ビキニスタイルの赤い水着があらわになる。
「うんっ!」祭里も頷きながらラッシュガードを脱いだ。その下には紺色のスクール水着を着ている。黄色の水泳帽を被ってもいた。学校の水泳の授業のために買った一式だ。
「夏休みおわったら、いよいよ『おたのしみかい』だもんな、祭里」グレーのサーフパンツを穿いた父が、精一杯の明るい笑顔を浮かべた。「その練習、頑張ってたから、きょうはご褒美だ! いっぱい遊べ──!」
わーい、と祭里は熱い砂浜を駆けていく。波が来て色が濃くなっているあたりにくると、砂浜の温度が低くなった。海水はさらにつめたい。飛び込むや否や、体の芯が一気に冷える心地がした。思わず「つめたっ!」と飛び上がる。浅瀬だったために砂を被ってもいた。
「何やってんの、気をつけないと!」
母は、サンダルを脱ぎながらだったのか、及び腰で言った。
おーい、と父の声。ほっそりとしてこそいるが筋肉質な、色の薄い父の右腕には、スイカを模したビーチボールがあった。反対側には、桃色の浮き輪。
「祭里は泳げないのに海好きだからなあ。とりあえず、浮き輪とビーチボールで遊ぶか」
太陽が少しずつ傾いてゆく。空の色と、それを映す
数時間が経ち、祭里たち家族は、浮き輪でぷかぷかと浮きながら、空を眺めていた。その空は薄い紫から橙、そして赤へとうつりゆくコントラストを示している。まだ夜の様相ではないが、点々としている白い星影が瞬いていた。
「ああ、たのしかった」
夢のような楽しい時間から、少しずつ下降してゆくような、心地よい感覚だ。帰りの飛行機の中から、空港の
ゆっくりと、砂浜に上がる。突然重力から解放されたように、一瞬体が軽くなった。全身から水が滴り落ちる。
母はサンダルを履いて、祭里と父は裸足で、紫みをおびた砂浜の斜面をのぼっていく。
車の近くに来て、父がリモコン式の車のキーのスイッチを押した。エンジンがかかった音がして、車内の暖かい橙黄色のライトが点灯した。なんだか贅沢な感じがする明かりだ。
着替えてから、祭里たちは車に乗り込んだ。祭里は帰りは母と隣り合って後ろの席に座った。例の贅沢な明かりに包まれる。普段ふれない光だからか、妙に胸が躍った。友達の家に遊びに行って──お泊まり会をするような、そんな心地だ。
低空飛行で下降していくような穏やかな気分から、また楽しい気分に変わった。車が走り出す。
「レッツゴー!」
車は海沿いの上り坂を走っていく。祭里は左目の端に海を、右目の端に松の林をとらえながら、なんだか楽しくて、目を瞑って歌いだす。
世界中のこどもたちが、からはじまる、有名な童謡だ。母と父も続いて歌ってくれた。
楽しい。幸せ。この世の明るい感情を、温かい感情を、柔らかい感情を、すべて詰め込んだような、まるで夢の中にいるみたいな感覚の渦中にいる。気持ちいい。心地いい。頭がとろけるようだ。
「ラララ 海も 歌うだろう〜♪」
歌声が悲鳴に変わる。耳をつんざくようなクラクションが耳朶を打つ。がたん、と車体が大きく揺れる。ぐらりと浮く。車がスリップする音がした。なにかにぶつかった。天と地がひっくり返った。わけがわからない。頭から血が流れている。拭うと、錆びた鉄のような嫌な匂いがした。でも……それをもっと濃くしたような匂いがする。
音のない世界に飛び込んだみたいだった。隣の母が何か叫んでいる。座っていたシートと、車体の一部のもともと何であったかわからない部品に潰されて、動けない。
しばらくして、サイレンが聞こえてきた。周りの音が一気に鼓膜に蘇る。怒号、慟哭、不気味に木の葉を揺らす冷たい風。びゅうう、かささ、という自然音が不安感を呼び起こす。
駆けつけた救急隊の人たちに、車の中から出されると、目を塞がれた。それをした女性隊員の、大丈夫だよ、という声は震えていた。涙声だった。手も震えていた。そのせいで、指の隙間から、見えてしまった。
めちゃくちゃになったダッシュボードとシートに下半身を潰され、車のフレームが心臓に突き刺さり、患部からどくどくと出血し続けている父の姿が。
──きょうはご褒美だ! いっぱい遊べ──!
その、父の、優しい、声が。明るい、笑顔が。頭をもたげて、胸をしめつけてきて、ぶわっと、視界が滲んで。
身も世もなく慟哭した。
あれから、祭里は母と共に暮らし、母方の祖父母が家に来てくれた。父方の祖父母は既に亡くなっていた。家に来てくれた祖父も、父と同じく、愛撫の腕が天才的だった。
初めのうちは、魂が抜けたようになっていた祭里も、次第に、元気を取り戻していった。祖父の膝枕で寝て。祖父に撫でられ。幸せ、かはわからないけれど、平穏、くらいではあった。
──そんなある日。
祖父は永眠してしまった。死というより、永い眠りというのが適切な様子だった。温かい毛布に祭里と二人でくるまり──穏やかな寝顔のまま、目覚めることはなかった。
この短い期間に、二人の大切な人を失った祭里。けれど彼女は、もう俯いてはいなかった。
(お父さんの気持ち。おじいちゃんの気持ち。ちゃんと、つないでいかなきゃ)
*
(そうだ、そうだった)
高校生の祭里は、勉強机の椅子にもたれかかりながら、目を、大きく見開いた。
「それで、『心のリレー』をつくるって、約束したんだった。おじいちゃんに」
祭里は、例の打ち合わせのあと、慟哭した時、自分でつぶやいたことを思い出す。
──……ハァ、ハァ。……ちゃん。ごめんね、こんな
そして、先日安斎に言われたことを思い出す。
──これなら前のダメダメなあなたの方がマシだった。
そうだ。あのころの自分は、まだ、その『自分の核』を忘れていなかった。だが、今はどうだ。自分が少しずつよくなっていると慢心して、『自分の核』──祖父との約束──のことをすっかり忘れていた。
(だから……あの続きが、言えなかったのか)
祭里は、カバンを見つめながらそう思った。そして、カバンから、台本を取り出した。
「きっと……言えるはずだ。明日なら……」
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