第29話 スパイラル
1
父の膝に頭を乗せている。その頭がなでられる。心地がいい。父の愛撫は天才的だ。
幸せ。とにかく幸せ。
一生ここに浸っていたい。
けれど、変だ。
父はあの日──
*
目を覚ますと授業中の教室だった。
黒板にチョークで文字を書きつけるカン、カン、という小気味良い音が耳朶を打つ。教室の静けさがその音を際立たせている。
自分の頭が乗っていたのは、温かくやわらかい父の膝ではなく、肉付きの少ない自分の腕だった。祭里は目を狭める。
彼女の意識が冴えわたるよりも早くチャイムが鳴った。時計を見れば時刻は三時五分。六時間目が終わったのだ。すぐさま安斎教諭が教室に入ってきて、ホームルームがはじまる。
「今日から二学期って話は朝もしたけど、みんな、頑張っていこうね!」
こうして見るとごく普通の「いい先生」だ。その明るい笑顔の裏に狂った人生作家の影が隠れていると気づいている生徒はいないだろう。──あんな顔をすることにも。
*
体育館の舞台の下手側に向かって、細波が呟く。
「もう、行くよ」
わずかに祭里の方に顔を向けた。彼の演技を見て、安斎が納得したような様子で首を縦に二回振った。
「──いやです!」
祭里が叫ぶ。安斎は不満そうに首をかしげた。
「なんてもう、いいません。……わっ、わたしは、」
「──駄目! 駄目駄目! そんなんじゃ話にならないよ!」
安斎が声を荒らげて割り込んできた。眉間に寄った皺は深い。それだけ不快に思っているのだろうか。
「ごめんなさい……」
どうして、こうなるのだろうか。続きのセリフは、ついこの間、自分で実感したことであるはずなのに。なぜ、嘘を言っているような心地がするのだろうか。
(わたしはもう、独りじゃ、ないのに)
「はい、もう一回!」
何度繰り返しても無駄だと思う。だが終わらない。終われない。本番までもう数週間しか残っていないのだ。祭里は顔をゆがめる。
だめだ、と思った。こんなことを思ってはいけない。もう、自分の運命を呪うことはしないと決めたはずなのに。
(だめ……。こんなこと、考えちゃ)
あのとき、この劇を受けなければよかった。──でももう、後の祭りだ。
(結局いつも……こうなる)
2
家に帰ってきた祭里は、台所にいる母に挨拶せず、そのまま二階の自室に向かった。
男装の衣装が机の上に置かれている。これも、あるのにと、思った瞬間。急激に、鉛のように重い棒のような何かが、腹の底から、喉を超えて、大きな唸りとなって飛び出した。
それに突き動かされるように、衣装を手に取り、床に投げつけた。
「あっ……」
自分で自分がしたことについて気づいた時、すさまじい罪悪感に襲われた。
(この衣装、かなでちゃんが、徹夜して一生懸命つくってくれたやつなのに……)
その罪悪感は次第に自己嫌悪に変わってゆく。祭里は例の打ち合わせで打ちのめされた日のことを思い出した。
あのとき、何度も地団駄をした。咆哮した。
今も同じではないか。やはり、変わっていない。そう気づいた時、朝に感じた停滞感の正体を自覚した。
(そうだ。わたしの周りのみんなは、変わったのに。わたしだけ、まだ、変わってない)
その気づきすら、かつて経験したことだった。
もういやだと、叫びたかった。やりたいと、自分で言ったことなのに。どうしてこんなにも苦しい。打ち合わせのあとには、才能ないと叫んだ。それでも構わないと、そのあとには思ったけれど。一時的に。
いまは。変わる才能がないと、思わずにはいられない。自分なりに頑張ってきたと思っているけれど、それでもまったく変わっていなかった。変われていなかった。
ふと気付いて、自分の立ち位置を顧みれば、過去とまったく同じ苦しみの中にいる。成長した、はずだったのに。同じ場所をぐるぐる回っているようだ。
頭を抱えながら、勉強机の椅子に、どかりと座り込む。
──ギィッ。
甲高い、音がして。祭里は思わず耳をふさいだ。「うっ……」
まるで車が急ブレーキを踏むような音だった。その音は、あの日のことを、思い出させる。
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