第3章 『心のリレー』

第26話 「まあまあ」

          1


 仄暗い部屋で目が覚めた。もぞもぞ、とうごめくように体を起こす。物の少ない無機質な内装が視界に飛び込んできた。勉強机と、その隣には棚。棚の上には通学カバン。そのくらいしか、ない。

 いつも通りの朝だ。

 素足でリビングに向かう。とん、とん、と小気味良い音が聞こえてくる。そこに入るとキッチンに背中が見えた。包丁片手に料理をしている母だ。青いエプロンを身につけていた。ぱっと振り向いて、にこりと微笑む。


「おはよう、祭里」


 祭里は重いまぶたをこすりながら、「おはよう」と無気力な声で返した。


「ちゃんと目、開きな」小さく微笑む母。


 祭里は母がつくってくれた朝食の配膳を手伝いながら、食卓につく。テレビの方に視線をやった。だが、見ているのはテレビではない。テレビが置かれた台でいつも同じように笑っている父だ。写真の中にいる。何年経っても老けることはない。これまでも、これからも。


「祭里、最近充実してそうじゃない」


 母は「楽しそう」とは言わなかった。


「充実は、してるかな」苦笑しながら答える。嘘は言っていない。「楽しそうじゃない」と言われたら、「そんなことはない」と答えていたと思う。


 祭里は、安斎が自身の秘密を明かしたころのことを思い出す。あれから二ヶ月が経った。大きく前進できているような気もするが、まったく進んでいないような気もする。

 それはきっと。文実や学校全体としては文化祭に向けて着々と進んでいるのに、自分が前に進めていない感覚があったからだろう。


「がんばらなきゃ」



          2


『えーそれでは、一学期の終業式を終了します。続きまして、文実委員からの連絡が……』


 聞き馴染みのある、怜悧そうな司会──生徒会の彼だ──の声がする。それに促され、祭里は舞台裏の暗闇で立ち上がる。

 彼女の足取りに迷いは現れていない。もう人前に立つのも何度目かだ。十分に慣れたのだろう。体育館のステージに立ち、マイクを手にして口を開く。


『みなさん、文実委員長の後野です』


 笑顔は消えない。足も震えない。多少の緊張はあるが、それももう慣れた。


『明日から夏休みに入ります。文実委員からの特段のお願いはありませんが、みなさん、大会や文化祭本番に向け、休みの期間を有意義に使ってください』


 無難に話し終え、無難に頭を下げ、無難にステージから降りる。アリーナ席に座る生徒たちからも無難な拍手がなされる。


「おつかれ」


 薄く笑ってそう言ったのは舞台裏の細波だ。最近の彼の顔からは『毒気』のようなものが抜けた気がする。いままでのような善人さがない。一方で、これまでの「闇を抱えている感じ」も消え去っていた。

 

よかったよ」


 彼はそう続けた。祭里の心は、ぴくりと跳ねる。

 まあまあ。そのレベルに達せるようにはなった。今までの自分では考えられないほどコンスタントに。


 ──だが。これでいいのか。このままでいいのか。


「……足りない。何かが足りないよね」


 そう言ったのは、安斎だった。先ほどの祭里の演説から一時間後の体育館でのことだった。

 祭里の服装も一時間の間に制服から変わっていた。白と空色を基調としたドレスを揺らしている。頭には宝石のように煌めく冠が乗っていた。まさにプリンセスといった装いだ。

 安斎の厳しい声が体育館を鞭打つ。


「可もなく、不可もなく。悪くはないけどよくもない。そんなんで、私の計画の『最終段階』にあたる劇を完成させられると思ってる? これなら前のダメダメなあなたの方がマシだった」


 毒気のようなものが抜けたのは細波だけではなかった。最近の安斎は、辛辣な言葉も遠慮なくかけてくる。


「ほんとに、頼むよ後野さんプリンセス


 マリナが「気にすんな、ガンバ」と肩を叩いてきた。祭里は、苦いものを噛み締めながら笑うような、そんな笑みを返す。


「でもいいんちょー。あんまり無理しないでよ? いいんちょーには、だってあるんだから」


 祭里は、二日前のことを思い出す。


(そうだ、私には、あれもあるんだった……)



 

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