第25話 生きてきた物語(2)
「……正直、許せない」
祭里は、声を震わせながら言った。そんな彼女を、氷室は黙って見つめる。
「氷室くんから野球を奪ったことは、本当に、どうしても、許せない。でも……」
祭里は、下唇を噛みながら、言葉を継ぐ。
「あの人が、ただの狂った人だとは、思えないんだ。だって……」
祭里は、そこまで言って、一度口をつぐんだ。
1
口をつぐんだ祭里は、速水の言葉を思い返していた。
──目を覚ましたとき、病院のベットの上だった。するとすぐに、誰かが抱きしめてくれた。久しぶりの温もり。自然と涙が溢れた。安斎先生だった。ごめんね、と何回も言っていた。でも、あたたかく抱きしめてくれた。
はじめてそのことを聞いたとき、祭里は「速水先輩の苦しみに気づいてあげられなかったことに、先生は『ごめんね』と言ったのだろう」と考えた。
だが、いまは。彼女が速水を自分の物語の駒としてしまったことに、「ごめんね」と言ったのではないかと思う。
(いずれにせよ……)
そう思いながら、祭里は口を開く。
「あの人が、優しい人だってことは、確かだと思うんだ」
速水の母親が死んだことはイレギュラーだったと、安斎は言っていた。つまり。
彼女の「ごめんね」という言葉と抱擁が、速水の苦しみに気づけなかったことに対してだとしても、彼を自分の物語の駒としてしまったことに対してだったとしても、彼女のそのふるまいは、間違いなくやさしさからくるものではないか。
──辛いときに、抱きしめてくれる人がいたら、きっと心強いだろうなって、思ったから。
速水は、そう言っていた。間違いなく、速水が入院時に受けた安斎の抱擁は、やさしさは、彼を救ったはずだ。
「それに、保育園のときにこじれちゃった私たちの関係も、ほとんど修復してる。これは、安斎先生の物語のおかげだと、思うし……」
そう話す祭里の口調には、たしかに感謝の色があった。だが、怒りの色が見えなかったかといえば、嘘になる。
「でも。氷室くんから野球を奪ったこと。細波くんを過呼吸に陥らせたこと。この二つは、許せない」
だけど、と祭里はさらに逆接を並べる。
「ここまで来たなら」
祭里は遠慮がちに氷室の顔を覗き込む。
「氷室くんが、許してくれるなら。最後まで、向き合いたい。もう、名前のせいにして、自分の運命を呪って、逃げたくないんだ」
ふ、と氷室は鼻を鳴らして微笑んだ。「なんで俺の許可がいるんだよ。俺らのリーダーは、お前だろ」
「えっと……」祭里は一歩引く。「いちばん安斎先生に苦しめられたのは、氷室くんのはずだから」
氷室は吹き出した。そして、普段の彼には似合わないほど明るい声で、言葉を紡ぐ。
「ははは。ほんッとに、お前らはどこまでもお人好しだな」
「お前ら……?」祭里は首をかしげた。
「……なんでもねえ」薄く微笑んでいた氷室の口角が、元の位置に戻る。それは決して鼻白んだふうではなく、虚空を、そして未来を見据えているようだった。「……まあ。心配すんなよ。言っただろ。俺はお前との約束に専念するって」
その言葉を聞いた祭里は、氷室と打ち解けるきっかけになった、あの体育の授業があった日のことを思い出す。
──もう充分だ。充分楽しめた。どうせ甲子園には行けないし。俺は、文実に──後野との約束に専念するよ。
授業後、氷室はそう言ってきたのだった。
2
「それじゃあ、答えを聞こうかしら。最終段階に協力してくれるか、否か」
安斎の妖艶な声が、文実委員のプレハブに響く。そよ風が吹き抜け、近くの草が揺れる音がした。
「……やります」祭里、氷室、マリナ、かなで、細波。皆の顔に曇りはなかった。
これまで、安斎の思い描くシナリオの中を生きてきて、それによって多くのいいことも悪いことも経験した。感謝もあるし、許せない怒りもある。──そのすべてを、殺さず、受け入れたような感情。それが、祭里の顔には浮かんでいた。
「私たちは。本当の意味で、保育園のときの……いえ、これまでの因縁と向き合って──前に進みます。もう、自分に蓋をして逃げたりしない。自分の運命を呪ったりもしない。たとえこの人生が、誰かに描かれたシナリオの一部だったとしても。ちゃんと向き合って、明るい未来を……」
自分の紡いだ言葉に、祭里は、気付かされる。
──もし、自分が、誰かの思い描く物語の一部であったら。あるいは物語の一部どころか、走狗であったら。操り人形であったら。それを知った時、どう思うだろうか。
いまの自分は、それにこう答えるだろうと。
抗うでもなく、従うでもなく。
その中で、精一杯生きる。
それしかできないからと、はにかむように笑うだろう。
「……じゃあ、最終段階で何をするか、発表するわね」
安斎の言葉に、全員が姿勢を正した。
第二章 完 第三章へつづく
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