第24話 生きてきた物語(1)
「そろそろ、潮時かな」
音楽室にいた祭里は振り返って、声がした方を見やる。すると、真っ暗になった廊下を背に、扉によりかかって立つ声の主の姿が見えた。
「──安斎、先生……?」
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祭里と氷室がはじめて出会った公園で、氷室は猫──ポン助をなでながら、祭里に話しかける。「……急に呼び出して悪かったな」
「いや、大丈夫だよ」
祭里は言いながら、ふと空を見上げる。青い空に雲はなかった。けれど、その晴れやかさが、かえって祭里たちの心を曇らせる。
「……あの話、どう思う」氷室は、重々しく言った。「昨日の、音楽室での、安斎先生の話だよ」
祭里は、そのことを思い出す。
*
「そろそろ、潮時かな」
夜の音楽室にいた祭里は振り返って、声がした方を見やる。すると、真っ暗になった廊下を背に、扉によりかかって立つ声の主の姿が見えた。
「──安斎、先生……?」怪訝な声を発したのは祭里だ。「潮時って……? どういうことですか?」
対する安斎の顔は、いやに凄艶に見えた。決していつもより化粧が濃いわけではない。どこか恍惚としていたのだ。官能的、というのは客体の艶美さを形容する言葉であるが、今の彼女は、外から見える様子も、そして彼女自身の自意識も、そのどちらも官能的であるようだった。
「そのまんまの意味、だよ。時は満ちたってやつだ」
彼女の口元の
「私は、この瞬間を待っていた。目指すものの実現を願い、そのために動き──いま、それにもっとも近い場所にいる」
得体の知れない恐怖が、祭里たち文実委員を襲う。分からないのだ。彼女が何を言っているのか、一切。
「……ねえまってよ、せんせー。マジで何言ってるか分かんないんだって」
マリナは眉をひそめていた。彼女の声には、本当に理解できないものに直面した人間特有の、「分からない」というストレスを発露させるような険があった。
「……つまりね。運がよかったってこと。まさか実現の瞬間にたどり着けるなんて、思ってもみなかったから。──この十年来の計画の」
これだけ聞いても、まだ彼女が何を言っているのか誰も理解できない。だが、一つだけ自明だったのは、「この十年来の計画」という彼女の唇が紡いだその言葉に、異様な重みがあったことだ。
「後野さん。
沈黙が降りる。その場には、先ほどのマリナの声に込められていたようなストレスが満ち満ちていた。
「──あ、」沈黙を打ち破ったのは、祭里だ。「そうだ……保育園のときの。あの、『おたのしみかい』の劇で、脚本を書いてくれた、あんざいせんせい……」
「正解」
安斎は、やっと思い出してくれた、と呟いたのちに、まあこれまでは忘れてくれていた方がよかったんだけど、と付け足した。
「私はねえ、
「それは……?」祭里が
「──私はね」安斎は艶かしい流し目になって言葉を継ぐ。「この人生を使って、この世を舞台に、最高の物語を作ろうとしているの。記録になんて残らない、観客もいない、私の、私による、私のための最高傑作を」
音楽室に充満している重たい空気は、まだ消えない。それどころか、より重たくなっている気さえする。
「……釈然としない顔ね。じゃあ分かりやすく言うわ。私は──」
安斎の口から、ゆっくりと言葉が流れ出す。
『おたのしみかい』の翌日、後野さんに馬乗りになっている細波くんを見て。雷に打たれたような感覚を覚えた。
──これは、なる。最高傑作に、なる。そう思ったの。
妹を亡くした少年が、その妹が楽しみにしてくれていた劇をめちゃくちゃにされ、それをめちゃくちゃにした少女を恨み──。
二人は、数年後に再開する。お互いの心には、深い傷が残ったまま。
「……しかも。現実が舞台だから、結末がどうなるか、最後まで分からない。究極のドラマトゥルギーよ。ある程度のシナリオは、私の中にあるけれど。これまでも、そしてこれからも、イレギュラーはあり続ける」
たとえば、と言い、安斎は氷室の方に顔を向ける。
「氷室くん。小学生がバッドを持って弱い者いじめをしてる現場に、向かっていったことがあったでしょう。『ダイヤの鬼人』と呼ばれた、あの話ね」
氷室は眉根を寄せた。「あったが、それがどうかしたか」
「あのときに、警察を呼んだのは、私」
「どういう、ことだ……?」氷室が震えた声を発する。濡れ衣を着せられた上に野球を奪われたときのことを思い出しているのだろうか。
「あのとき、たまたま氷室くんを見かけた私は、ピーンと閃いたの。ちなみにだけど、君が後野さんと『心のリレー』についての約束を交わしていたことは知っていたわ。そんな君が、一番大切にしていた野球を失う瞬間を見てみたかった。そして、大切なものを失った悲しみを抱えたまま、保育園のときの因縁と向き合ったらどうなるのか──。それも見たかった」
そういうわけで、彼女は氷室に対する
「もちろん、成功するかは分からなかった。氷室くんの非がないと明らかにされてしまうかもしれなかったし、野球を失った氷室くんが私の赴任した鈴城高校に入学してくれるとも限らなかった」
安斎は、まだ流し目のままだ。
「だから、最大まで成功率を高めようとはした。ただ神頼みするだけじゃあ、変わらないからね。地元新聞社に『ダイヤの鬼人』の話を吹聴して、町中に流布したんだ」
祭里は、顔は動かさずに、目だけを動かして氷室の様子をうかがう。彼は押し黙ったまま、俯いている。拳を握りしめ、震わせてもいた。
「結果、すべてはうまくいった。──そう、ただ単に、運が良かったから。そういう幸運がうまく重なって、今この瞬間があるの」
安斎はまだ話しつづけている。
「他にも挙げましょうか。細波くんに演劇を勧めたのは私だけど、それは、舞台に立てば『おたのしみかい』のことがフラッシュバックすると思ったから。私はとにかく、過去に傷を持つ人間が葛藤し、苦しむ姿が見たいのよ。──イレギュラーは、後野さんたちがそれを観に行ったこと。その結果、より面白い展開になった。それがどういう展開だったかは、あなたたちが一番よく知っているでしょう」
祭里たちが見にいったあの公演で細波が倒れたことも、彼女のシナリオの一部だったというのだろうか。
「まだあるわ。私が速水くんを去年の文実委員長にしたのは、彼が持つ人気者であるが故のプライドを打ち砕くことで、彼に真の心の強さを身につけさせたかったから。……そして、その翌年、つまり今年ね、速水くんを、否が応でも葛藤することになる後野さんを正解のシナリオに導ける人物に育てる必要があった。彼のお母さんのことがイレギュラーだったけれど、それはこの物語にいいスパイスをくれた」
安斎は、祭里の方に顔を向ける。
「最後に、後野さん。──あなたは主人公。私があなたを文実委員長にしたのは、あなたをとにかく苦しめたかったから。苦しんで苦しんで、その中で仲間と協力して、強くなってほしかった。そして、『おたのしみかい』のトラウマを打ち破ってほしかった。そしてそのカタルシスを私が味わいたかった。もちろん、やめさせる気なんか毛頭なかったから、あなたのお母さんに連絡なんて、本当はしてない。──するつもりもなかったけど、あなたが休むというイレギュラーがあったから、少し面倒にはなったけどね」
それを聞いて、祭里は、はじめて登校した日のことを思い出す。
──あれ? 後野さんのお家に連絡したとき、お母様から「ぜひ!」っていうお返事をもらえたんだけど。もしかして嫌だった……?
そう安斎に言われ、祭里は心の中で「何一つ聞いていない!」と母に文句を言ったのだった。しかしあれは、安斎の嘘だったらしい。
「……繰り返しになるけれど。どれも、うまくいくか分からなかった。でも、うまくいった。手嶋かなでさんのこととか、他にも沢山イレギュラーはあったけれど、すべて良いことになった。これはもう、あとは作り上げるしか、ないよね」
安斎はそこまで言って話を終える。彼女の顔は、より一層恍惚としていた。そしてその艶かしい唇が、言葉を紡ぐ。
「狂ってると、思うでしょう? ……今から、仕上げに入るわ。この狂った私の物語を知った上で、あなたたちに協力してほしいことがある。でもそれをするかどうかは、あなたたち次第──」
*
「……正直、許せない」
祭里は、声を震わせながら言った。彼女のことを、氷室は黙って見つめる。
「氷室くんから野球を奪ったことは、本当に、どうしても、許せない。でも……」
祭里は、下唇を噛みながら、言葉を継ぐ。
「あの人が、ただの狂った人だとは、思えないんだ。だって……」
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