第22話 『風』(2)

 空が、まるで藍染のようだった。窓から差し込む光が闇となり、代わりに天井の照明具からの冷たい光が存在感を増した音楽室で、マリナが喋りだす。


「あの日──」


 祭里は、今のような、空が暗くはなっているが、まだ完全な夜ではないような、この時間帯の学校の空気感が嫌いではなかった。


「あの日、屋上でいいんちょーや氷室と喧嘩をしてから、自分の中で、ずっと黒い感情が渦巻いてた」


 そこまで言うと、マリナははにかむように苦笑した。「喧嘩っていっても、こっちが一方的に怒ってるだけだったけど」

 しかし、誰もこれといった反応は示さなかった。マリナの方も、笑い飛ばしてもらうことも慰めてもらうことも求めていないようだった。苦笑いのままでしゃべりつづける。


「……ちゃんと、分かってたよ。いいんちょーは悪くないって。でもね──事情がわからないまま連れていかれた劇で、レンくんが倒れるところを見せられて……予測できたことじゃないとわかってはいたけど、なんでこんな日に連れていったんだ、っていう気持ちが、ずっとずっと胸の中で渦巻いていたんだ」


 マリナは、顔を伏せた。


「それで、あの日の昼休み。アタシを劇に連れていった理由がアタシを励ますことだったって気づいたとき、なんでかどうしようもなく腹が立って……」


 そこで、彼女はすぅっと大きく息を吸い込んだ。


「いいんちょーたちとレンくんの間で起こる困難を、アタシが解決しようと思っていたのに。気を遣われて、自分は何をやってるんだ、ってなって……。気づいたら、醜いプライドとかが絡みついてきてさ。拗れちゃった。自分への怒りが、いいんちょーたちに対するものに変わってたんだ。それであのとき、あんなふうに……」


 口調は穏やかだったが、深い自責の念、あるいは自嘲の念が感じ取れるような口ぶりになりはじめてもいた。


「保育園のとき、いいんちょーにひどいことを言っちゃったことがあるから、もう二度といいんちょーに迷惑はかけないぞって思ってた。でも、なんか、劇の日から、いいんちょーの顔をまっすぐ見れなくなって、それどころかまだレンくんのことが好きな自分がいて、そんな自分が嫌になって」


 祭里は、顔を伏せて喋りつづけるマリナの背中を見つめながら、彼女が話している当時の気持ちを推し量る。好きな人から眼中にないとでも言うような振る舞いをされ、自分が助けなきゃと思っていた相手に気を遣われ、そうして連れて行かれた劇で好きな人が倒れる瞬間を見せられ──。

 マリナは開けっ広げな人間だと思っていたが、もしかしたら人一番プライドが高く、責任感も強く、傷つきやすいのかもしれない。そんな彼女が、今のような境遇に陥るとは、どんなに辛いことだろうか。


「……全部の気持ちを捨てなきゃと思った。断ち切らなきゃって。自分で。だってもう、いいんちょーに迷惑はかけられないから。でも、文実には行きたくなかった。どうしても、いいんちょーの顔を見たくなかったから。見たら、理不尽に思いをぶつけてしまいそうで……。でも、文実に迷惑をかけている自覚もあった。だから──」


 せめてこれくらいはしようと思って、祭里たちがいる間、プレハブの近くにいることにしたのだという。


「……そしたらさ。さすがの観察眼だよね。いつ気づいたのか、氷室がプレハブの窓を開けて、話し合いの内容が聞こえるようにしてくれてたんだ。だから風に乗って聞こえてきた話をもとに、これから文実に降りかかるであろう困難にあらかじめ対処しておくことで、いいんちょーの顔を見なくても文実のために動けると思った」


 ──風に吹かれたんだろ。──草が。

 ──『風の噂』って言ったら違うけど、まあ、風が運んできてくれた情報だよ。


 祭里は、初回の打ち合わせの前日に聞いた氷室の言葉と、先ほど聞いた細波の言葉を思い返す。また、プレハブでの話し合いの際に、氷室がよく窓を開けていたことも思い出す。そして、『風』という言葉に含みがあるように感じられたのは、その言葉を氷室や細波が「文実のプレハブからマリナに情報を届けた風」という意味で使っていたからなのだと気づく。


「そうして、さっき話したように軽音楽部との打ち合わせをしたんだ。でも、知っての通り、上手くいかなくて。そんな時に、氷室が突然現れて、真っ向からぶつかってきてさ、大喧嘩したよ。でも、なんかスッキリしてさ。それで決意できて、軽音楽部員の好きな音楽のリサーチを始めたんだよね。そんなこんなで、今日が来たんだ」


 マリナは語り終えた。だが、まだまだ話さなければならないことが多いらしい。


「じゃあ次は、かなで。お願いできる?」


 マリナが訊くと、かなでは無言で頷いた。相変わらずミステリアスに艶めく独特の空気感を放っている。妖艶、というと違うけれど、静かに漂う色気が舞うようだった。「……正直、すごく恥ずかしいんだけど」


「わたし、レンくんのファン、なの。それも割とガチな方の」


 え、と祭里は思わず声をこぼした。彼女は、黒のワゴン車から細波が出てきたときの人混みの中にはいなかったし、彼と対面した時もそこまで彼を意識しているようには見えなかった。ゆえに、彼女が細波のファンだということは、祭里にとって意外だった。


「ほら、わたし、あんまり気持ちが顔に出ないでしょ。だから、あんまりそのことに気付かれないんだよね。でも、文実のプレハブではじめて会ったとき、気持ち悪いくらい汗が吹き出してきたし、心臓がドクドクうるさすぎて吐きそうになってた」


 そんなことはいいの、とひとりでノリツッコミでもするように話を区切り、何を考えているのかよくわからない顔のまま言葉を継ぐ。


「あの日、文実のプレハブではじめてわたしが細波くんと会った日、帰り道でのマリナは元気がなかったじゃない。だから家に帰ったあと、電話をかけたの。そこで、」


 保育園の『おたのしみかい』の一件について聞いたのだという。


「まさかあのレンくんがそんなことするわけないと思って、調べることにしたの。果たしてそんな情報は見つからなかった。だけど、なんか釈然としなくて、直接話を聞こうと思ったんだ」


 そのために、彼女はこれまで学校を休んでいたのだと祭里は気づいた。狂気すら感じるすさまじい行動力だ。


「……それで、わかったことがある。


 そこから先に続けられた言葉は、祭里にとって衝撃的ではあったけれど。非常に説得力のあるものだった。

 そのときの細波の顔を、きっと一生忘れることができないだろうと、祭里はなんとなく思った。


「それは──」

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