第21話 『風』(1)

         1


 開いた扉の先には、光を背にして立つ三人の影があった。その影の一つが、鼻を鳴らして、呆れるような口調で言う。


「──ひっどい有様。向いてないんじゃないかな、は」


 突如として発されたその声を聞いた氷室の目には、驚きというよりも戸惑いの色が浮かんでいた。その言葉の対象と思われる祭里は、口を半開きにさせて、頭の中で必死に今の状況を理解しようとしているように見えた。

 影がこちらに歩いてくるにつれ、その容貌が明らかになってゆく。さきほど声を発した影の正体は、細波さざなみ蓮だった。その後ろに佇む二つの影は、マリナとかなでのものだった。細波はうっすらと笑みを浮かべて氷室の方に向き直る。


「……どうしてお前が、って顔してるね。氷室祐介」


 氷室は澄ました顔をしているが、彼の声は怪訝なものになっていた。「細波、お前、まだ公演がある期間なんじゃ」


「──とりあえず」と言って話を途中で切ったのはマリナだ。「今日までの詳しいことは、あとで話そう」


 そう言ったのちに、彼女は口元を綻ばせた。「──ありがとな、氷室」


 氷室は「ああ」と、無表情だが照れを感じさせる声を返した。どういうことなのか、何について話しているのか、祭里はわかりかねる。


(……あ)


 祭里はふと、自分の体に変化が起きていたことに気づいた。知らないうちに、震えがおさまっていたのだ。その場にいるだけで安心感をくれるマリナのおかげだろうか。

 当のマリナは、いたって飄々とした様子で、司会に話しかけていた。


「ねえ、司会の人。いきなり飛び込んできた身で悪いんだけど、あたしたちに喋らせてもらえる?」


 マリナはそう言ったのちに、「あ、さっき言った──今日までの経緯についてのことは話さないよ。あくまで会議のことだけ」と付け足した。

 司会の彼は首を小さく縦に振ってだくした。他の生徒から異議が唱えられることもなかった。


「ありがとう。じゃあまず、レンくん」


「はーい。多分、今日の議題に僕のトークショーをやるか否かが上がってると思うんだよね。それで……」


 祭里はどうしてそれを、と思って顔を上げた。しかし、それよりも早く司会が「どうしてそのことを?」と訊いた。


「……『風の噂』って言ったら違うけど、まあ、風が運んできてくれた情報だよ」


 ──風。


 その言葉を、祭里は前にどこかで聞いたことがあるような気がした。もちろんそれは日常的に耳にする言葉であるが、なぜかそう感じられたのだった。まるで何か特別な意味を持っているかのように。


「やらせてもらうよ、トークショー。正直さ、仕事ばっかやってらんないし。マネージャーに言ったら一日、二日くらい予定空けてくれると思う」


 彼のその言葉は、祭里にとって意外だった。彼が演劇公演初日に倒れてから必死で稽古を積み重ね、先日の公演で素晴らしい演技を見せたという話を彼女は聞いていたからだ。それほどのプロ意識を持つ彼が今のような発言をするとは、一体どういう心境の変化だろうと思ったのだ。

 祭里は、彼の話を聞きながら、辺りを見回してもいた。音楽室は、数分前まで混沌としていたとは思えないほど穏やかな空気感になっていた。細波の心地よい揺らぎを持った声が、あるいは彼の纏うやわらかな雰囲気が、この場の空気を凪がせているのだろうか。

 細波の次に喋るのはマリナらしい。


「じゃあ、次はあたしが喋るね。きっと今から、文実委員が出した企画についての問題点を生徒会の人たちが挙げてくれると思う。その前に、あらかじめこっちから話しておきたいことがあるんだ」


 そこまで言い合えた彼女とアイコンタクトを取り、かなでが続きの言葉を言う。彼女の落ち着いた低めの声が、穏やかな波音のように音楽室に広がってゆく。


「……おそらく、問題点は、開会式における軽音楽部の演奏についてだと思います。去年までも軽音楽部は後夜祭のオープニングを担当してくれていましたが、今年の部員は……なんと言いますか……癖の強いひとが多いため、オープニングを引き受けてもらえるかわからない、というものでしょう」


 再び喋るのはマリナだ。今度は明るく爽やかな声が音楽室を駆けめぐる。


「それで、ちょっと前にあたし一人で軽音楽部と話し合いをしたんだ。そしたら案の定、 『俺たちの音楽を理解できるやつなんていねえよ』とか言われてさ。まあ有体ありていに言うと、断られちゃったわけ」


 しかし、マリナは諦めず、その後も軽音楽部員たちが好む音楽をリサーチし、その音楽を聴き込んだのだという。そして数日後、「俺たちのやりたいようにやらせてくれるなら、オープニング引き受けてもいいぜ」と言ってもらえたらしい。


「……どこの街だよ、みたいな名前のバンドと、象が銃持ったみたいに強そうな名前のバンドと、道でスライダーの球投げてそうな──まあいいや。はじめはよくわからなかったけど、聞いてくうちにハマっちゃってさ。リサーチのつもりだったけど、普通に楽しんじゃった」


 最近のマリナが教室にいても壁をつくっているように見えたのは、一人で曲を聴いてその世界に没頭していたからだったのだと、祭里は気付いた。しかし、なぜ一人で軽音楽部との話し合いをしたのか、なぜ前回の打ち合わせで自分が発表した内容についてマリナが知っているのか、という二つの疑問は晴れないままだった。


「……ということです。要は、その点については問題ない、というお話でした。演奏曲については、例年通り向こうに任せます」


 そう言って話を締め括ったのは、かなでだった。


「なるほど」


 司会はしきりに眼鏡にふれている。イレギュラーな状況があまりにも多く発生したため、冷静さを保つのが難しいのだろう。とはいえ、それだけではなく、納得した様子であるようにも見えた。

 その後すぐに、司会が前回より心なしか小さな声で「議事が終了したため、本日はこれにて解散とします」と言って、打ち合わせは終了となった。

 参加していた生徒が次々と音楽室を辞去していく中、文実委員は部屋の真ん中に立っている細波の周辺に集まっていた。例の細波のファンである女生徒が細波のもとに駆け寄ってきたが、細波はあくまで営業スマイルを貫いていた。それでも彼女は底抜けに幸せそうだった。


「……まさか、お前がくるとは思わなかった」


 そう言ったのは氷室だ。細波はなんとも言えない笑みを浮かべる。ただ儀礼的に口角を上げただけのようにも見えたが、それは先ほど女生徒に見せていた営業スマイルとも違った。


「……まあ、聞いてよ。氷室祐介、後野祭里。僕とマリナと手嶋さんで、今日までのことについて話すから」


 はじめに喋りだしたのは、マリナだった。


「あの日──」

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